社会保障は市場活動のインフラなり:日本福祉大学長 二木立 山形大大学院教授 村上正泰

社会保障は市場活動のインフラなり:日本福祉大学長 二木立 山形大大学院教授 村上正泰(西部邁ゼミナール 10/19&26/2013 2週放送分書き起こし)

【第一週】社会保障は市場活動のインフラなり
「自助」self help の原則はどこまで有効か>


 
子ども手当のような「偽善・欺瞞」の民主党政権による福祉政策は挫折
 
 
 
安倍政権において、社会保障はどうなるのか?三本の矢の「三本目」つまり《成長戦略》において「市場原理主義」が再び強調されている感を見るに、社会保障がどうやら二の次、三の次にされそうな気配がある。
 
 
 
しかし「社会保障の崩壊」で日本社会そのものが大きく動揺すれば、結果として《市場機構の底抜け状態》になってしまう。
 
 
 
へたをすれば、「市場経済の砂漠に没しかねない日本の社会保障」をいかに守りぬくの?
 
 
 
西部
 
民主党政権ができる頃、猫も杓子もという形で「社会保障」ね。しかも自民党もそれに調子を合わせていましたよね。それで、民主党政権が倒れたら、社会保障のことをほとんど誰も口にしなくなっって、俗論ね。まぁつまり世論のことですけども、俗論が蔓延るのは致し方ないとしても、こうまで右往左往されると、やりきれない。
 
 
 
あまりいい例ではありませんが、実質失脚された【小沢一郎】さんのことだから言い憚るのだけども、今から20年ちょっと前の頃は《自己責任》ということを言ってて、あれはグランドキャニオンかな?崖の上に鎖すら張っていない。「落ちる奴は自己責任で落ちろ」と、まぁちょっとオーバーに言えばね(笑)「それがこれからの国家の国民の生き方だ」みたいなことを(小沢一郎は)言っていて、でその同じ方がだいぶ経ったら、『国民の暮らし、生活が第一!』に鞍替えするわけだ。この場合の暮らし、生活は言うまでもないけども、「子ども手当」も含めて社会保障の充実ということがあって、そんな風にして、一人の人間の言説が《何の弁明も説明もないまま、右から左、左から右へ飛んでいく》のね。でも、日本全体もそうなんですね。社会福祉を(村上先生は)ご専門になさってて、腹立たしい思いはいかばかりか、と察しられるが(笑)
 
 
 
村上正泰
 
小沢さんが「典型」なんですけども、その時々の政策の方向性も「社会保障」をめぐって、それを充実させるという方向性と、やっぱり社会保障費を削減させようと、で、削減させる時の名目が結局は【自己責任】ということになるんですけども、その間で結局はずっと《政策が揺れ動いてきた》という側面があったと思うんですね。
 
小泉改革社会保障抑制削減⇔充実と揺れ動く)
 
 
 
民主党政権が政権をとった時というのは、「小泉改革社会保障費をガンガン抑制して、医療崩壊だ、なんだということが社会問題」になったということで、舵を切って、社会保障の充実だ!ということでやったわけですけども、そうすると、今度は《社会保障費が増えるのをなんとかしないといけないということで、社会保障費を削減していこう》という次第で、なかなか一貫した理念とか、そもそも社会保障の機能がどうあるべきか?といったところの議論が抜け落ちたまま、その時々の「場当たり的に政策をつなぎ合わせてきている」という感じが非常にしますね。
 
(機能強化や理念なき場当たり的な社会保障政策)
 
 
 
 
いわゆる「弱者救済」というか、「貧しい人、弱い人がいるじゃないか。可哀想じゃないか」と。これを社会全体としてどういうふうに保障するかというね、考え方と致しまして、社会全体が「あまり格差が広がらない、あまり上下に変動しない」つまり【安定性】ですね。《社会全体のあり様は「保障する」ということの一貫として、格差是正のために弱者対する保障ということ》が出てくる。だから、言葉にすると【社会によって、弱者を保障するのか、社会を保障することによって、弱者の大量発生を食い止めるのか、考え方としてはかなり違う】と思うんですけど、今の社会保障論というのは、どんな思いをされていますかね?
 
