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表現者塾『保守の経済思想』 中野剛志 × 富岡幸一郎 × 西部邁

表現者塾『保守の経済思想』

中野剛志 × 富岡幸一郎 × 西部邁

評論家 中野剛志 近著『保守とは何だろうか』(NHK出版新書)

文芸批評家 関東学院大学文学部教授 雑誌『表現者』編集長 、鎌倉文学館館長 富岡幸一郎

評論家 雑誌『表現者』顧問 西部邁 最新著『中江兆民 百年の誤解』(時事通信社)20日発売、『もはや、これまで一経綸酔狂問答』(PHP研究所)22日発売

【放送第一週】

ニコ動

西部邁ゼミナール】保守の経済思想【表現者塾第三回】2013.11.16

http://sp.nicovideo.jp/watch/sm22264884?cp_in=wt_tg

富岡幸一郎

中野剛志さんにゲストで来ていただいて、『保守の経済思想』というお話になると思います。ただ、この「保守とは何か?」あるいは「保守主義とは何か」というですね、そういう大きな枠組は、この表現者塾の3カ月一貫してある。それを様々な角度から総合的に考えようと。または皆様とそれを議論していきたいという風に思っています。

中野剛志

「保守とは何か?」という時に、特に「経済方面」について「資本主義」について、どう考えるべきかというのが、これは世界的に見ても曖昧だと思います。かなり乱れているので、それはそれなりに「理由」があるんですが、『経済』ということにフォーカスを当てると、保守というものの意味、あるいはその難しさ、その概念をとらえる難しさというのが、よくわかるもんですから、経済にフォーカスを当てております。ですから、有る意味「挑戦」的なんですね。チャレンジグな試みです。

今、経済体制というのは基本的に「資本主義」です。で、資本主義というのは、【ヨーゼフ・シュンペーター】が言ったように『創造的破壊』といって、常に現状を革新してえ壊して新たなものを創っていく、というような【クリエィティブ ディストラクション Creative Distractionの過程】であると。つまり、《資本主義自体が、保守ではありえない》ですね。

そうすると、資本主義体制の中では、革新ではなくて「保守する」ということ自体が非常に厄介なものになってくる。糅てて加えて(※その上、おまけにの意)そこに【冷戦】という難しい問題が入ってきて、冷戦体制になると、西側諸国は資本主義で、東側諸国は社会主義と、ところが、この場合の《東側諸国の社会主義》というのは「資本主義よりもより大きく革命を起こす」、資本主義の創造的破壊よりももっとラディカルなものが出てきてしまったので、その全体主義的な社会主義に比べたら、「資本主義の方がまだいい」ということで、冷戦構造の下では、保守と言われる人たちは、やはり西側の考え方、つまり《社会主義的な革命を阻止しよう=資本主義を守ろう》という方向にどうしても立ってしまったんですね。

ところが、さっき申し上げたように、資本主義それ自体が『革新の運動』をもっているものですから、ここで保守というのは《厄介なこと》になるという、こういう問題があるということですね。

1980年以降、【新自由主義】という考え方が台頭して、イギリスのサッチャーや、アメリカのレーガン、日本ですと中曽根内閣になるでしょう、「保守」を標榜するような政党が、こういう新自由主義、つまり『小さな政府』とか『規制緩和』『グローバル化』、「市場に任せる。政府はできるだけ介入しないほうがいいんだ」こういう立場をとったんですね。『道徳』や『政治』の分野では「保守的」といわれてもおかしくないような主張をかなり強調しながら、<『経済』方面については、市場原理主義的・新自由主義的な考え方をとる> というのは、80年代に流行りました。

でしかも、90年代に入り「冷戦崩壊」後、ますますその傾向が強まった。日本の場合は、自由民主党を代表とする保守政党といわれる方が、抜本的『構造改革』を断行するというのが、この時期からはじまったということで、むしろ、構造改革に反対しているのは、むしろ『革新』と呼ばれるような政党の方なので、《もう何がなんだかわけが分からなくなってしまっている》ということですね。

