<表現者シンポジウム> 保護主義の大切さを知れ 国家論の再建 (西部邁)

表現者シンポジウム>
保護主義の大切さを知れ 国家論の再建

【ニコ動】

西部邁ゼミナール】保護主義の大切さを知れ-国家論の再建 2014.02.01


文芸評論家「表現者」編集長 関東学院大教授 鎌倉文学館館長

アベノミクスということで、昨年から経済再生ということが行われております。

まぁしかし、日米関係、TPPの問題、そして安倍首相の靖国参拝に対する中韓のプロパガンダ、日本がどういう形でしっかりと国家を再建していくか問われる、そういった年になるのではないかと思います。

保護主義】と言いますと、経済だけではなくまさに国家・国民、それをどのように守っていくのか、国の歴史・伝統・文化をどのように守っていくのか、徹底的に議論してまいりたいと思います。

西部邁
評論家 「表現者」顧問

◼️西部講演「前半」部分

『国家論の再建』という極めてパブリック、公の問題のシンポジウムであります。

わたくしこの数ヶ月、極めてプライベートな事柄にかかりっきりで、パブリックなことに数ヶ月触れないような私の目とか耳にも、いつどこからともなく都知事選がそうか始まるのか、と思って。

でも、みなさんご存知のように、都知事選なんてものはね、まぁ猪瀬何某が当選したあたりから、4・500万の都民が何の文句も無しに、僕はあの人物に詳しいわけじゃないですけども、、

『あぁいう人間に投票するということ自体が、この世のデモクラシー、民衆政治が遠の昔に死に、オクロクラシー、衆愚政治に平成の名が始まってからひたすらなるオクロクラシーの連続が地方選挙のみならず、国会選挙その他でですね、続いているのはご存知のこと。正直言って、【もうどうにもならん】と。』

みなさんだって、心の底でそういうふうに思っているはずなんですね。どうにもならん、と言えばですね、『最高裁判所』というんですか、「正式嫡子じゃない人間にも、嫡諸子にも嫡子と同じ相続権がある」ということを認めたり、そういう事柄をみると、単に世論のレベルで、選挙のレベルでダメだというんじゃなくてですね、国家中枢、最高裁ですよ?この人たち多分、東大の法学部あたりを異常に高い偏差値で、その人たちが、国民の常識として、えぇ〜???と何度も首を傾げざるを得ないような判決を平気で出すということを見ると、、

『そうなのか。スペシャリスト、専門人というのは、専門以外のことについては無知蒙昧どころか、無知蒙昧ならまだいいんですが、その時々の世間のこれもまた世論の、世の風というものに瞬く間に靡いていくような、そういう連中たちが、この場合は司法の長でありますけども、多分、行政の長も、恐らく立法の長も、安倍晋三さんには悪いけども、まぁそんなもんに近いんじゃないかなぁ』

ホセ・オルテガ(ホセ・オルテガ・イ・ガセト)という1950年代半ば頃死んだ(1955年)スペインから亡命して長い間 アルゼンチンにいた言ってみれば社会哲学者でありますけども、彼はこう言っていますね。

『ひとたび世の権力が【大衆】に渡ったならば、その社会を救うことは事実上、不可能である。』

いわゆる民主主義でしょう。別に制度としての民主主義じゃなくて、大昔から多くの民衆、人々の動きというものに、直接・間接ながら左右されるような世の中というものでありますが、それが【民主主義】という形で制度化されて、《全てが世論なるもの、多数決なるものによって決まっていくとなれば、多数決に逆らうということはほとんど事実上不可能になる》んですよ。これをかつて今から150年も前の人でありますが、フランス人のトクヴィル(アレクシ・ド・トクヴィル)という人がアメリカを訪れて、たった9ヶ月旅行しただけでですね、、

『この国には、アメリカには、多数者の専制、Tyranny of the Majority が行われている。そしてこのアメリカという国の Primary Power(基礎権力、予備権力)は、いわゆる Public Opinion にある。もっというと、Periodical Press(定期刊行物、今で言う新聞のこと)ね。結局のところ、新聞の見出しに合わせて、世論は動いているじゃないか?そうなれば、デモクラシーのもとで世論を形成しているのは、Primary Power、第一権力、基礎権力であると。従って、アメリカのデモクラシーの第一権力は、【新聞】である。』