 
 
二木立
 
それは、非常に大事な点で「歴史」があるんです。狭い意味での「貧しい人、特別に貧しい人」を救済するというのは、別に社会保障とか福祉国家が起こる「以前」から、それこそイギリスのエリザベス朝の時代からありますよね。
 
(※エリザベス朝イングランド王国テューダー朝のうち、特にエリザベス1世の治世期間(1558年 - 1603年)を指す時代区分である。しばしばイングランドの黄金期と呼ばれる)
 
 
 
だけれども、戦後は日本だけでなく、どこの国でも、そういう「狭い人」を対象とした「社会福祉」とか、あるいは「生活保護」というのはもちろん核にあるけども、今言われている社会保障は、医療保障でも介護保障でも《もっと国民の大多数を》、特に医療なんかの場合は全ての国民を対象にしているわけで、その場合には今仰られたように、《社会保障をきちんと充実することによって、社会を支える。社会の安定性とか、共同性とかを保つという役割》が、すごく大きくなっていると思うのですよ。
 
 
 
西部
 
でも、市場がうまくWorkするためには、ベースとして、言わば【Infrastructure 下部構造】、社会のインフラストラクチャとしての「社会保障」の制度が整っていないと、例えば、強者と弱者の間があまりにも広がり過ぎましたら、強者と弱者が競争しようにも、しようがないんですね。それは相撲になぞらえれば三役と十両が相撲を取るようなものですね。そんな相撲は最初から成り立たない。ある程度の「格差」が《ある幅》に収まっていないと、【そもそも競争という場が成り立たない】ですよね。そう考えたら「市場競争」の言わば落ちこぼれをどう保障するか?《ではなくて》、【市場を《安定的に成立させる》ための下部構造としての社会保障が必要なんだ】というふうに、僕はずっと思っていたのですけども。
 
 
 
でも、そういうことが「政治のレベル」では、まだほとんど確認されていないようなきがしますね。
 
 
 
二木
 
あの、政治のレベルだけじゃなくて、学問のレベルでも、私は(西部氏の)お考えに賛成なんですけども、市場経済を効率的・合理的に維持するためにも社会保障、つまり「市場の外の制度」が支えなければならないという立場は、経済学でいうといわゆる【制度派経済学】ですね。ただし、「今の日本の経済学会というレベルで、新古典派あるいは新自由主義の経済学の場合には、逆に《社会保障も市場メカニズムを導入することによって効率的になる》という考えが強いんですね。その延長で、極度に過度に「自助」を強調する流れがあると思いますよ。
 
 
 
 
 
西部
 
【フリードリヒ・フォン・ハイエク】という人が、まぁちょっと問題はあったなぁと思うのだけど、《平等》について、「Equal Opportunity 機会の平等」=参加する機会を平等に与える、それで十分だと。それに対して、福祉社会については「結果の平等 Equal Result」=結果の平等を与える、と。この「結果の平等」が、もしも「悪平等」になると、人々の活力が衰える。といったような、機会の平等と、結果の平等と、ここで(ハイエクは)二分している。で、今の【新自由主義】というのは、完全に《機会の平等でのみで行け》と。「結果の平等」については否定という感じですよね。
 
 
 
でも、考えたら不思議で、単に形の上で「あなたカラダが大きいから、相撲取りになる機会は開かれていますよ」と言われたって、実際上は、そういうのは単に形骸ですよね。《ある程度の「結果の平等」が伴わないと、「機会の平等」すらも実質化しません》よね。ですから(ハイエクの言う)「機会の平等」「結果の平等」という風に二分してしまう、ということが、かなり《経済学を毒している》と思いますね。
 
 
 
 
 
村上
 
そうですよね。で、その問題が結局、自助共助公助というのは、お互いに結びつきあって機能する面があると思うのですけども。
 
(自助・共助・公助、一つ欠けても調和がとれない)
 
 
 
「自助」自分自身でなんとかする。「共助」今の議論の中の社会保険制度などがこれに入る。「公助」は、生活保護とかそのような政府がやるもの、ということになっているんですけども、本当はどれか一つが欠けても社会的にはうまく調和出来ないと思うんですね。それらを区切って、その中の「自助自立」をあまりに強調しすぎてしまうというところが、やはり【新古典派経済学】的な考え方から、発生している問題としてあると思います。
 
 
 
 
 
西部
 
最近、(自助共助公助に)もう一つ付け加えて『互助』というのも入れるんですって?
 
 
 
 
 
二木
 
「自助」という言葉は、明治時代以来の歴史がありますよね。それから、「共助」とか「互助」といういのは、元々はほとんど同じ意味だったのですよ。「地域社会での助け合い」とか、あるいは「労働組合とか協同組合での助け合い」、これが「共助」ですよね。
 
 
 
それで、1980年代、90年代の前半くらいまでは「公助」というものは、社会保障という意味で使われていたんですね。それが、1996年の小泉内閣の頃の審議会で「社会保険が「共助」だ!」という独特の定義をして、これは現在まで使われているんですね。それで今、村上さんが仰ったように、一昔前は、公助=社会保障全体 だったのが(今は)公助=貧しい人の生活保護とかに『限定』されたんですね。
 
 
 
そうすると、社会保険を「共助」と言うと、伝統的な地域社会の支え合いとか、同業組合の支え合いの居場所がなくなってしまいますよね?それで、慌てて「互助」という言葉が追加されて、だから今は、自助・互助・共助・公助と4つという言い方と、3つの言い方がチャンポンになんですよね。