幾つか、「考えるヒント」となるようなことを挙げていきますと、【福田恆存】という文芸批評家、保守の知識人を代表する思想家と言われています、実際にそうなんですが、彼が1959年に『私の保守主義観』という非常に短いエッセイを書いています。

(※参考サイト/ http://akiz-e.iza.ne.jp/blog/entry/942445/  / http://akiz-e.iza.ne.jp/blog/entry/2799832/

そこで、福田恆存というのは、こう言ってまして『保守というのは【態度】である。イデオロギーとしての保守主義などというものは、あり得ないんだ。』とこう言いました。『保守主義者などとは呼ばないでくれ!』と、まぁこういう趣旨なんですね。だから【保守】というのは、例えば「自由主義」とか「共産主義」とか「社会主義」とかと違って、理論ではなく、何かその「日常生活の伝統を守りしょう」などという《生活態度みたいなもの》だと、福田恆存は1959年の段階では言ってました。

じゃあその「革新的なイデオロギー」が保守を潰しにかかるのに対して、どう対抗すればよいのか?と言うと、[福田恆存説]によれば、『何かイデオロギーで言い争って、「共産主義の問題はここがおかしい」とか、そういうを言うのではなく、【態度で納得させるべき】である。保守というのは、常識に従い素手でおこなって、それに斃れたならば、万事を革新派に譲ればよいではないか。』とまぁ、最後にそう言うわけですね。でまぁ、そういうのはいいのですが、今その「保守と言われる人たち」が、『抜本的構造改革』とか『革新』とか言っている時代ですので、実は『保守は常識に従い素手でおこなって斃れた』んですね(爆笑)で、『万事は既に革新派に革新派に譲られていまして』ですね(大笑)、じゃあ、福田先生、どうすればいいのですか?と。

つまり、1959年の段階では(福田恆存らが)そういうことを言っていられたのでしょうけど、申し訳ないけども、今はもう既に万事、革新派に譲られているんですけども、どうするんですか、こういう話になってしまっているということなんですね。

保守思想がよく根付いているといわれるイギリスなんか見ても、例えば、保守思想家と言われる人は【エドマンド・バーク】、【ベンジャミン・ディズレーリ】あるいは、私がとりあげた【サミュエル・テイラー・コールリッジ】(※参考サイト/  http://www.nhk-book.co.jp/ns/detail/201310_2.html)この人たちは理論家というよりは、政治家とか詩人なんですよね。だから、確かにその「理論」とか「イデオロギー」ということからは縁遠いのは事実なんですね。事実なんですけども、「じゃあ、なぜ保守的な態度の方がいいのですか?」ってやっぱり聞きたくなるわけなんですね。逆に言うと、やっぱり福田先生(※福田恆存)は、「保守的な態度がなんでいいのか」それを正当化する理由を、やっぱり説明するはずなんですね。そうすると、その「説明」というのが何か一貫性のある論理にもとづいていないと、説明にはなりませんから、その説明というのはやっぱり【思想】なんですよね。『保守的な態度を正当化する思想のことを保守主義と呼んだ』って別にいいじゃないかと。まぁ、福田先生が、このエッセイ(※「私の保守主義観」)を書いたときの時代背景というのは、『イデオロギー闘争の時代』ですから、その文脈で福田先生はそう仰ったのだと思うのですけども、私自身は「保守は保守主義じゃないんだ」とか、あんまりそういうことにはあまり関心がないですね。別にだから、私自身は保守主義という言葉には、さほど抵抗がありません。