そう言えば、【山本七平】さんその他が、『マスメディアは、第四の権力だ』と。司法、行政、立法に続くなんて話をしていましたが、第四どころか、150年も前にハッキリと【第一権力である】と(※トクヴィルは、新聞は「Primary Powerである」)と。誰も(これを)指摘しないまま、戦後の68年過ぎれば、もう誰も手の打ちようも無くなっているくらい『多数者の専制政治』と『マスメディア及びそれに群がる多くの学者・評論家を名乗る言論人たち、それに靡いていく大衆』それに権力が移った。いわゆる【大衆】というものが世の前面に出てきて、しかも「武器」まで持ったのが、第一次世界大戦というTotal War 総力戦でありますが、それが始まる頃に書きはじめて終わった頃に出版された『西洋の没落』ね。【オズヴァルド・シュペングラー】という人の本ですけども、彼は何も現代に限らず、メソポタミア、エジプトの昔から、、

『結局のところ文明というものは、ちょうど植物が芽を出して、葉も落ちて枯れて、そして死んでいくという循環、それと似たような形で春夏秋冬という循環を辿るものである。そして西洋はメソポタミアもエジプトもみんなそうだった。そして西洋の文明もどうやら秋の終わりから冬に差し掛かり、それがこの第一次世界大戦であり、西洋が再び生き生きとした活力をもって文明を花開かせることは、もうあり得ないであろう。』

という、言わば《宿命論》《運命論》的な予告をしたのが、1919年に出たこの書物(西洋の没落)でありますけども、ヨーロッパの人々はそれを信じるかどうかではなくて、ある種の【日常感覚】として、この『文明』というものが、いわゆる『近代文明』というものが、とりわけテクノロジカルな、技術的なものによって率先されるこの文明が、どうやら秋から冬に差し掛かっていると。再び生き生きと活力を吹き返すことはないであろう。

そういえば、話をまた戻しますが、オルテガという人が言いました。

『文明数多しと言えども、自分たちに対して根源的な疑いの目を差し向けたのは、誰であろう古代ギリシャ人と、今のヨーロッパ人だけである。他の文明は自分たちを褒め称えるのに躍起になっているだけで、それ自体が極めてChildishな、子供っぽい、Infantな、幼稚なことだ。』

今の日本もそうでしょう?アメリカもそうですけどね。日本に限って言えば、こんなふうにしてですよ?都知事選だろうが、最高裁判決だろうが、それどころか、産業がですね、いろいろ空洞化して、政治における民主主義の堕落と、経済における資本主義の暴走というものをこれでもかこれでもかというぐらい日々立て続いているにも関わらず、皆して口をピーチクパーチク開きながら「日本人の底力」とかですね。いいんですよ、自分自身を励ますことも必要でしょう。元気付けのカラ元気も必要だということは認めますけども、これだけ立て続いて、ほとんど僕に言わせれば【異常人格】じゃないかな?と思うような人が政治の場に。これが「都知事」だとまでは申しませんけども、そんな形で次々と現れている、そういうことを目の当たりにしながら、ほんのいっときの自己慰安で呟いているような、それ自体が文明の紛れもなき【腐敗】というか。

これだけ技術が栄え、貨幣が栄え、マーケットが拡がるということはそうだけども、《拡がれば拡がるほど、技術文明の中で活力を言わば枯渇させていく》 Fragile ひ弱な、昔そう言えば、【ズビグニュー・ ブレジンスキー】という国際政治学者が、、

『日本なんぞはFragile Flower ひ弱な花に過ぎない。』と。

あれからもう30年も経ちましたが、確かにこの日本列島にはある種の【ひ弱な文明】しか私たちは持てなかったのではないか?ということを根源的な自己懐疑の目を差し向けるのが《怖い》ものだから、「日本は強い」とか「まだ頑張れる」とか「底力がある」などと。

◼️西部講演「後半」部分

グローバリズムグローバリズムという。Globeというのは、もともと「球」のことで、簡単に言うと「地球の球」のことでありますけども、まぁ、実際上は「広範囲」という意味ですね。

僕だって認めますよ、「今がグローバルな時代である」と。人間は簡単に外国に行けるし、貨幣も技術も簡単に外国へすっ飛んでいく。人間の活動がますます広範囲になっているということは認める。