 
 
 
西部
 
いずれにしても、具体レベルで言うと、「自助」というのは、「天は自ら助くるものを助く」、ようするに「自分でやれ」ということで、でも、こっち(共助・公助)の方は家族とか地域社会とか、あるいは中央政府、地方政府そういうものがいろいろ組み合わさって、実際にはどういう風な複合、MIXでやるかってことが。でも考えてみたら「自助」って言葉が昔っから気に入らないんですけども、その意味はちょっとお話しますけども。
 
 
 
 
 
個人の人格のベースには共通性があり、孤立・独立したものではない。社会保障を論じる時に、「勝手に皆は別々の個人である。個人で己自身をなんとかしろ」と、その発想自体が非常に皮相(※物事の表面、上っ面、うわべの意味)というか、表面的でいただけないね。
 
 
 
 
 
村上
 
ところが、最近、安倍総理はですね、この社会保障の制度改革についての議論をする時には「自助自立が第一である」と言うことを仰ってまして、恐らく、世間でいわゆる「保守系」と言われる人たちにはですね、「あまりに依存心ばかりが強まると、社会的弊害が大きくなる」という趣旨を込めて主張される方が比較的多いようにみえますね。
 
 
 
ただ、先ほどの社会保障というものを、どういうふうに捉えるのか、「社会を保障する」ものであるという観点からすると、自立精神が衰弱して、社会的な統合とかが崩壊していくというプロセスもあるんでしょうけども、それと同時に「自己責任」をあまりに強調することで、《公共的な支え合いの機能が衰弱しても、結局は社会は成り立たない》んだという点をまったく考慮しないまま、「自助自立が第一だ」というところから、最近、議論がスタートしている。
 
 
 
 
 
西部
 
話がズレるようだけど、考えたら【保守】という言葉も、日本の現代の保守という言葉はアメリカから来て、アメリカは建国以来、簡単に割り切っていえば、有る意味では「個人主義の国」ですから、アメリカのインディアンを殺して、未開の広野で勝手に流れ者たちが「個人」としてやって、そこで個人が集まって「コミュニティ」を《契約》としてつくるとか、社会をつくる。ですから、アメリカの建国の保守精神は「個人主義」なんですよね。(※アメリカ建国の保守精神は「個人主義」)、でも《ヨーロッパは逆》ですものねぇ。ヨーロッパで「保守」といえば、言ってみれば「コミュニティを Conserve 保守する」という意味ですものね。ですから、一つ一つの言葉の意味まで吟味しないと、社会保障論が右往左往しちゃうのね。
 
 
 
 
 
二木
 
安倍総理の「自主自立」を強調されることに、私は「二つの点」で疑問があるのですよ。[一つ]は、『社会生活の問題で、社会保障の問題を混同している』と思うのですよ。「社会生活」の場合は、村上さんの仰られたように、自助とか共助とか公助の組み合わせ、どれが絶対ということはないと思うんですよね。だけど「社会保障」というのは、国民全体の下支えとして出てきたもので、個人個人が「自助」だけでは出来ない、地域社会の支えだけでは出来ない、同業組合の協働だけでは出来ないから《国家》が関わって、社会保障が出来てきたわけだから。
 
 
 
社会保障」の場合に、社会保険が中心だ、というのだったらわかるんです。だけども、社会保障制度に関しても、「自助」ということを強調されることは、社会保障の歴史を踏まえていないんじゃないだろうか、というのがまず一点。
 
 
 
[もう一点]は、「自助は、どこまでが自助か?」という点。小泉元首相は、新自由主義の権化みたいな人でしたから、彼の言う自助というのは「個人」だったんですよ。だけど、安倍さんの場合には、本人プラス家族が一体で「互助」で、私は調べてみましたけども、こういう使い方は、去年の自民党の社会保障制度基本法案がはじめてで、それがこんどはじめて出てきたんですよ。
 
 
 
去年、民主党と自民党と公明党で「社会保障制度改革推進法」という法律ができましたね。その時には、「自助と共助と公助の組み合わせ」という形で、許容範囲の表現だったんですけどね。今度、8月21日に、安倍内閣が閣議決定した「社会保障制度改革のプログラム法案」ですね、「本人と家族を含めて「自助」」それが第一だ、と書いてある。ちょっと、アナクロニズム(※時代錯誤、の意味)だと思いますね。
 
 
 
 
 
西部
 
なんか「家族」を入れるところで、保守の面目を保とうとした(笑)
 
 
 
ただ、いずれにしましてもですね、面白いことで「自助」って簡単に言いますけども、『自己』と言ったって「その瞬間」に生きているだけじゃなくて、ある《その人の将来の見通し》ってありますよね。そうしないと「自分がどれだけ金を貯めるか、云々」を含めて、やっぱり《自分の将来の事を含めた Vision 見通し がないと、自己もへったくれもない》ということ。ところが、「将来をどのように見通すのか?」となった時に、仮に「自分が首を切られたらどうなるのか」「ケガしたらどうなるのか」云々、、《自分の将来の見通しについて、社会がどういう制度を、どういう見通しが大まかに与えられているか、が無いと、自分自身をも助けようもない》んですね。
 
