◼️「悲しみの哲学」と「無の思想」 ゲスト:京都大学大学院 人間・環境学研究科教授 佐伯啓思(西部邁ゼミナール)

◼️「悲しみの哲学」と「無の思想」

ゲスト:京都大学大学院 人間・環境学研究科教授 佐伯啓思西部邁ゼミナール)

【近著】 『正義の偽装』 佐伯啓思(新調新書)


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こんなこと言った人がいるの。nicht(※ドイツ語:〜でなはない「無」)でも、英語の nothingness でもいいのだけど、先週も言ったけどね、例えば『生きている(生)』ということから話をはじめるとさ、麻子ちゃん(小林麻子)が財布を持ってきているわけ。マーケットに行くでしょう。リンゴを買い、パンを買い、あとあと気づいたら「財布が空」になっていて『無』であると。つまり『有であるものが無くなった』ということはさ、『生』の中で、例えば「生命」がそうだよね。生きてるのに死んじゃったら、骨と燃やした煙になっちゃっておしまいなのね。数学者のポワンカレ(※フランスの数学者で物理学者の【アンリ・ポワンカレ】)でしたっけ?『ゼロの発見は偉大だった』と。でもね、普通の生活からはじめるとさ、『ゼロの発見』なんて、しょっちゅうやってきたよ、僕の人生で。はたと気が付いたら、あれが無い、これが無くなっちゃったというね(笑)でも、貴方(佐伯啓思)の言う『無』はそんなもんじゃないよねぇ?

『生』がなくなって『無』になってしまうという、財布のお金が無くなってしまうというか「空」になってしまう(笑)

その話を「逆転」させることもできますよね?「財布はもともと空っぽだった」と。なんか「いつの間にかお金が入ってた」と。それで、買い物に行っただけで、また「元に戻っただけ」の話。そうも言えますよね。

そうか(笑)

だから、『生』というものが、最初にあるというふうに言ってもよいけども、最初に何もない『無』があって、無の中から『生』がたまたま生み出されたと。私という生命体が生み出された。まずはね、その程度だというふうに、どこか考えておきましょうと(笑)

「色即是空』と言うじゃない?

そうですねぇ。

空っぽね、『空』ね。例えば、「生の意味は何だろうか?」と考えるよね。いろんな理論仮説があ、あーでもない、こーでもないとはいえ、結果として『生についての確かな意味』なんてものは、それは「錯覚」であり、『空』であるというふうに言えるね。

ところが、『状況』の中で、「色即是空」の「色(しき)」というのは「いろ(色)」だと思っているけども、「いろ」というのは、『具体的なこと』ですよね。「空」は『抽象』で、具体的(色)だとしたら、『状況はいつも具体的にあらわれる』よね。

[※色即是空:色『具体』 空『抽象』]

例題として言えば、「女性」は日本列島にだって6000万人ぐらいいるわけだよ。でも、僕の前に現れる女性は『具体的』にはごく限られているわけね。ゼロの時もあるけども(笑)だいたい、一(いち)か二(に)なんだ。

この人とどうするか。簡単な場合で言うと、婚姻関係を結ぶか、あるいは離縁するかといった選択問題、決断問題がいつもつきまとうじゃない?そう簡単に『空』とか『無』とか言っておれん、というのが『色(色即是空における「色」)』の段階で、しかし仰るように、「どうしてこの女を選んだんだ?」と考えたら、根も葉もない理由でありまして、説明しきれません、という意味においては『空』なんだよね。

両方あるんですよね。『空』であり、『色』。『色』であり『空』である(笑)

『生』を充実させたいという。この世の中にはいろんな女性もいるし、美味しい食べもの、そういう世界から出発すると、やはり我々の『生』というのは、イタリアンも食べたい、お寿司も食べたい、フレンチも食べたいというふうになります。

女性で言えば、ある女性と結婚してみたけども、どうもちょっとうまくいかなかった。で取り替えてBという女性と結婚したい。それもどうもうまくいかない。じゃあ、もう結婚やめて、あちこちB、Fと遊びましょうという話になってくるでしょう?これはまぁ【自由主義の原理】ですよ。あるいは【資本主義の原理】と言ってもいい。

[※近代社会での生の充実は自由資本主義原理]

