強靭な物語の必要性 藤井聡×佐藤健志 国家強靱化のツジツマ③(西部邁ゼミナール)

強靭な物語の必要性 藤井聡×佐藤健志 国家強靱化のツジツマ③(西部邁ゼミナール)

京都大学大学院教授 レジリエンス研究ユニット長 藤井聡

著書『強靱化の思想』ー「強い国日本」を目指して(育鵬社

『メガクエイク・巨大地震Xデー』(光文社)

▷評論家 佐藤健志

佐藤健志 中野剛志共著『国家のツジツマ』ー 新しい日本への筋立て(VNC新書)

『震災ゴジラ!戦後は破局へと回帰する』(VNC新書)

『僕たちは戦後史を知らない――日本の「敗戦」は4回繰り返された』(祥伝社

【ニコ動】
西部邁ゼミナール:国家強靭化のツジツマ【3】2014.04.06

アメリカの衰退、TPPに見てとれる新自由主義的なグローバリズム、日本を取り巻く国際的な状況が大きく変わる中で、国家をいかに強靭なものにすべきか。国民一人一人がどのようなイメージを持つべきか。

今回は【強靭な物語の必要性】について論じていただきます。

先週、佐藤さんがね【キッチュ】という言葉を。キッチュとは俗ウケのする、安っぽい、、けど、

普通、そういう意味で使われるんですね。本来の意味は『自分たちのあり方の中に不都合な要素や矛盾した要素、要するに「自分たちが正しい」というのを否定しかねない要因などというものは、“存在しない” というふうに振舞うこと』という意味です。

〔※kitch:自分の正しさを否定する要因が存在しないと振舞う〕

まぁそうだね。そうか、自分が何か『危機』でもいいのだけど、中にあるそういうものを「直視」する勇気がないとか、それについて深く考えることをしない、という非常に【怠惰な精神】と言い換えてもいいんでしょうね。

〔※自分の中にある矛盾を直視する勇気・深く考えず〕

そうですね。「自分が正しくないなどと考えたくない」というのが『キッチュ』です。そういうネガティブなものがあるという発想をしたくないし、そういう発想を自分に突きつけてくる奴は「悪い奴である」と、そう思うのがキッチュです。

藤井聡
で、それ自体がもっとも悪くて醜くてどうしようもないものであるというのが・・・

往々にしてそういう話になるというわけですね。

キッチュ』になるある種の「不可避的な傾き」が、人間にはあるもんだと。それを否定するわけではない。

僕ね、それもそう思うんです。それの例を言うとね、これは固有名詞出していいんでしょうね、あまりに有名な方だから。あの【竹中平蔵】さんの書物をたった1冊読んだ時にね、たった一行だけ「面白いセリフ」があって・・・

「私の政策論の全てはワクワク感」ね。

「ウキウキ感、ワクワクする そういう政策を出すことです」という。

〔※私の政策論はワクワク感 竹中平蔵氏〕

僕最初ね、大きな「?」(クエスチョンマーク)をつけて、「ワクワク感か・・・」と。でもね、ちょっと落ち着いて考えたら彼の言うことに、一理二理五理かな、あるんです。その意味はね、確かに僕今晩「誰かと酒を飲もう」と思ったとするでしょう?その時に誰を選ぶかとなると、なんとなく多少とも「ワクワクする」場をね。(※佐藤は西部の話にニヤニヤw)

このTV番組だって、このお二人(藤井と佐藤)お元気でしょう。二人呼べばちょっとは番組が「ワクワクする」んじゃないのかなぁというね(笑)

佐藤・藤井
(笑)

まぁ、それは一番人間の生きる活力の「一番平凡なケース」ですけどね。ただ、そのね、「ワクワク感」だってあっという間に滑っちゃってね、本当に俗受けのする何の疑いもないくだらない改革論とか、グローバリズム論とかにフーっと滑っていくのね。フィギュアスケートでもあるまいしさ。

