読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

◼️血盟団が21世紀に伝えるもの ゲスト 中島岳志 × 木村三浩(西部邁ゼミナール 12/28/2013 書き起こし)

◼️血盟団が21世紀に伝えるもの
ゲスト 中島岳志 × 木村三浩西部邁ゼミナール 12/28/2013)

北海道大学大学院法学研究科・公共政策大学院准教授 中島岳志
【著書】『血盟団事件』(文藝春秋

【著書】『鬼畜米英 がんばれサダム・フセイン ふざけんなアメリカ!!』(鹿砦社

評論家 西部邁
【最新著】『中江兆民 百年の誤解』(時事通信社)、『もはや、これまで 一経綸酔狂問答』黒鉄ヒロシ共著(PHP研究所

【ニコ動】

西部邁ゼミナール】血盟団が21世紀日本に伝えるもの 2013.12.28

1932年に勃発した『血盟団事件』は、その80年後の現代日本に何を教えるか。

こういう風に第した理由は何をあろう、世界を見渡せば随分前から、イスラム原理主義に始まり、アメリカだってものすごい動いているのはキリスト教原理主義ですからね。

つい先だってテレビを観ていましたらね、これは一種のキリスト教徒か、孔子のアレだか、現代中国とはカルトになっちゃって、なんか500万だかしか居なかったキリスト教徒が、この10年かそこらで1億人に増えたとかねぇ。共産党の肝いりで、孔子の「親孝行」のあれがものすごい。

(※中国ではキリスト教徒が10年で500万人から1億人に)

おそらく今の中国が「改革開放」で【金狂い】になって皆が目標喪失、価値喪失のなか沈んでいく。で、何かを求める。

(※改革開放の金狂いの中国は目標、価値の喪失へ沈む)

それに対して、本当はキリスト教も孔子も物凄い古いもんですけども、その古いものはとうの昔に現代中国は破壊されてますからね。なんか、新しい「新興宗教」のようなものとして、皆がグーっと。なかなか、ある意味じゃすごく面白いなぁと。

(※孔子 キリスト教も壊した 中国で新興宗教の様に昇華)

日本では、まだそういうことは起こっていませんけども、ですからこの『血盟団事件』に見られる、これは一種の【日蓮原理主義】みたいなものですけどもね。しかも、行動に繋がるね。なんかこう、今の状況と繋がるんだなぁ〜ということが根底にあるんですけども。

中島さんの御本(*『血盟団事件』(文藝春秋)にもありますけども、あれは、1920年代から始まるんですか、【煩悶青年】(※はんもんせいねん)という。

もう少し前でしょうか。『煩悶青年』という言葉自体は20世紀の最初ぐらいでしょうね。1903年に【藤村操】という人が華厳の滝に飛び込む。当時「一高」ですから、、

人生、「曰く不可解なり。」とか言って。

そうですね、それで飛び込んじゃうという自殺事件があって、そこから「後追い自殺をする青年」出てくるんですが、もう少し10年ぐらい前には【北村透谷】の自殺(※1894年、芝公園にて首吊り自殺)というのもありました。

ですので、いわゆる『日清・日露戦争戦間期』ぐらいに現れてきた新しい青年群像というのが【煩悶青年】というもので、何を問題視したかというと、明治維新からちょうど30年ぐらい経った時に、明治維新のある種の国家目標というのと、自己を同一化することが難しくなってきた青年たちだと思うのですね。「富国強兵」「殖産興業」そういうナショナリズムのなかでやってきた福澤諭吉とか中江兆民の世界と、彼らはそういうものに対していまいちコミット出来ない、そういう青年たちが出てくるわけですね。

司馬遼太郎さんが『坂の上の雲』という小説を書きましたけど、「坂をずっと登っている時代」ですね。それに対して、登り切ったところにある一定程度の国家目標達成した時には、雲の中にいた、というのが小説のタイトルだと思うのです。その雲のなかで『自己』という問題ですね、自意識とか内面という問題に苦悩し始めたというのが、明治維新後30年ぐらい経ってから出てきた青年群像だと。で、その中に、まさに【井上日召】や【大川周明】、【北一輝】といった1880年代生まれの人たちというのが突入してきたということですね。

