防災は安全保障である 藤井聡×佐藤健志 国家強靱化のツジツマ②(西部邁ゼミナール)
著書『強靱化の思想』ー「強い国日本」を目指して(育鵬社)
『メガクエイク・巨大地震Xデー』(光文社)
▷評論家 佐藤健志
『僕たちは戦後史を知らない――日本の「敗戦」は4回繰り返された』(祥伝社)
【ニコ動】
(西部邁ゼミナール)国家強靭化のツジツマ②2014.03.29
国家の強靱化とは何か?の「第二週」目は、『防災とは安全保障である』というテーマでお送りします。
・『メガクエイク・巨大地震Xデー』藤井聡著(光文社)
・『強靱化の思想』ー「強い国日本」を目指して 藤井聡著(育鵬社)
防災は安全保障である、ナショナル・セキュリティ(National Security)ということをおっしゃりたいの?
はい。防災は安全保障であると言って、もし意外に思われた方がいたら、『意外に思われること自体が違うのである』というふうに申し上げたいわけです。
英語にしちゃえば、全部Securityです。(西部:そうだよね。)個人の身の安全を守るのも、国の防衛を確保するのも、全部Securityです。これが繋がっているというのは、実は当たり前のことである。(藤井:そうですね。)
防災。藤井先生がご専門である『地震対策』ですよね。それもその繋がり(※セキュリティ⇒安全保障)の中において捉えられなければいけない。(藤井:そうです!)
逆に言うとね、日本が比較的「右」傾倒の人たちというのかな、『国防』といった時にね、すぐさ「軍事力」のことだけを言うわけよ。(藤井:いやそうなんです。)それも逆に言えば、問題なのよね。
藤井聡
おかしいですね。今、我々、『国土強靱化』の行政を政府の中で進めてますけども、その中でも重要な理論的な枠組みの一つが、我々は【安全保障問題】を取り扱っていると。
で、一応、行政的には二つに分けまして、⑴軍事的な安全保障問題と、⑵経済・社会生活的安全保障問題があって、で、安全保障と言うと軍事的な安全保障問題ばかりが議論されてきた陰でですね、生活安全保障・社会安全保障・経済安全保障が蔑ろにされてきたのではないか。その中で、政府の中で『国土強靱化』という行政の中で生活安全保障・経済安全保障・社会安全保障というものをしっかりとやっていって、国家全体のバランスをとろうではないか、という論理構成で議論をしているんですね。
その根底には実は、【想像力】というものが非常に重要なんじゃないかと思います。
藤井先生が去年出されたこちらの『メガクエイク・巨大地震Xデー』(藤井聡著 光文社)という本がありますが、ここでハッキリ仰っているのが、、
『国土強靱化には、イマジネーション(Imagination)が何より大切である。』(藤井:はい。)
なんでイマジネーションが大切か?
実は、社会システムが強靭であるかどうか「物理的な基盤」がちゃんと整備されているか、という問題と並んで、そのシステムが、どういうふうに、いざという時に運用されるか、という点と切り離せないと。
となると、巨大災害の時に、その時に「どう行動するか」それが明白になっていなければインフラの整備だけやっても、それは十分ではないと。(藤井:もちろんそうです。)しかし、そこで重要になるのは、「そういう時に何が起きるか」ということを【的確に想像すること】であると。
これを踏まえて、藤井先生は『国土強靱化は、イマジネーションが出発点である』と。イマジネーション、危機意識を強めていったら、それこそ『防犯』、身の普段の防犯から、国家全体のいわゆる『国防』に至るまで、国のあり方は大きく変わるはずである。
防犯って「犯罪」の方の防犯?