そうね。

【近代社会の原理】ってそういうふうにくるわけですよね。

だけど、その前に、目の前にある「お茶漬け一杯」でいいじゃないか。なんか、たまたまどこかで知り合ってしまった女性一人でいいじゃないか。そういう生き方もありますよね。僕は日本人の多くは、今までどちらかといえば、そちらに傾いていたと思います。

で、日本人がどうしてそちらに傾いたかというと、底をたずねてみれば、全て『空』で同じだと。どんなに美味いもの喰ったって、どんなに不味いお茶漬けだって、まぁよく考えてみれば「その程度の話」で、全部が同じだと。

他人の説を持ち出してきて卑怯なんだけど、【ギルバート・キース・チェスタトン】という人はね、よく東洋の仏教のことを知らないくせにこんなことを言ったことあるの。

『お釈迦様はじめ、見るとみんな目を閉じている。(目を)細めている。』

彼ね、ヨーロッパ人、イギリス人だから「東洋人の目が細い」ということを知らなかったのかなぁ。彼はどう言ったかというと、

『あいつらが目を閉じている(細めている)のは、言わば外部世界について関心が無いからである』と。

[※「外部世界に関心が無く 目を閉じるか細めている」Gilbert Keith Chesterton ]

逆に言うと、あえて誇張していうよ。

『エゴイストであって、自分にしか関心が無い。』

「それに比べて、我がヨーロッパ人は〜」って(笑)僕はヨーロッパ人じゃないよ、彼がそう言ってるからね。

簡単に説明すると、「神の創り給いしこの世界、宇宙というものは、いつも自分以上のすごい奴が、超越者が創った、いつも驚きに満ちた何かがやってくる。だから自分たちは眼(まなこ)をカッと見開いて、驚きに見開かれた目でもって外部を見ているんだ。それが西洋と東洋の違いである。」

[※「西洋は驚きに見開かれた目で外部を見ている」Gilbert Keith Chesterton ]

もちろん、佐伯さんの言うように「私(わたくし)」という主体を重んじて、そもそも主体が他者に対して、言わば攻撃的に働き掛け、いろんなものを「発明・発見」し、この地球上を散々っぱら荒らしやがって(笑)という見方に、僕はまぁ反対しているわけでもないんだけどね、「俺たちは単に驚きにに見開かれた目でもって世界を見て、アジアはこんなんだ。これはどうにかせんといかん。」といって言っただけだ、とこういう説明になるのね。

それはその、ヨーロッパにもいろいろありますから、話をちょっと単純化したものですけども、まず西田(※【西田幾多郎】)も似たようなことは言っていて、結局、ヨーロッパの論理というのは、【対照の論理】であると。世界にいったい何があるかということを彼らはものすごい関心を持って、それを分割して分析していって。でまぁ言ってみれば、それを全部収集して。集めていく。『近代科学』というものは、そういう中から出てきた。

[※世界に何があるか関心 分析収集するのがヨーロッパ]

だけど、その時には、こちら側には「自分」がいると。それを見ている「自分」がいる。「自分」がいるということを、彼らは忘れているかどうか、それは分析しない。それは【アリストテレス】の論理学、【主語の論理学】というふうに彼は言ってますが、そこから始まるそういう西洋のものの考え方で、それはそれで西田はよく分かっているのだけども、問題は『こちら側にいる私』というのは、じゃあどういうふうに考えればいいのか?その「私」というものに関心を持った時に、「私」をどんどん突き詰めていくと、その「私」というのは結局、『無』になってしまう、と彼(西田幾多郎)は言うのです。

それはそうで、見ている時に、こちらに世界を見ています。(※スタジオセットのテーブルを見て)コーヒーがある、テーブルがある、というのも見ています。で「見てる」ということを、僕は差し当たって、「あまり意識していない」ですねぇ。意識していないけども、次の段階で「どうしてこんなものが見えているのだろう?」と考えると、「それを見ている自分」がここに出てきますよね。「あっそうか。俺がただ見ているだけか。勝手にこういうふうに見えているだけか。」というふうに思いますよね。そうすると、ここで『自分とこの(※見えているものとの)関係だけ』が次に残るわけですよね。自分らしきものがいて、こちらに(※スタジオのテーブルの上に)コップらしきものがあって、なんかそこに『一つの関係』ができているということが分かる。その「関係」ができているということを、もう一段意識している『何か』があるだろうということになる。これはもう言表できません。言葉に言い表せない。ただ『この関係を表している場』だというわけです。『そういう場があるだけだ』と。だから結局、『私』というものを突き詰めると、いわゆる『私』が、世の中を見たり、世の中に働きかけたりしている、その『場』だけがある。その『場』を写しているものが、ここに出てくる。それが本当の【実在】と言えば、実在です。全てが、その『場』に写された形で、こちら側に出てくるんだというような言い方を(※西田幾多郎は)するんですね。