そういえば、1911年のなんですか、【大逆事件】ね。アレはほんの一部の人間は実際に天皇にテロを仕掛けようとしていたんでしょうけども、【幸徳秋水】その他はたぶん実質的に無罪なんでしょうけど、そんなことが起こって、【石川啄木】が『時代閉塞』(の現状)ですか、とにかく時代が閉塞している中で煩悶するという、それは20年代30年代はおろか、明治維新のずっと初めから始まっていたそういうものの頂点の一つとして、血盟団事件、その他がね。

さらに、そういう閉塞状況というのが、《第一次世界大戦直後の社会の流動化》というものと《格差の拡大》というなかで、どんどん【先鋭化】していったのが、昭和維新のバックグラウンドにあったものですね。

今は全然、先鋭化していない、愚鈍化しているけども、ここに来る時にタクシーに乗っていたら、何人か見たんですよ。交差点を渡りながら「スマホですか?」スマホをやりながら、交差点を渡っている青年たち、、面倒だから「アイツら!」って言っちゃうけども(笑)アイツらものすごい閉塞の中で、スマホの中で煩悶しているんでしょうね。あぁいうのを煩悶とは言いたくないけども(苦笑)まぁ、いま仕方ないねぇ。

そうですね。ですから、政治の言葉でも乱雑に「グレート・リセット!(橋下徹)」ということが謳われ、それが人気を集めたり、何かガラガラポンして新しいものをというものを求める心理状態というのは、僕は当時(※かつての煩悶青年の時代)とよく似通っている感じがするのですよね。

本当に言葉がデタラメなってますでしょう。僕は安倍晋三の悪口はあまり言わないことにしているけども、それでも、この前なんかウォール街に行ってさ、「アベノミクス Buy Me ! 」だよね? Me は、あの Stand By Me じゃなくて、「私を買うと得しますよ〜」と、詐欺師集団のアメリカ株主資本主義者たちの前で「Buy Me 」なんて、「私を買いなさい」なんて言って。

安倍さんは、やっぱり就任された時に『瑞穂の国』と仰っていて、そういうウォール街を中心とした強欲資本主義から距離をとるんだ、日本には日本の資本主義があるんだ、と仰っていたんですが、こないだの9月には逆に「Buy My Abenomics ! 」とウォール街で仰る。やっぱりちょっと、どうされたのかなぁ〜という、そういう印象ですね。

ウォール街の話でも、スマホでもいいけども、なんかねぇ、《閉塞とは言えない閉塞、煩悶とは言えない煩悶》と、わけわからんことになってしまい。お二人どう思うかなぁ?戦後、例えば自民党で言うと、自民だから「自由」でしょう?でもこの自由、自由って言ってると、結局のところは、あれも選べる、これも選べる、選択の基準が示されないわけですよ。『人間は選択の不能になる』でしょう。選択の不能ということは、日本語で普通に言えば【引きこもり】ですものね。何も出来ないから、あっち向きながら、こっち向きながら、うちでじーっとしている。今の場合は、『交差点でスマホの中でじーっとしている』ってね。自由主義と簡単に言うけども、なんかこれを人間心理まで下ろすとね、この【広範なる引きこもり現象】、これは別に家にいる人間だけじゃないんですよね、会社で引きこもっている人とか、至るところにいる。

自民党に悪いけども、【民主主義】と言えば、結局は「多数派が正しい」ということでしょう。多数派が正しいということは「少数派は正しくない」ということになるわけさ。そうするとね、しかもこれプラス、【ヒューマニズム】というか「人間は素晴らしい」というものがあるわけ。そうするとね、「多数派が素晴らしい」ということは、『少数派は採用されないだけではなく、人間としてもダメ』という『人間とも言えない人間だ』という風に。

ということは、それを言い表すと【イジメ】ね。妙にある少数の奴が多数に馴染まない時は、皆してイジメに入るというね。恐らくね、小学校その他である事なんでしょうけど、そういう露骨なイジメとか、引きこもりじゃなくて、『社会全体』として、自由万歳!民主万歳!と言いながら、あらゆる新聞テレビもそう言いながら、実際に起こっているのは、いろんな意味での「引きこもり」とか、「イジメ」が偶発。そういう意味じゃ本当に閉塞して、煩悶いうか、煩悶のもっとも子供っぽいケースですよね、イジメってのは。ということかなぁ〜と思うの。