〔※ワクワク感も俗受けに滑る改革、グローバリズム論〕

藤井聡
本来の「ワクワク感」、僕はそのワクワク感というのは非常に重要だ、というのはまぁ同意するとして、本来のワクワク感というのは、いまある「暫定的物語」そういうものが、「位相が変わりそうだ」とか、「次に何があるんだろう」とか、自分の何かを捨てて次に何かをつくろうとする、そのダイナミックな、強靱化と言ってもいいと思うのですけども、『ダイナミックなセンスメーキングな国づくりのところに「ワクワク感」がある』と思うんです。

ところが、全くキッチュで、全く同じ物語の中でただただ繰り返しているだけなのに、(※まるで相手に催眠術でもかけるように指をくるくる回すジェスチャーで)「ワクワク感、ワクワク感〜」と言っている、これ【ワクワク感キッチュ】になってしまうという。

それで何が起きるか・・・『バブル』です。

藤井聡
(爆笑)

(お手上げのジェスチャー)

本当にそうですよ。経済でワクワク感追求していったら『バブル』が肯定されりうに決まっています。(西部:まぁそうなんだよね。)その時に「これはいつかは崩壊するぞ!」という想像力が無い!ということが【キッチュ】なんですね。

そうだね。200年ほど前だと思うのだけど、フランス革命以来の【近代】ね。この2世紀間ね、まぁこれは英語だけども、【mass=大量】ね。これ、日本人は「大衆」と訳しているけども、多くの人々がね、それこそ政治だの文化だのの表面にワァーっと群れをなして出てくる。それにつれて、次第に人間たちが、こっからが過剰な文学的表現になっちゃうのだけども、『深いもの、重いもの、高いもの、そういうものに対するイマジネーションというものを次々に失ってゆく、抹殺してゆく』というね。

〔※深い重い高いイマジネーションを次々と失い抹殺してゆく〕

それでね、その人は【オルテガ】というスペイン人なんだけども・・・

『最後に、この大衆(マス)たち、大量現象に乗っかっていく人たちは、いずれ思想そのものを、哲学思想、考えることそのものを大量殺戮に入るであろう』と、予言したのは1930年でしたね。やっぱりね、確かにその通りになっているのね。

〔※「massは哲学思想を大量殺戮」オルテガが予言(1930年)〕

それを『mass-distraction』というわけですね。【大量破壊】というちゃんと言葉になっていますね。

そうだね(笑)だから、本当にね、この『列島強靱化』のことを考える時にね、もちろん震災とか何とかってね、でもね、震災の「災」、災害の「災」ってね、僕は中国語・漢字って面白くて、調べた記憶がふと蘇ってきたのだけども、もともと(災の字の)下(部分)に「火」があるでしょう?あれはやっぱり『戦争』のことだったらしいね。(藤井:はぁーなるほどね。)

〔※災害の「災」は戦争を意味する〕

でそこね、普通、『災害』というと「自然現象」のことを思うけども、古代中国人にとっては、まぁ、三国志は紀元前2・300年頃ですけどもね、やっぱり『人間というのは、戦って、大量殺戮をし合う恐ろしい存在、それが人間だ』という。で、それが始まると「火」がついて、燃えて、焼き殺されていくというね。でもね、《自然現象と人為現象というのは、ものすごい繋がっている》んですよね。

藤井聡
それで今、あっ、と思い出したのですけども、どいう事象でたくさんの人、何百万・何千万という人が死んでいったかというリストをトップ(1位)からだーっと作っていきますと、日本以外の国では上位にほとんど【戦争】がくる。(西部:あーやっぱりね。)そういう意味で日本以外の中国からのユーラシア以降、ユーラシアからヨーロッパ、やっぱり人が大量に死ぬというのは、戦争で死んできた。第二次世界大戦なんかも当然そうですけども。

で、同じリストを日本で作ると、上位に来るのは戦争がほとんどこなくて【自然災害】ばっかりがくるんですね。これが、災いに対する世界観が日本人と非日本人とでかなり大きな違いがあった。