西部邁

中野さんに大賛成なの。僕は最初から自分のことを【保守主義者】として、ワザと「主義者」としてね、いわゆる【西尾幹二】その他を苛立たせるように(笑)やってきたんだけど(中野:爆笑)、それをちょっと言うとですね、おそらく福田さん(※福田恆存)は、文芸批評家だから仕方がないですけど、彼らが「見落としたのはですね、イデオロギーでも理論の体系でも、哲学の体系でもいいんですけども、『そういうものの中に「認識論」的に言って、いつも【矛盾】が含まれているんだ』と。簡単に言うと、論理のためには「前提」が必要なのだが、『その前提は、どこからやってくるのか』と。ある「前提」を置くのだけども、『その「前提」は真っ当なのか、どうか、何の保証もない。』 それで、保守の素晴らしさというのは、この「前提」の中に含まれる【矛盾】、【葛藤】を、さらに論理といっても曖昧な論理にならざるを得ないのだけども、でも、何ほどかの論理によって、この「前提」がどうしてやってくるのか? ということを逐次、再検討していくという、そこに《保守の認識論的ベースが有る》んだ。

で、文芸批評家たちには、あちらの富岡さん(※富岡幸一郎)は文芸批評家なんだけど、文芸批評家たちには当然のことながら、そういう努力なり能力なりが、当時の時代のせいもありますがね、当時から。

富岡幸一郎

まぁこれは、文芸批評家だからと言うよりは(笑)そういう思想体系、保守主義の思想体系を、やっぱり「つくる余裕も無かった」り、そういう時代状況があったと思うのですね。

例えば、【小林秀雄】なんかは、自分でそういう体系をつくれませんから、逆に言うと【本居宣長】というのをつかって書いたとかですね。そういう「方法論」の問題ですけど、宣長本居宣長)なんてのは「言挙げをしない」と言って、実はものすごい「言挙げをしている」思想家ですよ(笑)(※注「言挙げ」=言葉に出して言い立てること)まぁ、そういう意味じゃ保守主義者ですよね。「儒学」とか、その他の「外来思想」に対して、【大和心(やまとごころ)】という、ものすごい保守主義としての宣長みたいなものがあって、やっぱりそこがすごく大事なところで、そういう意味では中野さんが仰ったように『保守主義者』『保守主義』って非常に大事な今の課題です。

中野剛志

福田恆存の言う『保守的な生き方』というのは、私の発言の後に先ほど西部先生が仰ったところでして、要は《歴史的な流れ、歴史的に裏付けられた慣習・良識・常識》ですね。まさに、福田恆存は【常識】という言葉をつかっていますが、あるいはフランス語で、【ボンサンス (仏語)bon sens =良識】というやつですね。まぁ、ありていに言えば「大人の知恵」みたいなものですね。僕はまぁ、そういうのは持っていないんですが、経験を積んだ大人だったらわかるような知恵、これを《大事にする》というのが、福田恆存の言っている【保守的な生き方】なんですが。で、福田恆存の言う意味の「保守的な態度」がとれる人というのは、本当にこれわ僅かだと思うのですね。

ただ、そこでやっぱり私がこだわりたいのは、「その良識に基づく態度というのが、何故いいのか?」ということについて、簡単な「ナントカの定理」みたいなことには出来ないし、すべきではないのですが、ちゃんと【論理一貫した説明】というのが欲しいわけですね。

そういうこの「保守的な態度」というのを正当化する思想、一貫した論理としての保守主義というのは、たぶん、保守的な態度をとるひとよりも《さらに》少ないんだと思うのですよ。だから、「現状維持派」がほとんどです。で、「保守的な態度をとれる人」というのは、そんなに多くない。「保守的な態度が何故いいか?」ということを、ちゃんと言葉で説明できる人というのは、ほんとうにごく僅かで、そう考えると、《日本で「俺は保守だ!」と言っている人たちは、チョット人数が多過ぎる》んですけどね(大笑) こんなにいっぱいいるはずないんですね。

こういう資本主義みたいな時代になって、【良識】が消えかけている中で、その良識を掴んで、【保守的な態度】をとり続けられるというのは、けっこうシンドイことですし、それを「言葉」で表すというと、もっとシンドイんですね。