 
 
ですから、社会と切り離して「自分自ら助ける」ってことは、本当に「明日に生まれて夕べに死す」ような陽炎のごとき自分でしたら、政府の公の関わりなしに、自分で考えられますけども、そうはいかないですよね。
 
 
 
 
 
 
 
村上
 
社会保障」というのが、結局は「費用の負担面」ばかりが議論されているんですが、単なる負担ではなくて《社会の安定性、経済活動の基盤》として存在するものである、という【社会保障制度の中長期的な安定の中で日々の経済活動も可能になる】という、そういう側面がぜんぜん見えてこなくてですね。社会保障の議論をする時って、必ず「負担が増えて大変だ」とか、そんな話にすべていってしまう。
 
 
 
 
 
西部
 
しかもねぇ、村上さんに言うのは釈迦に説法でしょうけどもね、僕は「将来」「未来」「見通し」と言いましたけども、僕は74歳ですけども、将来を見通してみますと、もうじき死ぬんですよ(笑)僕が言いたいのは、人間はいずれ「将来」ということは、《いつか The END が来る》ということですよ。それは【死生観】の問題ですよね。「人間は生きて、死んで、自分の生涯で得たものを精神的にも物質的にも、誰かに預けて、託して、財産で言えば相続させて》、もちろん社会保障論でそれが直接、出来はしないと思うけど、でもそういうことも今の時代というのは、あれですね。【新自由主義】というのは、「短期的に今の瞬間だけ儲かるか損するか」そういうところで動くような人間を想定して、それが社会保障論まで来ている。(※今の瞬間だけの短期的な損得で動く新自由主義) そろそろ人間ってのは産まれて生きて死ぬもんだ、と。そこには「家族」だけではなくて「地域」の、もっと言えば「国家全体」の、国家で限定して狭ければ世界もね。そういうふうにしてずっとつながりながら、死んでいくんだ、というその辺りのことを、なにごとか含めながら議論しないと社会保障論というのは、うまくいかないですね。
 
 
 
 
 
村上
 
その辺が、今の社会保障制度改革の議論でも、ほとんど抜け落ちていてですね、表面上の財政的な辻褄合わせとか、あとは大きな制度をどうするかという議論はあるんですが、いちばん肝心なそういうような「死生観」とか、その辺の議論というのが出来ていない。
 
 
 
 
 
二木
 
今のことをあえて、社会保障制度改革国民会議の報告書を弁護というか、評価すると、そこの医師の委員、大島先生(※大島伸一 国立長寿医療センター総長)なんかが中心に、その「死生観の問題」特に《終末期ケアのあり方》について、「国民的に議論すべきだ」という問題提起はされていると思うんです。私も議論することは賛成なんですが、私自身は、《最終的な死生観は、個人差がものすごくある》んですね。ですから「終末期医療のあり方」を、法律で縛るとか、ましてや、法律で例えば、「経管栄養」とか「胃ろう」とか評判が悪いですよね。「あんなものは禁止する」とか、そういうことではなくて、《国民に十分に情報を提供した上で、本人と家族が「選べ得る」ようにしないと、「死ぬ権利」どころか「死ぬ義務」に転化してしまいます》よね。私は、それが怖いんで、あくまでも法制化ではなくて、国民の合意する議論をするべきだと思っています。
 
 
 
 
 
西部
 
自分の生涯の決め方というのは、国でも家族ですらなくて、結局は《自分なんだ》という形で、そこで言えば「自分」というものは、どうしても残りますよね。
 
 
 
 
 
 
【第二週】デフレ脱却に必要な国民活力
 社会保障を軽んじるのか、アベノミクス>
 
 
アベノミクスの主眼は「デフレ脱却」にある、確かな景気回復までは「消費増税を見送るべき」という声もあるなか、
 
 
 
「消費税を社会保障に回すという路線」が崩れてしまうと、<デフレ脱却に必要な国民活力の増強がおぼつかなくなる>という恐れも生じる
 
 
 
同時に、<消費税という低所得者層にとって重荷になる類の税金で、社会保障を賄うのが、適切かどうか>という問題も発生する
 
 
 
 
 
 
 
 
消費税を目的税化、つまり説明すれば、社会保障という福祉、それに特定化して使おうということ。言うこと自体は「制度的安定」として必要かな、とは思う。ただ、《消費税というのは、所得に対して逆進的》である。つまり、低所得者にとっての消費税の負担割合が、多くなる。
 
 
 
同時に、<法人税を景気回復のために、企業の投資活力を増やすために、法人税の減税>ということなどを加え合わせると、今の政権が考え方として、《逆進的》な、もっとも一般化して言うと、いわゆる《応益説》といいうんですかね。「個人は自分が公共サービスから受けた、利益応じて支払う、あるいは支払わせる」ように税金なり、保険料なりを徴収せよ、という「応益説」的な考え方が次第に強くなっているという気がする。その点についてはどう思いますか?
 