そうです。
ですから、『国土強靱化』は【国家強靱化】であると。
藤井聡
この本(※『メガクエイク・巨大地震Xデー』藤井聡著 光文社)の帯にも書かせていただいたのですが、、
『恐れずに、「巨大地震によって この国が如何にして潰れ得るのか」をイメージせよ!』
というのが「巨大地震 メガクエイクXデー」の帯なのでこのように書かせていただいたのですが、「巨大地震によって」というのが特に必要がなくて、「如何にして、この国が潰れ得るのかをイメージせよ!」そうすると、ありとあらゆることを当然、考えなければならなくなってくる。
ただ、行政的には「特定のリスクを設定せざるを得ない」という局面は当然あるのがですが、思想的にはそういうことになるのかなと。(西部:そうか。)
「日本の敗戦は繰り返される」と。(西部:あぁ。)1945年に一回張子が来たんじゃなくて、繰り返し来てるし、これからも来るだろう。そういう視点を持たないと、実は今の時代は分からない、今の我々の状況は分からない、と捉えたわけです。
その点では、本当に藤井先生と問題意識がほとんど共通しております。(藤井:そうですね。)
なんかね、僕は「言葉の問題」をこだわり過ぎるけどもね、インフラストラクチャ(Infrastructure)、インフラ、道路だ橋だ。この『インフラ(Infrastructure)』というのは【下部構造】という意味なのね。
でも、いま佐藤さんが仰ったのは、『インフラの運営の仕方』か。この下部の反対は上部なんだけど、上部は英語で言う必要もないけど、スープラ、スープラストラクチャ(Suprastructure)、人間なり国家なりが生きると考えた時にさ、やっぱりね、単に下部構造(インフラ)で、「道路がありますよ」というんじゃなくて、『その道路をどう使うか』ね。建物(を建造するために建築資材)を運ぶのか、例えば、学校から学校、教育のために道路が必要なのかとかね、その他もろもろ、なんかそういうようなことがスープラ(Supra 上部構造)となると『上部』だけども、上部というのは『未来へ向けてどういうふうに生きるかということ』だから、【イマジネーション(Imagination)】もね。
ですから、『上部構造としての人間精神の想像力、Imagination、これが下部(構造 Infrastructure)のあり方も決めてくる』という(藤井:そうです。)そういうことなんだろうね。
そうです。あの16世紀の哲学者【ジョルダーノ・ブルーノ】(伊哲学者・修道士:1548~1600年)は言い切ってます。
『上への道は、下への道である。』
そういうことなんだよ。そうでしたか、すいません(笑)そうなんだよね。
藤井聡
当然ながら、『下への道も上への道へ繋がっていく』、そこにそうやって【循環】が存在する。
そうね。舞台裏でちょっと佐藤さんから教えられたんだけど・・・まぁ、いいや。僕が言うより、あなた(佐藤健志)が、あの説明してよ、【キッチュ】の説明を。キッチュ松尾さん(松尾貴史)という人もおられるけども(笑)松尾さんもこちら(西部ゼミ)にお呼びしたことあるのよ。(藤井:あぁそうなんですか。笑)
特定の個人に対するコメントでは一切ないということを、まずお断りしておきたいのですが(笑)
強靱化というのは、もともと『危機意識』を的確に持つことからはじまるという藤井先生の主張を踏まえて考えていくと、では、『「強靱化の妨げ」となるものは何か?』、災害の障害は「危機意識なんか鈍くていい・持たなくていい」と、そういう発想がいちばん危険であると。
ところが、その発想は、「どういう前提」の上で成り立つか。「今の我々のシステムを根底から揺るがすような危機的事態など起こるわけがない」という発想ですね。ですから、危機意識が鈍くていいわけです。イマジネーションが鈍くていいわけです。
これ(Kitsch)はですね、実は、19世紀のドイツで生まれた言葉です。現在は英語をはじめ、多くの西洋諸国の言語で使われています。普通はこれは「一般ウケ」「俗ウケ」を狙ったくだらない作品とかですね、「安っぽい」「チープな虚飾性」などと言われますが、実は私も最近知ったのですが、もともとの意味は、、、
これね、日本語で言うとあんまりいい言葉じゃないけど、【自己満悦】という言葉、Self-complacencyというのかな。自分に満悦しちゃっている状態のことね?