そうか。

東洋の論理というのは、「自分」というものを突き詰めて、確かに、チェスタトンの言うように『自分にしか関心が無い』んです。【心の論理】とか西田は言いますけどもね。それを突き詰めていってしまうと、しかし『場』という非常に抽象的、一般的なもので世界を包括するようなものが出てくると。だから、私も考えている【無の場所】というのは、西洋的な論理よりも遥かにもっと一般的で、もっと抽象度が高く、もっと客観的なものだ、というふうに西田は言うんですよね。

でもさ、カント(※【イマヌエル・カント】)だと思ったけど、訳語で言うと【統覚】(英語 apperception、独語 apperzeption、純粋経験に近い統一的感覚)、pperception というのは「感覚」ね。この場合の「a 」というのは、否定じゃなくて、まぁ「一つにまとめている」という感じなんだけど、感覚を成り立たせている『究極の感覚』みたいなものを【統覚】、【統一的感覚】、だから(西田幾多郎の)【純粋経験】に近いのかもしれないんだけど、これを『統覚』というふうにヨーロッパ人も言うわけね、カントはドイツ人ですからね。

問題は、この『統覚』が、どっからやってきたかと。簡単な説明はあれだよね、この背後には「神(God)」という『絶対者』がいて、「絶対者が、人間なるものに、そういう統覚のあり様を示してくれたんだ。」というふうにね。

で、そういうことを言うのに、佐伯さんが反発しているのは、僕も同意するの。『神なんか簡単に持ち出すなよ』と。宗教者は怒るかもしれないけれど、確かに『場』でいいのかもしれないけども、この【統覚】らしきものというのは、貴方のお父さんも、お爺さんも、見たこともない曾祖父(ひいじい)さんも、みんなが似たようなことを繰り返し繰り返しね、人生の中で右往左往しながらも感じたのだとしたら、これを統覚をもたらしたものを、例えば【歴史】というふうに呼ぼうじゃないかと。こうしたとするよね。だから西田(幾多郎)の言ってる『場』というのは、トポスなのかフィールドなのか何かともかく、その『場』とは何ぞや? となると、やっぱりヨーロッパ的な説明も可能になるんじゃないの?

一方では『神』という絶対者を持ち出すという話、僕はこれはダメだと思うけど、まぁそういうやり方もあるし、もう一つは『統覚』というものが形成される、そうすると我々に手渡される【歴史の経緯】というの?その歴史・・・うん、、

それはねぇ、彼は【伝統】ということについて論じているですけど、『伝統というのは、昔からここにあるものではない。そんなものは何もない。今ここにしか伝統はない。』

俺賛成だ。

『ここで必要なもので、それを我々は思い起こして、何かを【伝統】というふうに呼ぶんだ。そういう形で、過去というものが現在に入ってきているんだ。あるのはしかし今ここ、今この時点の状況しかない。』というのが西田が言ってることで、だけど、その状況が続いていきますからね。そうすると似たようなことを我々は選択するから、結果として、ある種のものが【伝統】として続いてったという話になるだけの話。

[※今ここにしかない伝統 必要なものを想い起こす]

面白いねぇ、実は今、西田幾多郎が言ったことと同じことを、【小林秀雄】が恐るべきことで、こんな短いね、朝日新聞のアルバイト仕事じゃないかなぁ、戦前の。なんかねぇ、100字かなんかの短い原稿ですよ、彼(小林秀雄)はこういうふうに言っていた。『伝統と習慣は違う』と言ってるわけね。