でもね、「広範囲」に人間と付き合えば付き合うほど、僕自身もそのウチの一匹かもしれませんが、有象無象と接触せねばならない。得体の知れない人物と、得体の知れないConflict 葛藤を演じなければならんという、つまり広範囲に拡がれば拡がるほど、『葛藤』というものが、『矛盾』というものが深まるということ、こんなことは《常識》で、人間の活動が地球をぐるりと回れば回るほど、その回る過程で中国とぶつかり、インドとぶつかり、イランとぶつかり、エジプトとぶつかり、ヨーロッパとぶつかり云々という形でいろんな矛盾・葛藤が渦巻くものだと。そういうふうに考えれば、「グローバリズム万歳!」なんて言っている余裕は無いハズなんです。

今の世界がどうなっているか、というグローバルな、せめて構図なりイメージなり持たなければ、いったいこの間、私たちは、この地球、世界についてどうイメージを持っていたか?いろんなイメージがあるでしょうが変ですね。

例のソ連ペレストロイカで崩壊する前までは、「20世紀の後半は世界は米ソによる二極、二つのPoleの間の均衡化、危うい均衡関係を保っている、これが世界秩序である」ということを皆して口にしていた。ところが、ソ連が崩壊した後、アメリカで言えばクリントン政権時代ですが、手のひらを返すようにして、「今やアメリカの一極支配が世界の構造である」と。そうして日本人なんぞがですよ、特に反左翼の連中がすっかり喜んで、「社会主義が崩壊した。これからはアメリカの一極支配である。アメリカに擦り寄っていれば、日本の未来は安泰だ!」みたいな調子で『日米同盟万歳!』みたいなことを10年ばかり言っておった。

ところが10年ぐらい経って、ブッシュ政権になって、例のイラクアフガニスタンの様々な混乱の中でアメリカ自身が、そしてアメリカの証券資本主義が、『バブって崩壊していく』という中で、「実はアメリカの一極支配構造は夢想であった。これからは多極構造になる。つまり、いわゆるBRICs ブラジルだ、ロシアだ、チャイナだ、インドだ、そういった新興工業国というものが、世界の覇権に参加する。よって世界は多極に分散する」と。たった10年かそこらでですよ、世界図をくるっくるくるっと変わっていくわけですよ。ところが、この多極分散の中で、中国の経済も、インドの経済も、ブラジルの経済も、皆さんご承知のように先進国と似たり寄ったりの形で『バブって、それでバブル崩壊でもって社会格差が異常に拡大するのみならず、自然環境のみならず、社会環境もズタズタに引き裂かれていく』という中で、BRICsの繁栄もこれまた夢物語で跡となってどうなるかと言えば、世界は言うなれば、誰も言っていませんが、【無極】いったい「極」が中国にあるのか、アメリカにあるのか、どこにあるのかわからない「無極」、そして秩序と言えないようなChaos 混沌【無極混沌の時代】がやってきた。たった2・30年の間にですよ、世界図を、世界イメージというものをくるくるくるくると変わっているのに、どうして皆さん「グローバリズムだと称して、我々は世界の果てまで行く、外国と付き合え、さぁTPPだ何だ!」と言っているでしょう。お祭り騒ぎをやり続けられるのか、小さい声で言いますけども、結局、大きな声で言うんですけども(会場笑)

『頭が狂っているんじゃないですか?』

という疑問が出て当然だけども、どの政治家も、どの評論家も、どの学者もですよ、「俺たち狂っているかもしれないぜ」ということを言おうとしない。世界の中でどんな位置を占めて、どんな方向へ向かうのだろうと、首を傾げるなり頷くなり、うな垂れるなりして当然のはずなのにして、皆して「我々の底力を知れ」とか言ってカラ元気、全くのお祭り騒ぎですよ。

例えば、皆さんね、いま中国が尖閣その他の問題で、『国防』が大事だ。安倍政権その点ではなかなかなことをやっているんでしょう。「国防が大事だ」と言っただけでもですよ。そういうことを言うだけでも結構なことで、靖国神社行ったことも、なんだかんだありますが、国防姿勢の一環としてそれも褒め讃えてもいいんでしょう。