民主主義の問題、多数派の問題というのが出てきましたけども、【トクヴィル】という『アメリカのデモクラシー』という本を書いた人は、「多数者の専制」というものを問題視したわけですね。

(※仏 政治思想家 アレクシ・ド・トクヴィル、民主主義が「多数の暴政」になることを指摘▷著書『アメリカのデモクラシー』)

彼が言った「多数者」とはどういう人たちかなのかと言うと、恐らくこの『トポス(※場所)というものを失った人たち』ですよね。『群集化した人たち』『何者でもない人たち』ですよね。この人たちというのは、メディアと一体化して熱狂し易い。こうなると危なっかしいんだと。『少数者とか、個人の自由というものが逆に抑圧されてしまう』その問題をトクヴィルは冷静に議論したんだと思うのですけども。

やはり、【オルテガ】が『大衆の反逆』という本を後に書きますが、そこで言ったオルテガの言う『大衆』というのは、《場所を失った、役割を失った人間たちの群れ》ということを言ってるのですよね。これがやはり、近代を席巻していて、『血盟団事件』、あるいは『現代が直面した状況』というのは、こういう《何者でも無い私たち》あるいは《自分の場所を失った私たち》の問題というのが、結局は関係しているのかなぁという気がしますね。

(※ホセ・オルテガ・イ・ガセト、スペイン哲学者▷主著『大衆の反逆』『無脊椎のスペイン』1883年~ 1955年、

「『大衆』とは特に労働者を意味するものではない。私の言う大衆とは一つの社会層を指すのではなく、今日あらゆる社会層の中にあらわれており、従って、我々の時代を代表するとともに、我々の時代を支配しているような人間の種類あるいは人間のあり方を指しているのである」
「従って、社会を『大衆』と『優れた少数者』に分けるのは、社会階級による分類ではなく、《人間の種類による分類》なのであり、上層階級と下層階級という階級的序列とは一致しえないのである」
〜『大衆の反逆』〜)

そうですね。あの麻子ちゃん(※小林麻子)ね、もう十数年前に、お酒の飲み過ぎとね、乱雑な生活の報いで、あと、アトピー、全身アトピーで漢方で治したんですけども、この中島さんが言った【トポス topos】というのはね、「場所」というか、「正当な理由、正当の場所」とか、まぁそういうことを言うんですが、「アトピー」、この「ア」を付けると、ギリシャ語で「ア」というのは「否定」(の意味)なんですね。

「アナーキー」だって、「ナーキー」というのは「秩序」という意味で、それの否定形で「秩序が無い=アナーキー」なんですけどね。で、「アトピー」というのは、『わけが分からない』という意味です。全身真っ赤っかになったんだけども、何なのか、酒なのか、つまらん原稿の書きすぎなのか、遊びなのか、わけがわかりませんというのが「アトピー」で、本当にそういう意味では【全社会的アトピー現象「わけが分かりません」】と。場所(トポス)も皆無くしてしまった、そういうことです。

圧倒的に社会全体で言えば、(木村三浩さんは)マイノリティでしょう。少数派なんですけどね。でも、貴方も随分頑張っているけども、僕もいろんな集まりを持って、僕の場合は一時的な集まりだけども、集めると自分で集めておいて批判するの嫌だから、一般的に言うと、やっぱり「トポス」「場所を失った人たち」が集まってきますね。右翼方面もそう言えば、そう言えるんでしょう?

まぁそうですけど、どっちかと言うと、戦前と戦後とやっぱり集まってくる人の階層が違いますよね。

戦後は、日本の状況が米軍にやっぱりやられてしまって「対米従属」になっているいから、それを戻そうと言うような『失地回復』という、そういうとこで意気に感じて来る人が、戦前の場合はもうちょっとリアリティに思って『国家革新』とかね、そういうところでもうちょっと前向きな体制を変えていこうという、そういう感覚がありましたよね。

うん、そうか。木村さんたちが出している機関新聞【Reconquista レコンキスタ】、レコンキスタという言葉が謳われたのはスペインで、イベリア半島がイスラムに支配された(かつて)でしょう。それに対して、キリスト教徒が反発して、言わば「失地回復」ですよね。「レ」というのは「再び」で、「コンキスタ」と言うのは簡単に言うと「征服」とかでしょうね。「再び征服する」というのは「失地回復」で、イスラムを追い出すという、レコンキスタ