『習慣慣習』ってのは、【無意識】に我々が受け継いているものである。それえに対して『伝統 Tradition』というのは、自分の受け継いていっているものはいったい何なのだろう?というふうに【意識】したところに生まれてくるもの。先ほどの例で言うと何なのだろうと。(※スタジオセットのテーブルの上の)これはコップでどうしょもないけどもさ、京都の何とか焼きだとしましょうよ。あぁ〜そういえば、親父もこんな何とか焼きを使ってたなぁ。曾祖父さんもこう唸ってね。「そうか。俺の感覚の中には、こういうふうな陶器を好む、こういう感覚が伝統として、自分の中でこういうふうに繋がってきているんだ」意識したところに感じるものね。それを【伝統】と呼ぼうではないか。

[※習慣慣習は無意識に受け継いでいるもの]
[※伝統は受け継いだものを意識したところにはじまる]

あの時代というのは、確かに仰るように「真剣に」自分の感覚とは何ぞや!意識とは何ぞや!」根元的に考えたのは確かにですねぇ。ついでに言うと、今風みたいに馬鹿な経済学者みたいに、Utility 効用とかさ、Satisfaction 満足とかさ、リンゴ喰って満足とか、金を稼いで効用とかね、そういう馬鹿なことを戦前の人は【品格】があったから言わなかったね。戦前の人たちは、もうちょっと『自分自身について』考えるというね。

そうですねぇ。

そういうことを、西田幾多郎氏が、相当、体系的にやったという。

西田にとって、『哲学』というのは、別に世界を知るための道具でもないし、それから【究極的真理】ってのは彼にとっては大事なんだけど、その真理というのは、どこか向こう側にある「神」を発見するとか、そういう話じゃないんですね。今、あの「状況」の中で『自分が生きていく』、特にあの人の人生は相当、八人のうち七人まで子供を亡くしたりね。

[※参照:正確には「八人の子供のうち五人の子が先立っている。http://blog.goo.ne.jp/a1214/e/1c920b762e99187e1a431acf469ce011 → リンク「西田幾多郎と家族の死」]

あぁ。すごいねぇ。

それから、奥さんが脳梗塞で、西田が50ぐらいの時に奥さんが脳梗塞で倒れて(※亡くなったのは、大正14年1月)

奥さんも入れれば、プラス1だね。すごいねぇ。

6年間介護してますからねぇ。相当、苦難の人生であったことは間違いなくって、彼はその「苦難の人生」をベースにして、悲しみ・・・【哲学というのは悲哀からはじまる】というふうに言っていて。

[※西田幾多郎の苦難の人生 哲学は悲哀からはじまる]

そうか。

だから、『哲学というのは人生の問題』であって、『自分の人生をどうやって処するかという問題』と言ってるんですね。それは【小林秀雄】の文芸評論だって、同じことですよね。

そうね。

そこは、『あの時代状況』というのは、あったのかもしれません。

そうだね。なんか「かなしみの感覚」を知らない人間とは付き合いたくないってのは、俺賛成だよ(笑)

結局、「喜怒哀楽」というふうにやってね、「喜」はまぁ〜一瞬ですよね。で、「怒」もまぁ〜そんなに続きません。「楽」の感覚というのは若干は続くけど、いつも楽の状態にいたら、楽でもなんでもなくなる(笑)

そうすると、いちばん根元的な感情というのはやはり『哀』だと思いますね。『哀しみ』だと思いますね。

そうか。喜怒哀楽の『哀』ね。「アイ」というから、こっちの方(愛)かと思ったんだけど、でも大和言葉で言うとね、『いとおしい(愛おしい)』と言うでしょう。あれは、もともと「いと=(現代語では)大変(非常に)」ね、「惜しい」という。

つまり、自分のかみさんにしましょうか。かみさんを失うと、『無』に。かみさんが無になると「愛(いと)惜しい」というね。それが『愛(あい)』であるという意味じゃ、『哀しみ』という、日本人の言葉遣いはそっちの方なんでしょうね。