でも、考えてみたら『国防』って何なのですか?《国家を防衛する》ということですよ。『国家』って何なのですか?国家ということは《国民の家》ということですよ。国民及び、その国民がつくりだした政府 Government 統治機構、これが【国家】ということですよ。国家を防衛するのにですよ、武器を持っていればそれで済むのですか?普通で考えて、国家を防衛するのならば、そして国民がロボットでもサイボーグ、情報制御人間でもない以上、他ならぬ《人間》である以上、人間が国民であり、そして例えば昔で言えば、誰でしたっけ?リンカーンでしたか?「人民の人民による人民のための政府(政治)」(※ご存知の通り、この言葉はエイブラハム・リンカーンのオリジナルではない)Peaple、でもこの場合の「The Peaple」というのは世界人民のことではないのですよ。『アメリカ国民』のことなんでしょう、だって大統領選挙に我々は参加していないのですから。アメリカの選挙に世界人民が参加するのなら、中国とインドが(※人口の数で)権力握るに決まっているじゃないですか。つまり、「人民による 人民のための 人民の政府(政治)」と言ったって、これは国民=American Peaple ということであって、日本の場合はJapanese Peapleであり、このJapanese Peapleが経済をやり、政治をやり、文化を営み、そしてそういうものに基づいて『防衛を、国家の武力による防衛体制を敷く』わけですよ。

従って、国防と言うのならば、『経済をどう防衛するか?』経済というのは別にボタンを押せば動くものではないのですよ。勤労者が組織をつくり、会社をつくり、会社とかの間の人間の取引があり、生産者と消費者の間の人間の関係があり、そういう諸関係が地域の社会をつくり、そういういろいろな社会が集まって『国家』になるという人間の集まりですよ。そしたら、必ず経済の中に、人間が出てきて、《経済を営む人間がどういう文化を背負っているのか、どういう政治をやろうとしているのか、どういう社会を繰り広げようとしているのか、ということが、経済活動の生産活動なり消費活動なり、投資活動なり貯蓄活動に関係してくるに決まっている。》

人間は生きている限りですよ、「明日はどうなるだろうか?」「五年後はどうなるだろうか?」人間というのは【未来】という時間を意識して現在を生きる、そして【未来】をどういうふうに予測するか、想像するか、予想するかとなった時に、自分の「過去」はどうであったか?ということを必ず何事か振り返る。つまり《「過去」振り返り、そして「未来」を見通そうとする【時間意識】の中で、今現在の活動が営まれていればこそ、全て経済から文化に至るまで、機械ではなく「人間の活動」なんですね。》

そして『国家』をつくっているからには、ほぼ必然的に数百数千年の歴史が、全く逆方向だとは言いませんが、大きな隔たりをもって『国家の歴史』がある以上ですね、【国民の意識】というもの、とりわけ「時間意識」「歴史意識」というものも、日本人と、アメリカ人と、中国人と『違うハズ』である。そういうものをどこかで【防衛】して、《経済も政治もまた国民のものとなるという、当たり前のこと。》

この「当たり前のこと」を打ち砕くかのようにして、【ほとんど全てのメディア】が、別に新聞に限りません、雑誌だろうが、週刊誌だろうが、TVだろうが、「グローバル」などというたわいのない言葉を吐いて、ある人が言いました。【ジャン・コクトー】という詩人(仏)でメキシコシティのことについて、家を失った、住む場所、それこそ地域共同体から放り出された少年たちが年幼くして、いかに凶暴なる犯罪に、犯罪とも自覚せずにとりかかっていくか、ということを描いた『アンファンテリブル』(enfant terrible:恐るべき子供たち)、アンファン(enfant)というのは「幼稚」「子供」、テリブル(terrible)というのは「恐るべき」で、「恐るべき子供たち」ということでありましたが、私ハッキリ思いますよ。これは別に10歳とか12歳とか、そういうことではなくて、今や60だろうが70だろうが、ほとんどアンファンテリブルの、恐るべき子供たちのセリフとしての「グローバリズム」だの、「マーケット・ファンダメンタリズム」だの「デモクラティズム」だの何だのかんだのということをいって、それ以外のことについて目を向けようとしない。