そうです。(西部:ふう〜ん。)
ただ、それは本当に満悦しているというよりも、その「矛盾した要素が無いぞ!無いぞ!無いぞ!」と抑圧を続けると。(西部:なるほどね。)その天真爛漫に満悦していると言うよりも、自分の中にある矛盾とか、相反するものを、必死に抑えつけて、「無いんだ、無いんだ、無いんだ。」と言い続けると。これが【キッチュ】なんですね。だから、安っぽいわけです。(西部:なるほどね。)
藤井聡
で、その「無いんだ」というのは、最初は意図的なこともあるのかもしれない。けれども、そのうち、完全にこれは精神病理なんかでよく言われる【抑圧】というものが起こって、「自分が抑えつけているという自覚」すらも無くなっていって抑えつけてしまうと。で、時々何かの「矛盾」を目にした時、例えば、その物語の「何かの綻び」を見たときに、「あっやばい」という押さえつけている事実を気づきそうになるのだけども、その時に、必死になって(※押さえつけるジェスチャーをしながら)過剰反応でそこを押さえつけている、ということになりますね。
ムキになって頑張ると、そういう話ですね。
麻子さん(小林麻子)ね、こういう英語知ってた?【ガジェット(Gadget)】
小林麻子
いやぁ・・・。(知らないです。)
これ、ガジェット(Gadget)ってね、「俗ウケ」と関係あるのかな。要するにね、「安っぽい」ね、「機械的な小道具」ね。
【キッチュな「もの」】です。
「もの」の方だね。
「もの」がキッチュになると『ガジェット』になります。(藤井:あ〜あ。)
ガジェット・・・これは案外ね、英語字に・・・まぁ、こっち(Gadget)の方が英語ですけどもね。要するに、なんか、随分前からヨーロッパ・アメリカですらね、「現代社会というのは、高度経済成長だ、GDPだ、と言ってるけど、その作られてるものの大半は【ガジェット】じゃないか?」というね、かなり強力な意見が発表されている。日本で非常に少ないんですよね、それが。
それを広げて言うと、もっと文化的なことも含めて佐藤さんは『キッチュ』と。
藤井聡
そのキッチュの話を佐藤さんからお聞きしても、これこそが強靱化の真逆の【脆弱化】の本質なんだということが、改めて感じたわけですけども、そうすると、その反対の『強靱化』は何か、というふうに更にもう一回、話を戻すと、こういうことが言えるんじゃないかなと思うんですが、やっぱり人間どっかで全ての情報を、全ての時間帯において処理し尽くすことは、これは不可能なので、やはり、どこかで「キッチュ化する」という宿命を帯びているんだと。(西部:あ〜なるほどね。)
どっかで、簡便化するとか、簡略化するとか、抑圧化する、それはそれで、有る程度仕方が無いことだとしても、何か「綻び」があった時に、その「綻び」を見て「これはヤバイ」と思って、それをヒステリックに抑えつけるのではなくて、物語そのものを変換していくという方向に努力を向け変えて、そこでシステムを変えて、また別のキッチュを作る。
で、従って、キッチュで作り上げられる「虚構的なそういう物語・システム」そのものを「暫定的なものなのだ」と常にどっかで思いながら、その道具を使って委細して、で何かがあったらそれをどんどんどんどん循環させていくことが出来れば、これは強靱化に繋がるのだろう。
まだ、自分の弱さに直面出来ている人は、強靭なんですよ。(藤井:あー、そうですね。そういうことです。)で、キッチュな人というのは、弱さに直面すると全人格が崩壊するんじゃないかという恐怖に駆られて、ものすごいムキになって抑圧する。
『強靭』の反対概念は『脆弱』です。しかし、【強靱化】の反対概念は【キッチュ】です。
藤井聡
ハッハッハ(笑)
ところがですね、「戦後日本」には、いろいろ【キッチュ】があるわけです。例えば、、
藤井聡
アッハッハッハー(爆笑)
あとですね、、
②『政府に反対するのは全部正しい。』と。【反体制キッチュ】と。(西部:そうだね。)
あるいは、、
あとは、藤井先生と縁の深いですね、、
⑥『事故が起きるに決まっているじゃないか。』という【危険キッチュ】
キルケゴール(※【セーレン・キルケゴール】1813~1855年 デンマーク)という人が、1840年頃だな。つまり『現代人(当時)というのはおかしい』と。何か、全てのことについて、(藤井:〔渋い表情をしながら〕あ〜あ。。。)要するに『薄ら笑いを浮かべながら、全ての問題は大した問題でありはしない』と、いうふうにある種の薄っぺらな【ニヒリズム】でしょうね、そのことをですね、まぁ〜彼はある意味で宗教家ですからねぇ。