そうでしょうね。

I LOVE YOU!とかさ。ところがね、そういう馬鹿なことは、日本人は言わないんだけども、でもそれについても別様の解釈をあるくだらんアメリカ映画を見ている時に発見したんだけど、アメリカ人でもなんでも、うちに帰ってきて I LOVE YOU!って言ってるらしいんだけども、「馬鹿な人たちだな」って俺は思ってた。ところがね、僕最近、年のせいか、家にいることが多いでしょう。そうすると、昨日のかみさんでも、いや、かみさんに限らないな。昨日の『場』ね。家庭というトポス、場。「昨日の場」と「今日の場」は、違うんだよね。しかもそこで、ものすごく丹念なことが行われているの。例えば、ご飯の炊き方でも、味噌汁の具合でも、ほうれん草のなんでも、洗濯でもなんでもいいんだけど、隣の人が死んだとか、猫がどうしたとかさ。

そうなってくるとさ、結婚する時に、契約で結んで「お前を引き受けるから」って判、サインすりゃいいと、そういうわけにはいかないと。毎日毎日『場』は、千変万化、変わっていくと。『この場を失うと、俺は愛(いと)惜しい』ということを、今日、会社から帰ってきてお前に言うぞといって、I LOVE YOU と言っている可能性が無いわけじゃないと(笑)

(笑)

考えとね、僕は日本人の特殊性なのかどうかわからなくなる。もう一つだけ言うとね、この『哀しみ』について、また【チェスタトン】が、あいつはね、本当にレトリシャンで、こういうふうに言うんですよ。

神ね。面倒だからGod のGとしましょうか。ここに人間、Human(H)がいるでしょう。もちろん、神なんて小さい声で言うけど、いやしないんですよ。人間が勝手に考えた「絶対」という観念なんですけどね。

で当然ながら、人間(H)は、絶対(G)に近づきたいと思うわけさ。ところがね、絶対を考えながら、「絶対には近づけない」という『この距離(GとHの間に存在する距離』を仮に点線で表せば、この(点線の表す)不在感ね、これが『哀しみ』であると。

なるほど。

彼(チェスタトン)ね、『Humor(ユーモア)』で言うんですよ。【滑稽】とは何か、ってね。『人間とは滑稽を感じる動物である。そして、本当の滑稽味の中には、哀しみの感情がなきゃならない』

[※「滑稽味の中には哀しみの感情がなければならない」Gilbert Keith Chesterton ]

人間なんて「不完全」に決まっているわけですよ。不完全なものが、完全なもの(絶対=神)を勝手に想定して、近づきたいと思うが近づけないというこの「距離感」に、いつも一種の『欠乏感・欠落感』、その『哀しみ』の。その全体が、この場合は、ユーモラス(Humorous) 【滑稽】であると。

なるほどね。

だから【悲哀感】を伴う。ただ彼、Pathos(ペイソス)と言ってますけどもね。sadness(サッドネス)とは言っていないけどね。

そうですね。ちょっとある種の逆説的なユーモアを含んだあれなんでしょうね。それ面白いですね、西田が、そうか、先ほどちょっと八人のうち七人まで子供が死んだと言ったけど、五六人だったと思います、五人かな?(※先立ったのは五人です)

最後の子供を亡くした(※昭和20年2月)後で、西田ももうその半年ぐらいで死ぬ(※同年6月)んですが、最後に書いたのが『宗教論』なんですよね。ここで彼が言っている【宗教】とはこういうことなんです。

ようするに、今のHuman 人間は、【相対的世界】なんですよね。神は【絶対的なもの】なんです。で、「この関係」というのは、いったいどういうことになるのかと言うと、相対的なものがあるためには、絶対的なものがなければならない(笑)

そうね(笑)

ところが、「絶対的なものが相対的なものに対して出てきた場合には、これ自体が相対になってしまう」のです。だから、絶対が絶対ではなくなってしまう。じゃあこれはどうなっているのかと言えば、『絶対が全面的に自己・自分を否定した形で、相対にあらわれる。相対は、全面的に自分を否定して全体に帰依するいうか、全体に向かう。』こういうふうな言い方、これを【逆対応】と言うんですけどね。

あぁ〜、それは知らなかったなぁ。

そうすると結局、『相対』、我々人間の側からすると、『全面的に自己否定して、神に帰依する』という話になるわけです。で、神の方は、『全面的に神という絶対性を否定する形で、人間の中に、それぞれの中に入ってくる』と、そういいう話になるんですね。

そうか。

で、その時に、「西洋の場合の絶対」は、それは『神』というかたちのあるものだったと。ところが、「かたち」があると、どうしても「相対」の方に、それ自体が「かたちもあるもの」として、『人間と神が相対的な関係になりやすい』というわけです。