スペシャリストのこれはどんなに成績が良くても、どんなにいわゆる業績をあげようとも、アンファンテリブルとならざるを得ないのは、全体の図を知らずにグローバルな広範囲な、物事の経済と言ったって本当に複雑なんですよ。経済に人々の習慣も文化もですね、歴史も政治も権力も組織も何もかも絡み合って、経済が動いていくという意味において複雑で、その時、マーケットの取引という局所をスペシャルに、特殊に調べるためにも、経済の全体がどんなものであるかを一般的に広く物事を知らねばならない。

ところが、それを知ろうとしないのが、専門人。でも、どうして知ろうとしないで済ませるかというと、そこに出てくるんですね、全体像は言わば《世論》が与えてくれる。世論の動きの中から、どうもなにか人が切実に思うことは、欲することは、子供が欲しい!欲しい!欲しい!と言えば、どうもそれは《権利》らしい、権利として《自由に追求》していいらしい、という《世の中の雰囲気》、この《雰囲気で全体像を染め上げる》んですね、借りてくる。逆に言うと、恐ろしいんですよ。

この雰囲気がもしも一年後、十年後に変われば、全く違った全体像でもってスペシャリストが、僕、別にね、ナチズムファシズムを批判しようという(ような)そんな時間は(今)ない。あの1930年代が、いま全世界にそれとは違うけども、《似たようなこと》がまた起こり始める理由はですね、全体像というものが、実に軽薄な、その場限りの、たかだかメディアの、それが1週間も長持ちしないような思いつきの軽薄な表面的なその全体像を借りて、この角度にある専門人が取りつき、(一方で)向こうの角度で他の専門人が取りつくというようなことをやっていると、この全体像が《ある崖っぷち》に立ち、崖から転落し、二進も三進も行かなくなった時に、ある種の『狂気』に満ちた、『凶暴』な、ある全体的な雰囲気が起こった時に、《またそれに合うようにして》様々なクレイジーな文化運動から政治運動までもが始まったというのが、【1930年代の経験】でありますけども、先程、【大衆】と言いましたが、大衆というのは日本人が言う意味の大衆じゃないんですね。これに対応する英語は「Mass」で、マスというのは「砂つぶ」とか「粒子」が、つまり一粒一粒バラバラのものが、大量に集まった状態を「マス」、つまり「大量」という意味なんですよ。

日本には、1億2800万人ぐらいいるらしいけども、大量の人間たちが、バラバラになって「風に吹かれるように」して、今日は砂山が高い山をつくるけども、風向きが変わればあっという間に崩落するような、そういう実に《不安定な大量化現象、砂つぶ化現象というものに、資本主義も民主主義もさらされている。》

そして、それがついに、恐らくはですよ、どこかでこの大量の人々が、一体、自分たちが何をやってきたのだろう?これまで大声あげてピーヒャラピーヒャラ叫んでいた人たちが、自分たちのあまりのいたらなさに、頼りなさに、不甲斐なさに、はたと沈黙する時がやってくるに違いないんですね。その時なんですよ、別に(この講演を聴きに来ている)皆さんを励ますという意味で言うんじゃないんだけども、【多数者の支配が終わる】のは。Tyranny of the Majorityが終わるのは。そのマジョリティがですね、自分たちのあまりの愚かさに呆れ果てて、「沈黙」に入る時に、それまで何を言っても聞いてもらえなかったマイノリティ(Minority)のごくごく真っ当な、常識な、平凡と言っていいほどのあたりきしゃりきの、例えば、国家にまつわる論説というものが、人々の心に素直に沁み渡っていくような時が・・・ところで来るんですか?(会場失笑)

僕は、来るんじゃないかなぁ〜と。

◼️最後に

人間というのは、先程言いましたが【未来を想定】している。来るものと想定しているでしょう。そして「生きて死んでいく」以外に、他に生きようも、死にようもないわけでありますから、自分は多数派か、少数派か、などという選挙の話みたいなことを自分のオツムの中に入れるのは、そろそろ止めにして、どう考えても、矯めつ眇めつ、撫でても摩ってもですね、こうとしか思われないようなことについては、「こう思うぜ」と言って聞いてもらえなくても当たり前。たまーに聞いてもらえれば、「あぁ、よかったな」というふうに平凡に考えて生きればですね、今よりかは少々は、まぁ〜幸せな人生になるのではなかろうか(笑)

大した励ましになりませんでしたが、これが年寄りの皆さんに対する提案ですね。ご清聴ありがとうございました。