 
 
 
 
村上正泰 
 
やはり、この消費税も「社会保障の財源に」ということで出ているんですけども、<社会を保障するためのもの>、その社会的な統合に資するためのような「共同的な取組」であるいうものが社会保障であるとするならば、そうしたものの財源というのは基本的に「応益説」ではなくて《応能説(※能力に応じた負担)》で、「社会全体で負担を分かち合う」いうのが、本来の理屈としてはいちばんあるべき姿なのではないかという風に思ってまして、今仰られた「法人税減税」とか、その辺を考えると、ぜんぜん(それとは)逆の方へ行ってると。
 
 
 
税金はいろんな種類がありますので、実際的には「応能的な部分」「応益的な部分」いろんな組み合わせで、税全体の体系ができていくのだと思いますし、そういう中で、<消費税の税率自体は、それほど高いわけではない> ので、そこに負担増の余地があるというのは確かだと思うのですが、今、「財源の議論」が、《もっぱら消費税の増税だけに偏ってしまって》いまして、例えば「所得税」も過去、「累進課税をかなりフラット化」させてきました。ここ最近、ちょっとずつそこを戻しつつはあるのですが、もうちょっと、《所得税の累進性をかつてのように、高額所得者には負担してもらうような形》にしたりとかですね、そうしたことも【セットで議論すべきこと】(※消費増税とともに議論すべき所得税の累進性)が、何やら、消費税のところだけに特化しているのは、議論として不十分というか、税全体の体系も歪んだ形になりかねないのではないかと感じます。
 
 
 
 
 
 
これは、考え方の問題かもしれません けども、
 
 
 
Willing to pay 応益負担 受ける利益に応じた負担▷応益説
 
(自分はこういう利益を受けるから、利益に応じて払う意思がある)
 
 
 
Ability to pay 応能負担 能力に応じた負担▷応能説
 
(負担する能力があるものが、多く負担する=金持ちが多く負担する)
 
 
 
応益説の方はアングロサクソン系。北欧方面も含めて。
 
 
 
対して、ドイツその他のゲルマン・ラテン系から出てきたのが「国家全体・社会全体を全員でどう安定させるか」という考え方。こうなると、多く所得のある人間が多めに負担せよ(応能説)といいう考え方ですよね。
 
 
 
もちろん(応益、応能)両方あってよいのだけども、「応益」説が基礎でしょうね。社会の基礎は応能説で、しかしながら表面から見れば皆、個人差があるので、応益説も加味してもよいが、あくまで「下部構造は応能説」で、そして「上部構造は応益説」ということになるだろう。ただ、こういう仕組みすら、しっかりされていないかんじですねぇ。
 
 
 
 
 
二木立
 
私は前回の放送で、「社会生活の問題と社会保障は別」だという話をしました。同じようなことが、このことについて言えまして、私たちが個人として社会生活を送る場合には、モノやサービスを買うことによって、様々な「効用を得る」ので、その利益に応じてお金を払う(応益)というのはある意味で当たり前ですよね。
 
 
 
だけども「社会保障」が対象としている「医療」とか「介護」の場合にはには、例えば「病気になったら普通の生活よりもマイナスの状態に陥る」わけです。で《その「そのマイナスの状態」を治すのが医療保障》ですよね。「介護保険」の場合にも、例えば「寝たきり」で、《マイナスの状態を少しでも、正常な生活に近づけるために保障する》わけですよ。ですから、この場合に「それは“益である”」と言われるのは、ちょっと無理があると思うのですよね。負担の問題でしたら、基本は《能力に応じた負担》だと思いますね。それがまず一つ。
 
 
 
もう一つは、今、主に「税金」のことでお話がありましたが、社会保障の場合には、日本の場合には、《社会保険が中心》ですから、例えば「医療」を例にとると、「5割が社会保険料」それから「4割弱が税金」なんですね。あえて「社会保障制度改革国民会議」の報告の <評価すべき点> を言いますと、この「保険料負担」に関しては、「能力に応じて負担」ということをすごく強調されているんですよ。それで、今は「社会保険料に上限」がありまして、国民健康保険もお金持ちですと、上限がありますから負担はむしろ減るんですね。『その上限をさらにあげよう』という積極的な提案をむしろしているんです。ただし、村上さんが仰ったように、《税金の問題はまったく触れていない》んですね。
 
 
 
 
 