だから、実はこの『絶対』というのは、「かたちを持ってはならない」、つまり【無】でなければならないという。無というものは、、、

でもね、でも正しく「そこの問題」でさ、それもなんかちょっと正し過ぎるような気がちょっとする。『絶対』と『相対』でいいんだけど、『絶対』とは何かを考えて発表したって、必ず『相対』的な見解でしかなくなる。でもね、それで『相対』でいいかというと、例えば、佐伯さんの意見と僕の意見は「相対的に違う」のだけど、じゃあ、どれぐらい違うかと言うには『基準』が無いとね。1メートル違うのか、どっちが上か下かね、『基準』が必要になる。基準というのは、差し当たり『絶対』があってはじめて『相対』、そういうね、堂々巡りの中に放り込まれるのだけど、さて、そこでですよ、それをね、神は絶対を、神という絶対者は「絶対を否定」して、人間の中に神的なある種の「生成」というのかな?spirituality スピリチュアリティ、魂の問題として入ってくるとか、人間は所詮は相対的、欲望まみれのものを、なんとか払拭するために、絶対、神仏を考えるというふうに話を、西田、佐伯さんのように持っていくか。

それともう一つの道があってね、堂々巡りとか、あるいは、板挟み状態の中でそれを突破するのはね、まさしく【生の実践】であると。『Action アクション』であるというふうであるとも言えるわけでしょう?それも「相対的なもの」なんだけどもね、かなり『絶対に近い決断』『神風特攻』のことを言ったのはそれもあるんだけど、もうちょっと卑近な例で言うと、二人はね(西部と佐伯)、もう長い間付き合っているんですよ。佐伯さんが、なんかの具合でね、例えばですよ「1000万欲しい」とこうね。仮定ね。その時にね、僕は40年そう付き合っているなと。ふところみたらどうもそれぐらいの余裕がないわけじゃないと。でも本当はね、俺もうじき死ぬし、お金の使い道もあるんだけど、惜しいけど、でも「この40年という年月を考え、彼との長い対話なり議論なり考えた時に決断して、1000万黙って彼の口座に振り込む」というね。これ一つの【行為的決断】だよね。それ僕「絶対」とは言わないよ。でも『仮の絶対』ね。

『行為』だ、『決断』だ、となったら、どうしても表現としては『無』ではなくて【有】の方に近づくだろう。「1000万あげます!」ってのは『無』でなくて『有』なんだな(笑)

だけど、その『有』を決断するためには、【無】がないとだめでしょう(笑)

そりゃそうだ(笑)

これ惜しいなぁ〜と思ったら、1000万他に使い道あったのになぁ〜とかさ(笑)そう思ったらねぇ。

だから、やっぱり張り付いているんですね、そこ(無)が。

そういうことなんだ。

私たちが本当は言いたいのはね、【西田哲学】について、にわか仕立ての解説がしたいんじゃなくて、そろそろ日本人はね、やっぱりこういう問題もおりに触れ、頭の中でめぐらせるようなことをね、しないと領土問題も、経済問題も、何問題もね、所詮「表面上」の、「国家の処世術」のレベルに落ちてしまって、「アメリカがだらしない」とか、「中国がけしからん」とかね、そんな千回も一万回も聞いたような話に落ちてしまうと。

もっともっとそういう意味では、何か語る時にね、自分の『感覚』『意識』『認識』の根源も、それね、あんまり佐伯さんのように根源までいくとね、、、

(笑)

麻子ちゃんね、気持ちだけでいいの(笑)

気持ちの問題一つと(笑)気持ちと現実が張り合っていると言ってるわけで。

まぁそういうことだな。

この番組、新年そうそう言いたいのは、日本の『人民諸君!』これね、僕が言うと傲慢だから、僕が去年書いた本の【中江兆民】を利用して言うと、、

『日本人よ、もうちょっと真面目に考えよ!(中江兆民)』

僕が言ったんじゃなくて兆民がね。今を去る112年前に、『日本人はいやだ。真面目に考えないから嫌いだ。』と言って死んだ人がいるんだけどね。まぁ〜だんだん、そんな気がするというのが、あれかね、うん。