例えばですよ、『脱原発』ってあれほど騒いでね、ところが、今度政府がですよ、安倍政権が「原発再稼働」と言う。どっかで暴動でも起こるかなぁ、と思うじゃない?あれほど大騒ぎしたらさ。でも、誰一人騒ぎもしない。「どうも再稼働らしいですよ」「ふ〜ん」ってなもんで、全て右から左へ移ろうが、下から上へ移ろうが、『なんとなく薄ら笑いを浮かべて済ましてしまう』というね。
だから、なんて言うのかな。(渋い表情をしながら)【キッチュ】ってのは、ものすごい人間精神としての『フラジャイル(Fragile:脆弱)』であると同時に『汚い』ですね。堕落を感じる。
藤井聡
美醜の点で言うと完全に『おぞましき存在』である。だからこそ、英語で俗悪という意味の『vulgar(俗悪・通俗)』というのがあるんでしょうね。
自分の中に「醜い要素」があるんじゃないか、ということを絶対に認めない『醜さ』がある。
藤井聡
そうですね。それは醜いですよね。
表面がいくらきれいでもダメなんですね。中が安ピタという話になっちゃうんです。
ほんとうにすごいんですよね。昨日まで「構造改革」と言ってた人が、「構造改革が問題で〜」と。小泉構造改革を(当時の国民世論の)8割が支持して、その5年後には「その(小泉)改革のせいで、貧乏人が増えてどうのこうの」と。
それ同じ人間、同じ日本人が言ってるのよ。簡単に言うと、15年の間に巨大な右から左・左から右のことを「3回」言って、本人たちは単に薄ら笑いを浮かべているだけ、と言うね。これほんとにね、日本だけではないですけどね。世界各国そんなもんだけども、なんか、日本列島(そのようなのが)目立つね。
藤井聡
『キッチュ』の問題で、改めて感じたのがやっぱり、『考える』ということ、イコール『強靱化』ということなんだろうなと感じたんですね。
この『考える』というのは、本当に普通の言葉。誰だって普通、考えているようですけども、実は『考えているかのようなフリをしているだけで、何も考えていない』という、これは言わば【ゾンビ】(※無言無意志で歩き回る死体)と言ってもいいと思いますけども、そういう人のことを『キッチュ』と言えると思いますね。
で、『考える』というのはどういういことかと言うと、何かが「綻び」があった時に、何かをこう「物語を変える」とか、「解釈を変える」とか、これはしばしば心理学で言われるんですが、【センス・メーカー(Sense-maker)】、『意味を作り出す』という、そのデシジョンをメイクするのではなく、センスをメイクするということをしばしば心理学では言われるんですが、『考える』といいうのは、実はデシジョンをメイクではなく、センスを作る、「センス・メイク」ということであって、そのセンス・メイクをすると、「こういう意味で自分は弱いなぁ」ということを引き受けた上で、『じゃあそれを前提でどういうふうにするか』というまた意味を作り上げたりだとか、そういうことで、どんどんどんどん流転するというか循環していく、これが『考える』というものの本質で(西部:そうだね。)これを止めてしまうと、キッチュになって、脆弱化していってヴァルガー(vulgar 俗悪)になっていって。
逆に、その循環をしていくと、どんどんどんどんいろんな状況にも対応出来て、強靱化していくということになるんだろうなぁと。
例えば、『考える』という事は、何かを『疑う』ということでしょう。でも、『考える』ためには、ある種の『前提』というのが必要なわけですよね。『前提』というのは、論理的に言えば山ほどあるわけですよ。そうすると、どれかを『選ぶ』わけでしょう。『選ぶ』ということは『信じる』というほどじゃないけども、少なくとも『信じたい』と思うというね。
『考える』ことを言うと、やっぱり『疑う』ためには、何かを『信じ』なければならない。でも、果たして『信じられる』ことがあるかどうかを、今度は『考える』、『考える』ためには・・・といういま言った【循環】ね。『循環』の中に身を置くという、本当は精神論的に言えば、【恐るべき危機的な作業】なのね、『考える』ということはね。
藤井聡