で、ここで「日本人の大きな特徴」があって、それは良い所・悪い所あると思うのですが、特徴だけで申し上げるとですね、「戦争で殺される」という場合と、「自然で死んじゃう」という場合にはやっぱり恨みとか辛みとかが要するにあっさりしにくいところがあって(西部:あーそうか。)、ところが、自然で死んだらあっさりしやすい所があって、当然、恨み辛みはあるでしょうけども、あっさりしやすい。そこが、あっさりの期限だということもできるでしょうし。

さらに言うと、「戦争」というものが起こる前段のところは、有る程度制御出来て、制御出来る方法とは何かと言うと、【統治 governance】であったり、【外交】というものであったり、外交の本質は「人間対人間の駆け引き」であったり、「negotiation」であったり、やっぱりそういうものが発達していく素地が日本以外ではあって。ところが、日本においては、「自然災害」というものが普通にご飯を食べていて、ある日突然、「あ〜死んだ」みたいなところがあるでしょうから、そこの『人間の駆け引き』とか、それこそ『TPP交渉』のような、あぁいう交渉事というのが歴史の中で鍛えられているのはどっちかといえば、やはり『非日本』であって、日本はそういう傾向が低いという可能性はあるんじゃないかなぁと思いますね。

そういう国がたまたま戦争で負けてですね、占領されるなんて経験をすると、これまで(敗戦も占領も)経験が無いわけですから、日本人の危険というのは「地震・カミナリ・火事・親父」ですのでね(小林:笑)、戦争は何も入ってきておりませんので(藤井:そうですね。)それがだから『負けて』、まぁ恨み辛み抜きで、それがよく【復興の槌音高く】と昔からよく言うのですが(藤井:あ〜そうですね。)、そういう時に、実は外国に占領されているんだという現実にどう向かい合うか?これが本来、【戦後の大テーマ】だったはずなんです。

ところが、そこには「とにかく、見ないようにしよう」と。つまり、【戦後というのは根本がキッチュ】なんですね。

うん。そうだね。

あの、去年、こういう本を出しましたが(※『僕たちは戦後史を知らない――日本の「敗戦」は4回繰り返された』祥伝社)、これ『僕たちは戦後史を知らない』という題名ですけども、【「僕たちは戦後史がいかに“キッチュ”なものかを知らない」】というふうに、そういうふうに言っても構わないと思います(笑)

藤井聡
(笑)だからこそ、(自著『メガクエイク・巨大地震Xデー』光文社、を手にしながら)、「恐れずにこの国がいかにして潰れるのかを想像せよ!」と、いうのが『強靱化』として出させていただいているということですよ。

そうやって日本がダメになる、あるいは既にダメになっているんじゃないか、ということに関するイマジネーションを強化することが『強靱化の第一歩』なんですが(藤井:そうですね。)、これは藤井先生にお伺いしたいのですが(藤井:はいはい。)、どうも今のところですね、その「強靱化が達成された日本」、あるいは最近の政権が掲げている言葉で言えば、「日本を取り戻した後の日本」とはいかなるものであるか?これに関する『イメージ』ないしは『物語』が、今なおいささか「貧困」ではないか、というのが正直な印象なんです。

〔※日本が駄目になるのでは 想像力の強化が第一歩だが〕

藤井聡
「平和な家族」「幸せな家族」という【ビジョン】が無い方に、やはり「平和な家族を作り上げる努力」っていうのは難しくなってくる所があるということを前提とすると、いま(佐藤の)ご指摘にあったことが真実であるとすると、『日本の強靱化』における第一歩はまさにそれを築き上げることだということができるんじゃないかなぁと思います。

「どういうゴールに向けていくの?」という、そのいま見ていますと、だいたい「三つぐらいのイメージが分裂」しておりまして。

⑴まず第一、いちばん世に受け入れられやすいものは、「高度成長期の再現」です。

これは、戦後の日本のあり方がいちばんうまくいっていた、最低限、そういうふうに見えた時期をもう一回復活させましょう、という。あのオリンピック(※2020年東京五輪開催)なんかがこれに繋がってくると思います。

オリンピックって今度の?