村上
 
あと「社会保障制度改革国民会議」の報告書で一つ言わせていただくと、二木先生が仰ったように、「保険料の部分では能力に応じた負担」というのを出しています。と同時に、「自己負担」についても「能力に応じた負担」ということで、高額所得者は、例えば「医療保険」で言えば、「病院にかかった時に、窓口で払う自己負担を上げたり」とかです。そういうので、より負担してもらおうということを出してきていまして、そうすると「保険料」でも、能力に応じて予めたくさん出して、窓口でもたくさん出さなければならない、ということになると、高額所得者にとってみるとですね、「保険料を通じて皆でリスクを分かち合って、拠出する部分でも多く取られて、しかもそのメリットをなかなか受けることが出来ない」ということになると、結局、<その保険に加入している意味というのが、非常に薄れてしまいかねない> んですね。
 
 
 
従って、保険料とかは基本的に「能力に応じた負担」というのを原則に据えていくべきだと思うのですけども、「サービスを利用した時の自己負担分」とかは、やはり、はじめ保険料を拠出する部分で、能力に応じた負担をすでにしているのだから、ある程度、所得にかかわらず「公平にサービスを受けられる」という形にしておかないと、そもそもの保険の意味自体も薄れてしまうのかなぁと。
 
 
 
 
 
西部
 
その財源確保というね、財政上の当座の必要にかられて「金持ちが保険料であれ、何であれ、多めに払う」というそういうことになっているのね。まぁ〜それは仕方ないんですけども、でも「考え方」と言ったら、「○○さんは大金持ちである」という、そのベースは「○○さんが、日本の国民の一人としての大金持ち」で、その「国民」というところだけを、もしも強調したらですね、《(いち)国民としてのキャパシティ、能力ということを考えると、○○さん個人が「どんな利益を受けたか」以前に、金持ちの人は、それだけ国民性が強いと考えて、それに応じて支払額も保険料であれ、税金であれ、多めにする》というのが、まずベースにあるんだ、というのを抑えた上で、しかしながら、なんといっても○○さん個人がいるわけですから、その時には応益説で、自分が医療サービスを受けたのか、どうなのか、ということもぜひ勘案せざるべからず、という、そういう風に整理されるんでしょうねぇ
 
 
 
 
 
二木
 
あと「医療」の例で言いますと、医療の中核的なサービス、「診断」とか「治療」ですね、この問題と、その周辺の「心地よさ」アメニティの問題に分けられるんですね。(※ Amenity 快適さ、喜ばしさ)
 
 
 
私は少なくとも「医療の中核部分は、平等に保障すべき」と思うのです。その周辺の、つまり「本人の希望で、例えば、個室を利用する」とかであれば「応益説」で構わないと思うのです。だけども、《医療の中核部分=診断、治療》は『マイナスの部分から正常に近づくサービス』ですからね、あくまでも税金と社会保険料を「能力に応じた負担」にすべきだと思いますね。
 
 
 
 
 
西部
 
税金問題に極端化して言えば、個人を重んじて、個人の感じる利益を重んじて云々ということを、極端化すると、一番単純でいいのは、【人頭税】になっちゃうんですよね。「一人頭。Per Head 同じですよ」ね。でも、そんなことはサッチャーさんですら出来なかったわけで、人頭税といったら封建時代にちょっとあったかのものであって、人頭税そのものよりもそういう【個人主義】的に税金を考えていくと、絶対にデッドロック(行き詰まり)に乗り上げる。
 
 
 
どこかで「累進」、「収入が多ければ、それなりに多く払う」という、それで国家・社会全体が安定して、《その安定性の上に、金持ちも貧乏人も共にそれなりに活躍する》という、そういう風に考えざるを得ないんですよ。
 
 
 
ですから、実際上、皆「累進性」をとっているわけですからね。累進所得税の本質的な意味というのをしっかり押さえれば、いろんな議論が整理されるとおもうけども。
 
 
 
 
 
村上
 
ノーベル経済学賞をとった【ジョセフ・スティグリッツ】なんかも、やはり、アメリカでも「格差問題」が非常に経済全体に不安定性を、というのが問題になっているなかで、やはり《所得税などの累進性を少し強めるだけでも、いろんな解決できる道がひろがる》ということで、「もう少し、累進性を強化すべき」だとか、そういった提案もしていますね。
 
 
 
 
 
西部
 
NHKで深夜やっていたのは、「オレゴン州」ですから、カリフォルニアの上で、僕は木材しかとれなかったんじゃないかとおもうような田舎の州ではあるんだけども、そこでどんな「悲惨なこと」が起こっているか、つまり「大学を出ても職にありつけない」、「40前後にして首を切られて、子供3人抱えて路頭に迷う」、電力もストップされる、レンタルの住居も追い出される、最後はキリスト教の慈善団体で《フードバンク》というのかな?「餌をもらいにいく」という、あぁいうのを報道されていましたけども、そういう風にして、広い意味でアメリカの社会保障制度が【個人主義】に傾き過ぎたせいで、いわば全面崩壊している、(※個人主義に傾き崩壊、アメリカの社会保障制度)ということ。そういうことを、日本人は肝に銘じれば、「それに近寄る必要は何もない」と思うのだけど、「小泉さん以来」、そして残念ながら「安倍政権」においても、《そういうアメリカ的な傾きを「払拭しようというい強い意志性」は感じられない》ですね。
 