19世紀は、『保守主義というのは、どちらかと言えば、社会主義に近かった』というのは、誰であろう、新自由主義の最大のイデオローグとも言うべき【フリードリヒ・フォン・ハイエク】自身が、そう言っているんですね。

『The Constitution of Liberty』、「自由の条件」と訳されていますが、ハイエクの著書があるわけですね。彼が「自分の自由主義とは何なのか」と、自由を擁護するために分厚い本を書いたのですが、それの『最終章』あるいは『あとがき』に当たるところが、『何故私は保守ではないのか?』と書いてあるんですね。

つまり、ハイエクの主張は『自分は保守ではない。』と言っているわけです。実際、ハイエクは、確かに【自生的秩序】と言って、「政府が介入せずに、自然体で歴史的に出来た制度、例えば私有財産権制度とか、そういったものを大事にしましょう」と言ったので、「保守主義にカテゴライズされることが多かった」のですが、ハイエク自身は、自分が「保守」と言われることを嫌がっていたんですね。

その時、今言ってた理由が大雑把に言えば三つぐらいあって、

⑴ 一つは、ハイエクに言わせれば、保守というのは、とにかく変化することについては全て恐れる。新しいもの、それ自体に対しては臆病な腐心を抱くと。自由主義者は変化を恐れない。自由主義者は、市場メカニズム、つまり価格を通じて利害を調整する、秩序をつくってくれる自生的な調整メカニズムというものがある、ことを理論的に知っている。保守は、そういう理論を持たない、何も知らない。従って、何か変化が起きると、それは社会が「自己調整」をはじめている過程なのに、保守は単にそれが「嫌な事が起きるのではないか」と思い、怯えてそれを止めようとする。で、市場に任せると「自生的」に新たな秩序が出来るのに、それを阻止して、強引に秩序をつくろうとするので、保守は必ず「政府権力」をつかって、むやみに政府に介入する。これははっきり言って「全体主義のもとである」、とまぁ、こういうのが、ハイエクの論理なんですね。

で、それと同じことなんですが、ハイエクは ⑵ 二つめに、自由主義者は、市場が自己調整機能を持つ、というような理論を持っていて、その理論にもとづいて、従って「経済的な自由」は、最大限尊重すべきである、という「一般原則」こういったものを打ちたてて、社会を統治できるんだ、と。ところが、保守は理論が無いから、一般原則もたてられない。一般原則もたてられない連中の政治というのは、場当たり的になる。そんな場当たり的なものは認めない、というふうにハイエクは言ったわけです。

で、ハイエクは ⑶ 三つめに、急激な変化というものを嫌がる保守というのは、従って19世紀においては、「社会主義が台頭するまでは、自分が信奉する自由主義に反対していた。」だから嫌いなんだ。たまたま今、全体主義、社会主義というものが出てるから、自分は保守主義と手を組んでいるけども、本当は自由主義と保守主義は違うんだ。というふうにハイエクは言っていて、ハイエク自身も分かっているわけです。

「「一般原則」や「理論」が無いような保守というような〜」的なハイエクの物言いというのは、先ほど前半の議論で出てきた「保守」というのは「態度」であって、「思想というのは無い」というのに《近い》わけですね。ある意味、ハイエクもそう思っているわけです。

ハイエクも『保守ってのは、そもそも政治哲学なんてのは、保守なんていないんじゃないか?だから、場当たり的にやっているんだだけなんだ。それに、対して、私は「理論」というものを打ちたてて、「一般原則」というものを打ち立てるんだ』ということを、言っているわけですね。

私自身の考え、あるいは私が『保守とはなんだろうか』という本で【サミュエル・テイラー・コールリッジ】を挙げた時の考え方はですね、確かにコールリッジも、「政治」というものは【便宜 エクスペディエンス=Expedience 】という言葉を彼は使っていますが、要は、「原則がこうであるから、こうしなさい」というよりは、『状況、状況に応じて便宜的に』と。