でも、なかなかレコンキスタ難しいでしょう?僕の、僕なりのレコンキスタは、延々とやってもう74歳だけれども、ほんの少々だけ失地回復したけども(笑)その面積たるやほんの僅かで。まぁ嘆いてもしょうがないんですけどね。

『失っている』という認識は非常に重要なんだと思うんですね。保守にしても、右翼という思想にしても、まぁ【小林秀雄】さんが昔、《故郷を喪失した文学》というのを言っていますけども、『失ったことによって、かえってそれをどのように取り戻すのか』という像がハッキリするという面があると思うのですよね。まぁ【再帰的】という言い方をしたりしますけども。そういものとして恐らく『保守思想』なり、あるいは『右翼思想』が成立しているのかなぁと思いますけども。

(※中島岳志自身の過去の著書から引用『人間は「喪失に直面」することで、真の価値を【再帰的】に想起する。この再帰的な意識こそが、伝統を継承する意思へと繋がる。)

そうですよね。トポス、場所、あるいはコミュニティ、共同体、僕の先祖は北海道ですからね、北海道なんか先祖のいない土地だから、こちら(本州)から流れていって、つまり『故郷を喪失して』流れていっている。また僕は、故郷を喪失した人々の集まり、北海道の故郷すら喪失して東京に、まだ流れていますけども。

僕が何を言いたいかというと、「故郷」といい「トポス」といい、これはね、中島さんは承知で使っているんだけれども、単純にね「共同体にはまれば幸せよ」という、そんなんじゃないんですよね。人間というのは是非もなく、少なくとも5割は、やっぱり「共同体のしがらみ」というか、「バカなトナリ近所」とかさ、「バカな村長さん」とか「バカな学校の先生」とか、是非もなく喪失したくなる。(要素がある) でも、幾ら喪失してもね、《逃げ出した場所が実は自分の「精神のベース」にあったんだ》ということに、それこそ【再帰的】、「再び帰る」、それをまた思い出すという形で相当な精神的の作用としての故郷感覚ですよね。

瑞穂の中で、田んぼの稲穂の中にいたら幸せ、とはいかないものなんです(笑)

そうですね。

萩原朔太郎】(※はぎわらさくたろう)ってね、詩人がいますよね。彼は最初、西洋にかぶれちゃうのだけど、結局は「西洋の思想はダメだ」ということで、今度は『日本回帰』してくる。ということで日本回帰ということを言っていますけども、結局、彼自身が群馬(出身)だったんですよね。それで東京に出てきて一生懸命やるんだけども、東京でうまくいかず、それで「帰ろう」ということで、『自分のあるべき原点』みたいなものと共に日本の回帰、西洋にかぶれた自分が、もう一回帰るんだということで書いていますよね。

だから、そういう意味で言えば、いま安倍さん(安倍総理)が、「日本を取り戻す!」と言いながら、「瑞穂の資本主義」とか言いながら、逆に僕は、日本を売り渡して、今回の集団的自衛権なんかも、そういうような感じで思ってしまうのですよ。だから、『本来的な日本を取り戻すとは何か?』ということを、いま皆が提案・定義していかなければならないと思うし、特にその第一条件は、やはり、私なんかで言う「レコンキスタ」の立場で言うと【自立】ということが、どうやって出来るんだろうか、ということを考えているというところですよね。

やぁ、僕もそうですね。

主張しているところですね。

僕は保守派なもんですからね、勝手に自分で言ってるだけだけども、右翼と自分と、何がどこか違うのかなぁ〜と言ったときに、右翼と言ったっていろんな人がいるでしょうし、保守もいろんな人がいるんでしょうけども、僕なんかが昔、最初の頃に書いた本で表紙にある絵描きに書いてもらったんですよ。これはポールね、柱。(※一本のポールを立てた絵を書く)ここに綱が一本、向こうにもう一本のポールがあって、(※二本のポールが立ち、それぞれのポールのてっぺんをつなぎ合わせるように、一本の綱が引かれる)ここに人間が「綱渡り」か、アクロバティストね。あの唐傘さした、日本は唐傘かな?ヨーロッパの場合は長い棒を持っている。(※綱の上を渡る綱渡り人が、綱の上でバランスをとるために手に長い棒を持っている様子)両手に長い棒を持つことで(※綱の上から落下しないように)バランスをとる。