 
 
 
 
村上
 
社会保障制度改革国民会議の議論でも、「社会保障の機能強化」ということで、その充実を図る路線が出てくる一方で、政府の中にある様々な他の会議、「経済財政諮問会議」とか「規制改革会議」とか「産業競争力会議」とかそういうところでは、《小泉政権期というか、それ以上にの「規制緩和」とか、その「構造改革路線」》で、例えば「医療とか農業みたいなものを “岩盤規制である” と呼んで、岩盤規制をぶち壊せ!」とかいう議論を相変わらずやっていると。
 
(※岩盤規制改革を壊せという規制緩和・構造改革路線)
 
 
 
しかし、考えようによっては「岩盤規制のようなしっかりした制度の規制が “岩盤としてある” からこそ《社会の安定性》とかそういうものが維持できる」のであって、今だにそういう議論が根強くあって、かなり政府の方針も(それらに)左右されてしまっている。
 
 
 
 
 
西部
 
普通ね「岩盤」とか言ったら、元来は例えば、《家を建てる時には良い言葉》でねぇ。しっかりとした基礎の上に家を建てる。その逆が《液状状態の家》で、すぐ流れていってしまう。
 
 
 
何か、自民党と民主党が国会で議論しておりましてですね、民主党側が「社会保障がなければ経済成長はあり得ないんだ」ということを言わんとす。それに対して今の安倍政権が「経済成長があってこその、社会保障の財源が出来るんだ」と。《これはニワトリと卵の話》でどっちでもいいんですけども、考え方から言ったら【これに限って言えば、民主党側に部がある】と思うのです。
 
 
 
「社会の捉え方」として、【岩盤】ですよね。【社会の安定した基盤があって、少なくとも長期的な経済成長は可能になる】というね。そうだと思うのですけども。
 
 
 
 
 
二木
 
正確に言いますと、「小泉政権時代の自民党」と、「その後の福田・麻生内閣」、後者は一年ずつしかなかったですけども、実はかなり違うんですよ。
 
 
 
社会保障の機能強化」先ほど村上さんが仰いましたけども、あれを最初に強調したのは「福田・麻生内閣時代」でして、それを「民主党が引き継いで」、それで「社会保障が経済の下支えである」ということを言ってですね、《今の第二次安倍内閣になったら、その辺がふらついている》んですよ。
 
 
 
一方で、「社会保障が経済の原動力になる」と言ってみたり、「社会保障は重荷で」と言ってみたり、例えば、消長のレベルでいくと、厚生労働省と、内閣府、あるいは経済産業省ですね。かなり意見の違いがあるとか。政権内部でも、非常に微妙なところがあると思います。
 
 
 
私自身はこう考えているんです。
 
社会保障は、社会生活の下支えだけではなく、経済成長も下支えだと思う」んですね。ただ、社会保障というのは、例えば「医療」などは「人件費が半分の世界」ですから、《それで経済をドンドン発展させる推進力にはならないと思います》ね。
 
 
 
尚且つ、「社会保障のπを大きくしよう」とおもうと「公的な費用を含めた等」にしないといけないと思うのですよね。
 
 
 
だから、私は「社会保障」はすごく大事だと思うし、社会生活という点では絶対に大事。だけど、経済成長という点においても、あくまでも《安定成長の下支え》ぐらいに押さえたほうがいいと思いますね。
 
 
 
 
 
西部
 
仰る通りですね。
 
現代社会は、言わばイノベーティングに、いわゆる「革新」をいろんなところに作りだして、良かれ悪しかれそうしかなりようがない。でも、その「イノベーティングな力」が、何処から出てくるか、勿論、最終的には個人のオツムから出てくるんでしょうけども、個人の力なんてのは、有る意味で限られていますから、結局は《集団の力》ですよね。もっと言えば「組織の力」とか、「集団の力」ですよ。でも、そういうものが《安定》していないと、結局のところは成長の本源的であるイノベーションは起こらない。長期的には、たぶんそうなんだと思う。(※組織・集団力の安定なくば、イノベーション innovation は起こらない)
 
 
 
だから「社会保障」というのは確かに基盤なんですけども、《将来の見通し》というのかな、それを明らかにするという意味でも、かなり重要なことなんですね。
 
 
 