そこまで考えてですね、あぁと思ったことが一個ありましてですね、物理学で「素粒子」というものを「質点」だと思われていたのですけども、(西部:あぁ、質点ね。)最近では、「スーパー・ストリング・セオリー(superstring theory)」若しくは「超ひも理論(超弦理論)」という、点だと思われていたものが、素粒子というのは拡がりをもっているというふうに最近は言われてまして、その「拡がりを持っていること」ではじめて世の中が動いているんだということが、最近言われるようになったんですけども。
『本当の考えと嘘の考え、それを見分ける実験方法というものがもし決まれば、信仰(=信じること)と科学は同じものになる』と。(藤井:あ〜あ。)
そういうことだよね。
中野さん(中野剛志)との対談で出てきたのですが、イギリスのコールリッジ(※【サミュエル・テイラー・コールリッジ】1772~1834年 詩人、批評家)詩人の。彼なんかも、『理性の根底には「信仰」がある』と。(藤井:そう。)
『何かを信じて前提を選びとるという行為を合理的には説明できない』それだと思いますね。
藤井聡
で、そこでさらに重要なのは、何故それが大事なのかと言うと、根底そのものが、実は「点」ではなくて、実はいくばくか拡がりをもった『循環し得る動学的なもの』で、経済学で言われる「均衡」などという静的なものではなくて、何かずっと蠢いているというのが真実の状況で、にも関わらず、『信仰』を持つというもともとものすごい矛盾を孕んだ行為をやってのけることでしか、実は【生きる】ということにはならない、ということなんだろうなぁと。
これね、話を面白くするために言うんじゃないんだけどね、有名なセリフなんだけど、チェスタトン(※【ギルバート・キース・チェスタトン】イギリスの作家、批評家、1874~1936年)ね、別に「強靱化」コースにくっつけて言ってるんじゃないんですよ。(小林:はい。)
『狂人(Crazy Person)とは理性を失った人のことではない。狂人とは理性以外の全てを失った人だ』ってね(笑)
これが、今の話にくっつけて言うとね、『信じる』、『何かを受け入れないと考えることすら出来ない』でしょう?『受け入れる』ということ、あるいは『信じる』ということは、理性の問題じゃないよね、いま言った『信じる』ってのは、まぁどこまでか知らないけども、『信じる』・・・いや少なくとも『信じることに当座するということ』ね、【理性を超えた問題】でしょう。ですからね、それ(※理性以外の全て)を失った人がね、『狂人(Crazy Person)』だと言ってのけた。そうすると、今いるね、まぁ東大その他でいいのだけど、役人もそうかな、財務省その他、政党もそうかな、【ほとんど狂人だらけ】なんですよね(笑)
『理性の究極の形態は「狂気」かもしれない。そうでないという証明はいまだなされていない』これを言ったのは、【エドガー・アラン・ポー】(米国詩人・小説家 1809~1849年)です。(西部:アッハッハ。)
だから、本当に自分の中の「弱さ」「矛盾」動体的にじゃ存在し得ないと。自分とは確たるものではなく、一つの「動き」に過ぎないと。そういったことを踏まえて、成立するのは『本物の考え』ですね。そういうことに全部目をつぶるのは、『嘘の考え』なんです。
藤井聡
で、目をつぶるからこそ『キッチュ』になってしまって、『脆弱化』してしまう。『強靱化』というこの言葉の裏には、こういうことを、哲学的に理解するか否かは別として、そういうことを肌で感じながら生きていくということを取り戻そうというのが、『強靱化』ということであって、僕は恐らく感じるのは、場合によっては農家の方で、ずーっと田畑で耕してらっしゃる普通のお爺ちゃんお婆ちゃんたちがおられるとすると、彼らはそういうことを、哲学的には言論していないかもしれないけども、『肌で分かって、その信仰の中で、その不確実な中で、動体的な中でその信仰をしながら安定的に生きてらっしゃる』んじゃないかなぁという気がするんですね。
ですから、「大地」から隔離して、『近代化』してしまった人間が、今みたいなことを「肌で分からなくなってしまった」ことによる病気が『脆弱化』という病気だったのかなぁというふうに思います。
それと関連すると、これ実際にあった話なんですが、若者がどこか田舎へ農作業を手伝いに行って、ベテランの老人と一緒に作業をしていると。ちょっと見ると、若者の方が(見た目は)力強く元気いっぱいに見える。が、『若者の腰には、トンボが止まらない』と。
