『戦争抑止を集団自衛に頼る属国根性』MX・表現者塾 西部邁・富岡幸一郎

◼︎『戦争抑止を集団自衛に頼る属国根性』MX・表現者西部邁富岡幸一郎

西部邁:評論家 雑誌「表現者」顧問、近著『経済倫理学序説』(中公文庫)

富岡幸一郎:雑誌「表現者」編集長、鎌倉文学館館長

【ニコ動】
西部邁ゼミナール)戦争抑止を集団自衛に頼る属国根性【2】2014.08.03


この『表現者』としては、物事の本質、根源ですね。ここからですね、やはり議論していかない限り、枝葉末節(※しようまっせつ:重要ではないところ。本質から逸脱した些末な部分)と言ってはなんですが、常に何かに流されて行く議論になってしまう。

そのあたりも含めて、塾でも皆さんといろいろまた、議論を交わして参りたいと思います。

(聴講者挙手して、富岡が指す)
はい、じゃあそちら。

▷聴講者(質問)
インターネットの上で、言葉といってもこれは打ち込んだ言葉ですが、(その)やりとりが非常に活発になっていて、現実生活の中で、自分の言葉でケンカをしたりだとか、あるいは、それは違うんじゃないかとかですね、そういったようなことを言う場が少なくなってですね、「言葉を使う場」というものが失われているというか、あるいは、怖気付いて使わなくなっているというような状況があると思うのですけども。

「情報」というのはね、前に言いましたっけね。これ考えたことあります?

どうして『情報』って言葉ね、「情け」の「報せ(しらせ)」と書くのかなと。あれね、「情け」と関係ないんですね。これ中国人面白いんですよ。情報の「情」というのは、立つのが面倒だから言葉で言いますけども、情態(=状態)の「情」ね、それと同じ意味になるの。

日露戦争の頃らしいんですが、(情報という言葉は)戦争用語・軍事用語だったみたいですね。敵の情態(状態)、それで敵情報告、だから斥候(せっこう)ですね。地面を這って(敵情を)知らせるのね。

つまり、そこで何を言いたいのかというとですね、戦争用語・軍事用語でしょ?ってことは、「情態」が特定されている。『かなり具体的に特定化された情況(状況)の中で、情報というものが意味を持つ』んですね。

ところで、現代社会が、(この話は)質問に答えていないかもしれないけども、『大矛盾が起こる』のは、一方で、日々、イノベーション イノベーションって言ってるわけでしょう。馬鹿ったれの経団連を始めとして。『イノベーション』ということは、形を新しくすることでしょう。

一方で、イノベーション イノベーションと言って、こっちでは情報 情報と言う『大矛盾』があるんですね。

それで、実は、【証券バブルの崩壊】なんかはみんなそうなんですよ。つまり、だから、『証券の詐欺まで含めてイノベーションは行われる』わけさ。ところが、んなもんね、将来はどんどん新しいことが起こるだろうから、証券の将来の利益なんか、収益なんか『計算出来ない!』んですよ。ところが、『計算出来るものとする』わけさ。

ただ、今年収益があがったら、面倒だから、「今後ともあがるものとしよう」とすると、その株は異様に高くなって、ところが、来年はまた別の状態ですから、イノベーションでね。

人間の馬鹿らしさってことはね、一方でインフォーメーション、テクノロジー、IT革命だ、などと言いながら、他方で、ITにデータを放り込んでも仕方が無いようなイノベーションの時代を作っておいて、《絶対矛盾の中に放り込まれている》のに、そのことが分からない“奴ら”が、それで、もっと言うと、(先ほどの)あなたの質問に答えるんだけどね、『自分の生ける場所』ね。つまり、友達とか、女とか、家族とか、あるいは、学校のなんでもいいですよ、そういうところで、ケンカやっても、殴り合ってもいいんだけども、そういうね、『生ける社交』というものを、なかなか難しいんですけどもね、なかなか難しいですよ『社交』というものはね。

そういうものが与えられない人たちが、ITにすがりついて、Twitterなんてやってるんじゃないんですか?僕ならね、「そんなところでつぶやくなよ?酒場の前にいる、綺麗どころの女のコの前でつぶやけよ!」と。10回も(女のコに)つぶやいていれば、1回ぐらいはよしよしと言ってもらえることもあるかもよ、ぐらいに言って、話を済ませたいですね。