いわゆる「左翼的な人たち」が、ひょっとしたら何百年に渡って、「貧しい者は可哀相じゃないか。弱い者は可哀相じゃないか」という「弱者保護」の、有る意味で【ヒューマニズム社会保障を論じ過ぎてしまって】、そうするとそのヒューマニズムというのは、何もかもうまくいっている時は麗しいもので良いのかもしれないけども、現代資本主義のように、いろんな危機的状況が国内外に押し寄せ始めると、《手のひら返したようにエゴイズムが出現します》からね。そうすると、「弱者救済なんかやってる場合じゃない!俺は俺のことが第一だ!!」という《そのシーソーゲーム》がまた始まっている感じがする。
 
 
 
 
 
村上
 
かつてですと、それは政権が変わったりとかですね、そういう中で、なんか方針が少しずつその間を揺れるということがあったのですけども、ここ最近、特徴的なのはですね、《同じ政権の中で「違う二面」が混在していて》ですね、非常に政府の中でも意志決定が複雑化してるというか、それこそ液状化していてですね、いろんな本部ができて、いろんなところで報告書まとめて、閣議決定だ、法案だ、というのを作ると、その間でぜんぜん「整合性が取れていなかったり」、社会保障制度をどうするんだ、というそもそもの「理念からして非常にフラついた」形に。
 
 
 
 
 
西部
 
僕ね、最後にね、時間きたらお二人に聞いてみたいことがあるんですけども、それは、なんというか「政治家の場合」はね、ちょっと古い言い方ですけども、いろんな風な圧力団体、利益集団の要求を直接的に受けるようなところがあって、右往左往するのを、まぁ〜民主主義政治だからやむを得まい、と思うのだけど、あなた(村上)は今まで財務省の役員をやってらして、先生(二木)も政府のことにお詳しいと伺って、やっぱり政府の役人こそはね、今現在の利益だけ、支払いだけ、じゃなく【国家の長期的な枠組・あり方を論じる】のは、政府役人の、とりわけ幹部役人ともなれば《それが最大の役目》だと思うのですけども、どうも新聞・TVを見ている限り、《むしろ役人の側が、率先して「目先の」「ちょっと目立ちそうな改革案」とか、あるいは「経済方面、もっと言えば大企業方面から人気がいいような政策を思いつき政策処方箋を書いてくる」という傾向》が、最近、目立つようになってきているんですけども。
 
 
 
 
 
村上
 
本当にあの特に「若手中心」にですけども、《新自由主義的な考え方》にもう脳みそ全体が埋めつくされてしまっていて、単に人気取りでやりたいとかそういうだけではなくて、《本当にそれが正しい政策だと思っている、信じている》
 
 
 
 
 
西部
 
信じているか、もしくは「新自由主義的なモノ」ってのは、非常にシンプル・マインデッド、単純ですからね。「考えやすい」「処方箋を書きやすい」あるいは「対象を批判しやすい」というね。せっかく、まぁまぁの偏差値坊やであった役人たちが、単純な方、わかりやすい方、書きやすい方に流れているという。だから、「信じているかどうかも疑わしい」じゃないか? 今の役人たちに、そんな信じるような立派な価値観があるとは思えない。なんか「易きについている」という気配の方が強いと思いけどね。
 
 
 
 
 
二木
 
内閣府とか、経済産業省のお役人には、特にその傾向が強いと思います。ただ、私が知っている範囲では《厚生労働省はちょっとそれとは一線を画しています》から、「国民皆保険を守る」とか、それから「医療分野への市場原理の導入(混合診療の導入、病院経営の株式会社化解禁等)には、小泉さんの時代においても頑強に反対している」のですよ。
 
 
 
これは「理由が二つ」ありまして、一つは、先ほど言いましたが「社会保障は日本の国民生活の基礎なのだから、これを壊す・弱めると、日本社会の安定性・統合性が崩れる」ということ。
 
 
 
もう一つは、今日は時間の関係で詳しくは言えませんが、アメリカの例でお分かりのように【「社会保障分野、特に医療分野に市場原理を導入すると余計に費用が増えてしまう」】のですよ。少なくとも今の財務省は、医療分野への全面的市場原理導入に反対をしています。なぜかと言えば、《これをすると公的な医療費が増えてしまう》のですよ。
 
 
 
【アメリカは国民皆保険の無い唯一の国ですけども、GDPに対する公的医療費の割合は、日本よりずっと高い】ですから。国家の医療費抑制という目標がありますね。私は賛成ではありませんが。その点から見ても、医療分野に市場原理を導入すべきではない、というのが厚生労働省の大勢、それから財務省の有力な意見だと思いますね。そういう点で同じお役人と言っても、経済産業省などとは区別をしたほうがいいと思いますね。
 
 
 
 
 
西部
 
なるほど。悪いのは経済産業省か(笑)
 
 
 
 
 
【次回】ビジネスマンの国家論
 
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