そうです。2020年の東京五輪なんかもそういうイメージがあると思います。

⑵二番目が、いわゆるグローバリズムにもとづいて自由化・規制緩和とかを徹底された社会。

これは要するに、「高度成長期を再現」という最初のイメージに『国際化』というこれまた非常に日本で受けのよいイメージを足したものである。(西部:そうだねぇ〜。)そのように理解しております。

⑶最後は、戦前。

これは要するに抽象的な「戦前」なんですが、「戦前が復古的に肯定された社会」と。これは、内実がどういうものであるかというのは人によってぜんぜん違うわけですが、なんにせよ「戦後なるものを全否定して、戦前なるものをもう一度ノスタルジア的に肯定した社会」、それが日本を取り戻す!の日本であると。

例えば、靖国神社に行けば、戦前が取り戻せる。

日本が取り戻されるという。

まぁ、そんな調子な話ね。

それは少々、極端な議論で、やはり『キッチュ』の気味が強いんじゃないかと思いますが。

そらそうだねぇ。ただね、こういうこと。反発するわけじゃないんだけども、その通りだけどもこんな弁護も出来ますよ。

戦後68年ね、民主キッチュ憲法キッチュ、その他ね、最後は脱原発キッチュ、『馬鹿げたキッチュだらけ』になってもう嫌だと。かくなる上はと言ってともかくもね、そら「靖国参拝」すること自体が、何の議論もないままね、、僕いまね、ある病院通っているのだけども、廊下にね、病院の労働組合だと思うのですけども、こんなビラに文句があった。

「すぐ戦争をしたがる憲法改悪反対!」とかね(呆)

藤井・佐藤
あっはっはっはー(呆笑)

言いたいのは「すぐ戦争をしたがる」というのね、そんなことがね、ものすごいキッチュなことでしょう?そら僕ね、ものすごい『戦争好き』って言いますよ。本当はぼく(戦争が)好きなんですけども、それはともかくもね(笑)、「戦争好きのすぐ戦争をしたがる奴」もいるだろうけどね、憲法改正と言ってるやつは別に戦争すぐしたいわけじゃないのに、「すぐ戦争をしたがる、新憲法反対論者」みたいなそういうキッチュなことが、こんなふうに流行ればね、どっかね、「もういいじゃないか。靖国行くぞー!」とかね、これねアメリカで言えばですよ、「占領」ね。「脱戦後」ということを言えば、『戦後はアメリカがつくったもの』ですから、論理視点的に【脱アメリカ】になるわけですよ。もちろん『脱アメリカ』すると相当に日本は厄介なところがあるんですけども、「もういいじゃないか。脱アメリカって言っちゃおう!」とかね。本当にこれだけ68年キッチュだらけだったら、【反対キッチュ」としてさ、そういうものは「靖国」が出ようが、「脱アメリカ」が出ようが、「核武装なんかやってしまえ」というキッチュが出てこようが、『とりあえず、いいとしよう』とする意見が出てくるのは(佐藤に向かって)ダメ?(笑)

(笑)それはなりやすくなりますね。それこそ靖国参拝自体に反対しているのではなくて何であれ、少なくとも、もともとは良い方向性を持ったものであれ、『キッチュ的に追求』してしまうと、それは大概の場合、【弊害】の方が多いという結果を招くのではないかと。

何をやるにせよ、『やり方』が肝心であると。『やり方』抜きに「これは自明に正しい議論である」とか(西部:そうか。)「これは自明に正しい政策である」というふうに決めつけるのは、もう既にキッチュに入り始めている。(藤井:そうですねぇ。)

よろしくないのは、反対派がキッチュに陥っていると、「向こうがキッチュである」という一点をもって、「こちらもキッチュでいいんだ」あるいは「キッチュにならなければ対抗出来ないじゃないか」という論理がどうしても強まってしまうと。