例えば、自分の国にとって上手くいくのだったら「自由貿易」もいいけども「やり過ぎはよくないから、その時は保護しよう」とか、つまり、自由貿易は絶対いいとか、保護主義が絶対いいとかいうことではなくて、「今回はいい」「今回はダメだ」とか、そういうふうに使い分ける【便宜的に使い分ける】というようなことが政治には必要である、ということをコールリッジは言っています。

ところが、ハイエクは【一般原則 General Principles 】vs 【便宜 Expedience 】と。つまり、ハイエクは明確に「一般原則」重視派なんですよ。で、便宜、あるいは【Pragmatism プラグマティズム】と言ってもいいと思うのですけども、それに対しては、ハイエクは非常に敵対的で、「それはダメだ」と言っている。ハイエクは「自由」と「一般原則」から一旦反れてしまうと、「なし崩し的に、政府はなんでも介入する。全体主義になってしまうだろう」と、ちょっと潔癖なぐらいにそれを恐れていたんですね。

それに対してコールリッジというのは、「便宜というものでうまくやっていくしかないんじゃないか」というふうに言っていたと。

なんで「一般原則」じゃなくて、『便宜』の方がいいかとコールリッジは言っていたか、あるいは、なんで「便宜」をやっても、ハイエクが恐れたように、急に「全体主義」になったりしないのか、逆に言えば、『何で政治の一般原則というものが打ち立てられないのか?』 それは、コールリッジは「態度」で示そうとたのではなくて、明確に「これこれこういう理由で、認識論的にこうであるし、歴史的にみてもこうなので、一般原則を打ち立てることは不可能です」と、ちゃんと論争を実はしております。

だからやっぱり、そういう「便宜が大事だ」「態度が大事だ」というのはいいんですが、《それが何で大事か?》というのは、ちゃんと人間は言葉の動物ですから、ちゃんと【説明】してもらわないとですね、ダメだと。態度だけだったら、猿でも示せるでしょうと。こういう話なんです。

でまぁ、最後にですね、これも『保守の論点』として挙げておきたいと思いますが、ハイエクは「一般原則が大事だ」と。コールリッジは「便宜でいいんだ」と言ったときに、ハイエクは、その「一般原則」というのをどうやって見つけるかというと、やっぱりその【理性】で見つけるんですね。だから、実はハイエクというのは、ある意味、【合理主義者】つまり、「理性で見つけた一般原則や理論でもって、社会を統治できると信じる人々」のことを【政治における合理主義者】と言うわけですが、実はハイエクはそっちなんですね。

これ奇妙なことなんですが、ハイエク自身は「合理主義を認識論的にも批判していた」んです。つまり《理性で何でも世界を統治できるという考え方は「間違っている」とはいえ自身は言って》、それを論拠にして全体主義や社会主義というのは「理性で社会を統治できる」だからそれは「間違いだ」と、根っこにある合理主義はおかしいんだ、と言っていたのですが、じゃあ、「何で自由が大事か?」と言った時に、ハイエクは「自由が大事なのは、理性で一般原則を見つけたからだ!」と、実は彼はそう言っちゃっていたんですね。

で、【マイケル・オークショット】って有名な20世紀イギリスを代表する保守思想家がいて、ハイエクの『隷従への道』(The Road to Serfdom)という本は、1944年だったかな? 大ヒットしたんですね。その『隷従への道』を読んで、(M・オークショットが)コメントをしているんですが、さすがオークショットは、ハイエクが「全体主義は合理主義だ!」と言って批判しているのに、『ハイエクの中に合理主義が潜んでいること』を気付いちゃったんですね。

「合理主義」「全体主義」「計画経済」というものを『隷従への道』で、ガンガンとハイエクは批判しているのですけども、オークショットはハイエクをからかって、こう言ったんですね。