何が言いたいのかって、人生も時代もものすごい『矛盾』に満ちて、誇張して言えば、『一本の綱の上を渡るような危ない、危険なもの』だ。そこで、バランスをとらなきゃならない。自分如きに、こんな見事なアクロバティストになれるハズもないが、「過去」を振り返れば、バランスよく渡り切った人とか、失敗して落ちた人とか、いろんな「教訓」がありますでしょう。できればそういうところからヒントを得て、ですから、僕にとっての【伝統】というのは、冗談みたいなことになるのだけど、この(※綱渡りのバランスをとるための)「一本の棒」みたいなもので、伝統ってなんだ、そんな立派なものか?と言ったら、僕はニコ、ニヤッと笑って『一本の棒みたいなもんです』と。しかし、この『棒が無ければ渡り切れない』というね。こんな風な感じで言っているのだけども。

だから、今でも右翼の僕ら本当はもっと頑張らなきゃいけないんだけども、あんまりね、その戦前のこの方々(※血盟団の面々ほか)の本を読むと、やっぱりみんな修羅場をくぐっているんですよ。経験でね、強いですよ、忍耐力が強靭。で、その中から、日蓮なら日蓮の「一殺多生」でもいこうと、で、後は自分のことを考えないと。で、【自己犠牲】をやろうと。『戦前の戦った人たちの経験や知恵や、そういうものを我々がやっぱり断絶されちゃっている』んですね。ですから辛うじて僕は【葦津珍彦】(※あしづうずひこ、神道家、思想家)先生に何回かお話を伺ったり、菊池峯三郎先生というですね、吉田茂・・・

葦津珍彦さんってのは、伊勢の、、、

鎌倉の方なんですけど、神社信奉で。この方は【頭山満】翁に、けっこう可愛がられてもともとは「アナーキスト」の方だったのだけど、頭山さんに救われてナショナリストになるんですよね。

で、その方なんかに謦咳(※けいがい)に接っして話を聞いて少しはあれなんですけど、今の人たちはですね、あんまりね、【断絶】があるですよね。

そういう意味では、この『血盟団事件』を、それこそ若い中島さん(※中島岳志)が書かれたってことは、一つの指針になる。

そうねぇ。

右翼と保守という問題なんですけども、少し違う部分というのは何かと言うと、右翼ってやっぱり【ユートピア幻想】がどっかであると思うのですよね。(※真横で右翼の木村氏が渋く頷く。笑)『民族共同体の理想社会』というものを実現し得ると思っていて、ただ、それは『進歩派』のように「未来に向かって理性によって作り出す」というよりは、「過去の一点の何処かに回帰すれば、ある理想社会は実現する」という、そういう傾向が強いと思うんですね。

「保守の過去」というのは、もう少し『蓄積的なもの』で、例えば、ある過去の一点でも人間というのはどうしようもない不完全な人間が作っていた社会なので、やはり過去というのも不完全な社会であったろう。現在もそうだし、ましてや未来もそう(※不完全)だ。となると、『未来に向けて刻々と変化する中で秩序を保っていくためには、一定程度の理性を超えたものに依拠しながら、グラジュアル(※徐々に=Gradual)に、徐々に徐々に変革していく、その知恵を歴史とか過去から学ぶという態度』だと思うのですよね。

だからその、理想社会をめぐる観念というのは、少しこの両者(※右翼と保守)では違うのかなという印象を持つのですけども。

そうだね。確かに、そうですけど、やっぱり右翼はですね、「維新」という言葉を使いますよね。維新というのは何かと言えば、Restoration(※リストレーション)ですよね。で、変革して変えていく。で、過去の全てを否定しないんですね。革命は Revolution で全部を否定してしまう。

保守は「徐々に」ってことはあると思うのですけども、「維新までいかない」んですね。

普通はそんな感じになるね。

で、全部も否定しない。
フランス革命を批判した、【エドマンド・バーグ】さんだって、保守の立場で全部を否定してしまうとおかしくなるぞと。自分たちの知恵や経験まで無くなってしまうんだぞと。