政治運動というのは、だいたいこう、ややもするとこうやって、【キッチュキッチュのぶつかり合い】という状況を呈します。

藤井聡
人間であることを選ぶのか、キッチュになるかの選択に、常に我々はさらされ続けているんです。

この三週間、要するにこれから未来に向けての危機を乗り越えるための広い意味での【「国家防衛・国防のための物語が必要」】だと(二人は)仰っているわけさ。

問題はね、『物語』とは何ぞや?と考えると、これね、「古代ギリシャ」からの昔からね、『正しい物語』が案外ね、それ言葉で言ってしまうと、これは【プラトン】も【アリストテレス】もそうだけど、例えば・・・

『正義が大事だ』
『勇気も大事だ』
『思慮も大事だ』
『節制も大事だ』

これね、【ギリシャの四徳】(※「四徳」とか「四元徳」「四枢要徳」とも言われる/知恵、勇気、節制、正義)、四つの virtues(徳)、四徳と言われているんですけどね、『物語』というのを考えてみたらさ、これは【中江兆民】が言ってるのね。延々と西洋哲学を紹介した中江兆民が、、

『正しい義、「正義」というのは言ってみれば簡単なことです』と。

ところが、問題はこれまでお二人が強調されている【実践】というの?今の状況の中でのどう生きるかという『実践』として言うと、『具体的に「正義」は何なのか?』、「靖国に行けば正義なのか、そんなキッチュは無いだろう」というのが、佐藤君(佐藤健志)の言うのが正しいしね。

『勇気』もそうですよね。なんかね、「核武装すれば勇気だ!」、これ僕は核武装賛成なんだけどね。(佐藤:笑)それはともかく、核武装すれば国家の勇気、そんな単純なね、ニュークリア・キッチュはやめましょうとか、いろんなことが言えるでしょう。

そうするとね、【状況の中での実践的な物語】というのは結局のところ、実践的に多くの人々を如何に説得できるかというね、納得させ得るかということであって(藤井:そうですね。)、如何にこの三人でも三百人でもいいのだけども、物語を、これを一般的には言えませんよね。「勇気とは何ぞや?」、勇気が大事だということが分かっていてもさ、勇気とは赤信号のところを突っ走ることをいうとか(一同笑)、言えないだろうしね。

尖閣を中国の蹂躙から守るために、早速軍艦を出せ」というふうに言うこととは限らないし。『具体的』にはあれですよね、やっぱりこの日々生き死んでいく中で、自分がどう・・・

物事ってのはそもそもが『矛盾』する。四つの徳 virtues であっても、実は『矛盾する要素』があるわけです。(西部:そうだね。)その「矛盾する徳」の中で、どういうバランスをとっていくか、ということに関する一つの分析である。それは【人間の行動】として示されると。つまり、『物語』というのはかならずスジがあって、スジが転換していくわけです。一つのシーンだけで、物語が成立するわけではないと。

ですから、藤井先生が仰ったように、やっぱり人間というのは様々な人との『関わり合い』の中で、絶えず変化を続けて行動するものとしてある。その中で、どういう合い矛盾する「徳のバランス」をどうとっていくかと、それのモデルケースであると。そういうふうに捉えますね。

藤井聡
その(矛盾し合う徳と徳の)バランスを取ろうとするときに、「二つのやり方」があると思うのですよ。

⑴一つは、薄ら笑いを浮かべながら、バランスを取ろうとする人。

[※【参考】絶望の中の笑いはつらいが、まだ救いがある。救いがないのは、自分が絶望的状況にいるのに、そのことを認識できずに、意味もなく薄ら笑いを浮かべている連中である。絶望を絶望と認識できないその状況それこそが、絶望的状況である:セーレン・キルケゴール

⑵もう一つは、真剣にバランスを取ろうとする。

これはもう定義上自明であって、バランスが取れるのは真剣にやろうとしてる人であって、薄ら笑いの人はそもそもバランスを取ろうとすら思っていないわけです。(西部:そうだね。)