西部邁、藤井聡
あ〜あ、なるほど。
老人の方の腰には止まります。どっちの腰が『安定』しているか、ということ。
それは、どれだけその風土にちゃんと根を下ろしているかということと密接に関連しているわけですね。
ある哲学者が、彼らはまぁ畑なり田んぼなりにいるる間は、今(佐藤が)仰ったようにね、「腰にトンボが止まる」ほど、立派な人たちである。がしかし、彼らが田んぼから出てきて、まぁ〜これは後は僕の説明だけども、畦道にのぼってそこまではいいのだけど、あろうことか「政治集会」などに出て、そこでオピニオンを述べたり、投票したりね、(佐藤、藤井:笑い)もっと言うと、何も考えていないくせに、考えたフリをして、それこそキッチュで考えて、それで投票しはじめると、『彼らは要するに、考えることは、思想を打ち砕く意匠のようになる』といった。オルテガ(※【ホセ・オルテガ・イ・ガセト】)なんですけどね。
確かにね、僕は別に百姓のことをバカにしているんじゃないんですよ。そんな意味じゃなくってね、何か黙々と働いている人の見事さ美しさっての、感動を与えるものであるのね。ただ、彼らがデモクラシー(Democracy)、民主主義と一緒にさ、それこそ「一丁前のこと」を言い出した途端にね、途端と言ったら言い過ぎかな、それが寄り集まるとね、なんか【まともな思想を打ち砕く】のね。
「本当は分かっていないことを、分かっているフリをする」これが、【キッチュの原点】なんじゃないんですかね。だいたい、日本のインテリと言われる方はまぁ、かなり高い比率でこれに該当される方々がおられるのではないかと思うわけですね(笑)
藤井聡
その方々と、いま(西部先生が)例で仰った方々の論理構造が一緒になっている。
あと戦後日本は、知ってる専門用語の量の多いか少ないかという「量的な違いのみ」に帰結すると。
藤井聡
この辺(※自分のアゴのあたりを手で指して)で(首からの上と下とが)「違う存在」になってしもうとちゃいまっかね。頭と体が。
やっぱり『考える』ということは、『身体性』を帯びた上で考えないといけない。何故かというと、『身体性』を帯びると、必然的に身体は自然と繋がっているので、『全体の循環の中で考える』ということができれば、キッチュにならない、そして『強靱化』できるはずだということだと。
ふとねぇ、女性たちが悪いんじゃないかな、と思った時があるの。その意味は、(佐藤が小林を見て笑う)今ね、藤井先生がさ、『身体性』と言ったでしょう、人間の身体ね。(小林:はい。)でもね、恐らく人間の雄と雌を比べた時に、女性の方がある種、身体性というものについて、もっと素朴な生活の経験・体験というのかな、つまり密着している度合いがね、全て強いと思うのですよね。
ところが、いま仰ったように、学者も役人もそんなふう(※理性以外の全てを失い「狂人」化している)になっちゃっているわけでしょう。そしたらね、女性たちは本当はそれを許しちゃいけないですよ。
藤井聡
あ〜そうか。そうですね、これは大事ですね。
「こういう男たちとは結婚してやらない」とかね。(藤井:あ〜大事ですね。)ましてや「子供なんかつくってやらない」とかね。(藤井:大事ですね〜。)
小林麻子
(困惑顔で)そうですねぇ・・・。
藤井聡
僕はいっつもそれをチェックしていますんで。こんなんで叱られへんやろかってね、ずっとそんなチェックをしてますねぇ(笑)
(笑)
いや、僕もね、実はずっと75年間そういうことを気にしてきて、疲れ果てちゃった(笑)
女性の本来のある力強さとしての、先ほど面倒だから『身体性』と言ったけどね、『自然』と言ってもいいと思うのだけど、『自然に近い』という意味ね。そいうものを【自ら捨てはじめた】のですよね。
藤井聡
いま政府では「女性労働者を活用して経済成長しよう」という議論をされていますもんね。
【「私を活用するとは、そういう言葉使いは何だ!!」というふうに女たちは本当は怒らなきゃいけないのね。】
小林麻子
そうですね!
「私たちは石炭でも石油でもありません」ということを言う女性がどこかにいるんだろうけど少ない。
そこらへん効率的になっちゃっているんですね。
効率的。ということで、時間が来ちゃったけどもう一週やりますから、視聴者の皆さん。話は僕個人は疲れているんだけど、すごく面白かった。だから、第三週目も楽しませていただきます。
藤井聡、佐藤健志
(笑)
次回:強靭な物語の必要性