『あらゆる計画に抵抗する計画』(爆笑)、あらゆる計画に抵抗する計画というのは、その反対のものよりもマシかもしれないけども、《結局「同じ政治のスタイル」に属しているのである》と。つまり【「ハイエクの合理主義批判というのは、結局は、合理主義に基づいていたんだ」】と、まぁそういうようなことを言って、非常にこれは「大事な論点」かなぁと思いますね。

理性で社会を統治するというのが、なんで「不可能」なのか?ということを、認識論とかいろんなところに遡って議論していくという哲学は、やっぱり必要になっていて、そこで《下支えされた保守的な態度、保守的な姿勢》であれば、たぶん、かなり強固なものになると思うのですが、そういった議論無しに、単なる態度ですと、「見ていて不愉快」なものになってしまうんじゃないでしょうかというふうに思います。

富岡幸一郎

市場の自己調整能力というか、まぁ、このコールリッジは『人間はモノではない』と言って、やっぱり「市場の自己調整」というものに対する問題点をすでに指摘しているわけですね。

もう一つ、最後にお話になっていた、ハイエクの中にあった【理性至上主義】というのでしょうか、あるいは【合理主義】ですね。この問題点ですね。これは中野さんの今度の本(※『保守とは何だろうか』NHK出版新書)でも最後の方に【理性】という問題とか、【宗教】という問題とか出てるわけですね。これは非常に深い、そして非常に一面ではアクチュアル( Actual、現実的であるさま)な問題だなぁと思って。

これはあの、コールリッジは『理性の行きつく先に、信仰(まぁ宗教的な意味でしょうか)があるのではなく、その反対に「理性の起点」に信仰がある』というようなことを主張していて、このあたりが、やっぱりコールリッジという人の持っている、この世界とか、もちろん経済を含めた社会とかを見る、非常に根源的な視点があるのかな。つまり、言い換えれば【理性至上主義】とか【近代合理主義】に対する《深い懐疑》と、《反省からもう一度 問題を捉え直す非常にスケールの大きな部分》が、今回この本を読んで教えて頂いて、私は非常にそこが面白かった。

西部邁

ハイエクは例えば、センス・オーダー、感覚ですね、センス、それには「秩序」があるはずだ。なんというか、「やりたいからやるんだ」とかではなく、「何をやりたいか」というものをもたらす『感覚の秩序』というのがあらかじめあるんだ、というようなことを言ってるあたりは、非常に一種の社会有機体論なり社会伝統説に近づいている。その点で(あえて)弁護すると、『ハイエクが言っている市場論』というのは、どちらかと言うと【アダム・スミス】の時代に対応していて、彼の言葉で例えば【セルフ・インタレステッド Self-Interested】という言葉があるでしょう。『人間というのは、自分に具体的に関連のあるインタレステッド(※ Interested 興味がある、関心がある)な、そういうことの中で動くんだと。個人個人が「社会全体を考える」とか「世界、グローバルな世界がどうなっているか」などと偉そうなことは言わないのが、人間個人というものだ』と。

そのあたりのことを考えると、彼(ハイエク)が考えている「市場論」というのは、今のような巨大な企業があって、巨大なイノベーションをやって、巨大に外国に進出などという、そんなマーケット論ではないというふうな事を考えると、具体的に言うと、『非常にスモール・チェンジがグラディアル( Gradual )、漸次的に積み重ねられていく市場を彼は想定して、社会主義という巨大な計画に反対していた』のだと。

富岡幸一郎

「表現者 51号」(※特集『保守による「保護主義」のすすめ』)に出ておりますので、ぜひお買い求め等々いただければと思っております。

本当におかげさまで、よく支持していただいてですね、正直、売れています(笑)思想のご支持をいただければと思います。本日はどうもありがとうございました。

【次回放送】黒鉄ヒロシ × 西部邁

「もはやこれまで」の時代閉塞がやってきた