(※エドマンド・バーク、英国哲学者、保守主義の父、議会制民主主義の擁護者であり、絶対王政を批判、民意に盲従する危険について厳しく指摘する

主著『フランス革命の考察』より

『完全な民主政治とは、この世における【破廉恥の極み】に他ならない。それはまた、破廉恥の極みであるが故に【最も怖れを知らぬもの】でもある』

『【民衆全体は如何なる人間の手によっても処罰の対象とはなされ得ない】 まさにこの理由からして彼ら(民衆)に対しては、王達の意思がそうであり得ないのと同じく、自らの意思をもって「正邪の基準である」などと夢思わせてはならない 』)

それこそ、ユートピア論もはじめとして、社会科学的ないろんな「認識」ってあるでしょう、まことしやかな。でも、これをちょっとでも具体化しようとすると、この『状況』というものを見据えなきゃいけないのね。そこで、木村さんが言った「修羅場をくぐる」ということは、なんか血を流すということもあるけども、もっと一般化して言うと、自分が考えたこと、感じたことを、何かね、本を読んで「こんなことを感じました、分かりました」というんじゃなくて、今のここの自分なりを国家の状況の中に身をおいた時に、実は『状況』如何によっては、先ほどおっしゃった「大変革もあり得るべし」だし、大変革をやるとちょっと冷静に考えれば反動がキツすぎるから、「ここは隠忍自重しなきゃならない」とかね、状況の中での判断というのは、ある意味では認識をある程度超えてしまうから、いわゆる【Pragmatism プラグマティズム=実践】ね。これは、マルクス主義の実践哲学であろうが、アメリカのプラグマティズムだろうがね、やっぱりここまで来ると、いわゆる社会科学とか、社会思想と言われている「洒落た認識論」は、状況の中では大いに吹っ飛んでしまうというね。

もっと言うと、状況との修羅場、確執、それを検見(※けみ)しなければ、認識なんてものは役に立たない。たぶん、そういうことが問われているでしょう。そういうことを問うような言説が、学校でも新聞でもテレビでも無いものだから、多くの敏感な青年たちが何かを求めながら、この状況では何も与えられない。

ということで、引きこもったり、他者のイジメに明け暮れるという。

「消えざるものはただ誠」(※三上卓『青年日本の歌』の9番の中の詩の一部分)って、あの歌ね。結局そこに「決意」と「覚悟」と。それでもう僕ら後ろに何も無いんですよね。しがらみももちろん多少は社会の中にありますけども、そこで日本のやはり「ユートピア」というもとを(※中島岳志氏が)仰っていましたけども、維新(※昭和維新血盟団)の右翼と言えば、その何もないものだけども、ここで一点集中、行動したり、何かをやる、という、それっきゃ無かったわけですよ。で、今もそうですよね。

だから、自分の言説、喋っていることの「決意」と「覚悟」みたいなもが絶えず、人から(※他人から)「貴方やって下さい」って言われるのかどうか分からないけども、自分でそういうふうになっていくというね、ある面の「自意識」の発露みたいなものなんですけども(笑)で、そこに人生を懸けたもので、いろいろ行動するけども、「誠だけだ!」と。ということで、浪漫的なものを何か語るというふうになっちゃうんでしょうねぇ。

血盟団事件というのは、今から80年とか前ですよね。それこそ社会科学的な評価をすれば、「右翼ファシズムのはしり」とか、そんないろんな【しゃらくさい評価】が出来るだろうけども、本当にこの状況を思い起こしながら考えてみたら、どこか【起こるべくして起こった事件】なんだろうな、と思われてならない。

僕ね、歴史の必然ってわけじゃないと思うのだけども、不完全な人間が、不完全ながらある一定の認識を持って、しかも今ここの状況の中に身を投じてみた時に、やはり「何かやってしまう」と。で、そういうことが起こってしまっても全く当然の状況が、恐らく世界の他の国々はそれを強く感じながら動きはじめている。その分、暴走もするでしょうけどね。

ただ、日本人の場合、日本人は非常に利口で、感受性が豊かだから、感じてはいるんだろうけど、その表現がなかなか出てこないね。言わんや行動に出てこない。表現している人(※中島岳志)とか、行動している人(※木村三浩)とか、ほんの少数派と。

僕も少々やったけど、もうじき死ぬんでね。これは冗談で言っているんだけど(笑)まぁ〜そんなご時世でさ。

青年!

はい。

がんばってください。

ありがとうございます。(笑)

【次回】『無』の思想について
京都大学大学院教授 佐伯啓思