で、「バランスが取れない」とどうなるか?というと、何度も出てきている『キッチュ』になって、それこそこの(※四徳の)『正義』、正義というものも幾許か「超ひも理論」(超弦理論、superstring theory)のように拡がりがあるし、『勇気』も拡がりがあるものなんだけど、【「一つの物語で定義付けをしてしまって、それで陳腐なもの、凡庸なものをどんどんつくりあげる、それが日本の脆弱さをもたらしている】と思う。

人間がキッチュであることを避けるために、今のお話で前提に必要なのは何かといえば、ひとことで言うと【真剣さ】じゃないかなぁと。(西部:まぁそうだね。)この【真剣さ】というものさえあれば、人間はいろんなバランスも取れるようになるし、動学的なものも見えるし、キッチュでいられなくなると思うんです。

で、『真剣さ』を誘発するために(西部)先生が仰ったように、いろんな人を説得したり、いろんな社会的に真剣さを取り戻そうとするときに文学、映画、いろんなものがあるかもしれませんが、先ずは出発点のexercise.1として、『巨大地震』というのは重要な、New Horizon Lesson 1 みたいなものですけども(笑)

(爆笑)

藤井聡
そういうものとして、この巨大地震というものがあるんじゃないかなぁというのが、僕の「巨大地震Xデー(藤井著書)」書いたりとかしているイメージなんです。

中野さんとの本(※佐藤健志 中野剛志共著『国家のツジツマ』ー 新しい日本への筋立て VNC新書)の結論も非常に「近い」んですが(藤井:ほーほー。)それと『物語』とが融合していまして、昔、「心に太陽を持て」(※参考↓)という詩がありましたが、次に「唇に歌を持て」と出てくるんですけどね、あの〜我々は、『心にゴジラを持て』と言っています(藤井:笑)

(※【参考】「心に太陽を持て」ドイツの詩人・ツェーザル・フライシュレン(CasarFlaischlen 1864年5月12日~1920年10月16日)によるもので、日本では山本有三訳として知られている。)

つまり、(※藤井著書の)『巨大地震』とほとんど同じなんです。(藤井:あ〜あ。)この国というのが、実際にどういうふうに崩壊していくかと、しかも「崩壊をどこかで見たい!」という心も我々の中にあると。

藤井聡
あっははは、だから映画になっているわけですからね(笑)

そうです。

自分の中のそういった「破壊願望」と、我々が自分たちで作った社会の脆弱さを「共に自覚する」と。これがあってはじめて『じゃあ、それをどういうふうに抑えこんでいくのか』という話になると。

藤井聡
そうなってはじめて、崖の上で縮こまっている『危機』の状況から、そこで悠々と歩き出して、そして危機全体を飲み込んで、そして(崖の下に)「落ちたって構わない」という状況の中で、崖の上を歩いてゆくことが出来ると。

「崖の上の危機」なんて言うと、なんだかアニメみたいですけどね、これね(笑)

藤井・西部
(笑)

いや、もちろんお二人に反対するわけじゃない。これね、ギリシャ人がもうわかっていたのね。『正義』ね。ところが、正義ってのは「正義だけ」を追求するとね、今で言えば「朝日新聞」とか「NHK」なんかがそうなんだけど、ものすごく『押し付けがましい』『横暴な物言い』ね。「これは戦争にしたがってる〜〜だ!」といったようなウソ話ね。横暴。

『勇気』だってね、勇気が大事だということは認めるけども、勇気、勇気といってると、単なる『野蛮』『蛮勇』ね。結構、これ右翼チックな人に案外多いのよね、時々ね。それは、単なる蛮勇だろう、ってね。

それから『思慮』、考え深いことは大事だけどもね、これ学者に多いのだけども、考えてばっかりいるとたいがい『卑劣な人間』が出来上がるのね。

藤井・佐藤
あっはははは(大笑い)

(考えてばかりで)行動しないというね。(佐藤:よくいます。笑)

最後に『節制』、自分の欲望を抑えること。節制は大事だと言うけどね、節制ばかりしていると、非常に『臆病』人間になるんだよね。「これ言ったらまずいんじゃないかなぁ?」そうすると、結局のところ、お二人(藤井・佐藤)が言ってたバランスでしょ?この場合で言えば【四つの徳(四徳)】正義・勇気・思慮・節制をこの状況の中でどうバランスを取るかと。

そうなると、結局、結論はこうですか?やっぱりね、僕、あなた(※藤井聡内閣官房参与)の防災論、あなたというか政府だね。防災論・減災論に反対なんかしない。けどしかしね、藤井さんの本なんかで言ってることを全体として言うと、防災を考えるためにも、ある意味じゃ【全てのこと】を考えなければいけないということね。

藤井聡
(深々と頷いて)まったくその通りです。

文化の問題、アメリカの問題、民主主義の問題、今のくだらない情報社会の問題、おおよそ考えた上で、それが全ての問題にどう関わってくるか。

藤井聡
【全体性の回復】ということが言えるでしょうね。

全体性ですよね。

強靭とは【生きること】です。生きることは全てを含むんです!!

藤井聡
そういうことですね。

『全て』と言うとさ、麻子ちゃん。

小林麻子
は、はい(汗)

さも難しいもののように思うでしょう。「女性問題」になぞらえて失礼だけども、僕はもう歳だから許してください。(小林:いえいえ。)

ある女性にアプローチするためにはね、ある意味じゃ「全てのこと」をね、感じ取らないとですよ(藤井:そうですね。)女性の前で経済学の講義をすれば嫌われるに決まっているのね。

小林・藤井・佐藤
大爆笑!!

それで、ある全てのことね。相手の目線一つが何を意味するかを感じ取る、文学的・芸術的なイマジネーションも含めてね、全てのことを感じなければ、結婚までありつけない。今は簡単にありつくらしいけど(笑)昔はそんなもんだった。

藤井聡
そういう意味では、一人の女性に命懸けになることと、国土を強靱するというのは全く同じ構造・・・

そういうことを言いたい!

小林・藤井
(笑)

生きることは変わらないと。

何かこうイメージしながらね、語るというのが、まぁ【物語】ということなんでしょうね。

それで、物語は「story」で、歴史は「history」で同じなんだけど、『歴史』ってものがあるとしたらね、なんかね、「何年に何が起こった」とかさ、「織田信長が何年に何をした」とか、小さい声で言うけど【ど〜でもいいこと】ね、おおよそね。

問題は『歴史』というものは、そういうふうにして、ある全体を見渡しながら『この状況のなかで生きて死んでいった人々の中で「ある賢明なもの」があって、それが何か歴史のなかの時間を通じて残っているんじゃないか』と。そうすると、『物語の物語方・方法』が学ぶことが出来るという、そういうことなんだろうね。

藤井聡
そのなかで、『物語』にした瞬間に、物語の定義上、必ず「隠蔽したもの」があります。そこに【キッチュ】が忍び込む可能性が常にある。(西部:それはあるねぇ。)「生きている限り、私はキッチュから逃れ得ないのだ」ということを、どこかで知りながら、でもそれを飲み込みながら生きていく。キッチュであることから逃れようとするけども、逃れ得ない中でなんとか七転八倒しながら、笑いながら生きていく。

75歳ですからね。いよいよ、我がキッチュな人生も終わって(一同:笑)、これ以上、キッチュなことをやらずに済むんじゃないかなと思うけど。

いずれにしても、ほんとその通りでね、人間は大なる可能性で『キッチュに自ら飛び込んでいく』、でも、せめてそのことを【自覚】している、自意識にのぼらせていくとね、薄ら笑いを浮かべながらなんのための75年だったかわけがわかりませんという「あわれな人生」から逃れることができるというのがあれかな?防災・減災論の根源であると(笑)

藤井聡・佐藤健志
(深く頷いて)全く仰る通りでございます。

【次週】ゲスト 評論家 国際政治・米国金融アナリスト伊藤貫
『アジアは大火事で燃えている』