そんなところで、tweetしてる奴の面倒までワシは見切れん。恐るべきは、人類というのは、結局・・・あっ、違った、『人類の多数派』だね、マジョリティは、結局のところ、メソポタミアの昔から、そういう『形式化しやすい』、『数量化しやすい』、簡単にもっというと『分かりやすい』、必然的に『薄っぺらな』、そういうものに流れ込むのがね、どうも、メソポタミアの昔から人類の多数派みたいですね。

(席から立ち上がって)そこで、僕の結論はこうなのね。

【モダン(modern)】なんて言葉は、我々は「近代的」なんて訳してるけども、これは《間違い》でね、modernという言葉には「近い時代」なんて意味は何も無いんですよ。

modernの関連語は、昔気づいたんですけども、これは『model』なんですね。『模型(model)』でしょう?

これも同じ関連語、『mode(流行)』ね。

つまり、modern(モダン)というのは何か?簡単にいうと『分かりやすい模型』、この場合、技術の模型とは限らない、理屈でもいいんですよ、『模型的な理屈』ね。それが「mode=流行」となる。

厳密にいうと、ここにこの問題が入ってくるのね。『マス(mass)』、これは「大量」という意味ですけども、massmanという言葉があって、「大量人」、これを『大衆』と呼んでいたのだけど、それはともかく、massmanは、大量人と言われる、大衆人と言われている人たちは、呼んで字のごとく、『大量の流行』、それは『単純な・分かりやすい模型』から来るのだけども、『分かりやすい模型の大量流行に滑っていく・のめり込んでいく人々』は、この世の中の、僕に言わせればメソポタミアの昔から、マジョリティは特別な例外を除き、いざ戦争とかね、いざ決戦とかなった時には地の底から民衆が立ち上がる時もあるんですがね、そうではない、特に戦争の無い時代、ボケっとした時代には、《マスたちが支配する時代》となる。

それで、スペインのかのオルテガ君が曰く、【大衆の反逆】。そもそもね、僕の口から聞いた人もいるでしょうけども、彼の『The Revolt of the Masses(Jose Ortega y Gasset)』ね。

「そもそも、この世の中の統治者となるような能力も気力も無い、[もっと言うと、模型化された流行に飛び込んでいくしか脳の無い]人間たちが、さも自分に能力も力もあるかのように気取って、俺たちに権力をよこせという。

この世の権力が、ひとたび、大衆[大量人]の手に渡ったら、その社会を救出することは、不可能である」と。

ですから、あなたの質問はこうなってもいいと思うんですけどね、もうすでに遠に渡っているんですよ、戦争の終わったあたりから。特に、60年代の高度成長あたりから。

民主主義なるものは、栄えれば栄えるに連れ、この世の中の大量人たちは、しかも大量人たちを動かし・動かされているのは【マスメディア】です。マスメディアを中心とする、MXという「特別なテレビ」は例外としてですな・・・

(・・・苦笑)

『マスメディアがこの世でものを言うようなことになると、そんな時代を救出・救済することは不可能なんですね。』

これね、青年に向かっていうのは鬱陶しいですよ。『この世はもうダメですよ』と言っているんですからね。でもね、『唯一の希望がある』とオルテガは言うんですよ。

「この世に希望があるとしたら、この世に絶望する人間が増えることだけである!」というね(笑)

フッフッフ(笑)

本当にそうなんですよ。日本人の底力なんて嘘ですよ! 『(戦後の)70年もこんなことをやったり・やらされたりして、底力いくらあったとしても、溶けて流れてNO!!』に決まってますよ。

だから、僕が言いたいのは、底力なんてものは無いねと。もうダメだねと。何の明かり展望もありませんな、ということを明るく認める人が若干増えるとね、この可能性があるんですよ。

多数派がギリギリの『危機の時代』においては、否応もなく黙りはじめる。もっというと、茫然自失、周章狼狽、『お願いだから、早く茫然自失してくれ』と。その時までね、マイノリティ 少数派が幾ら負けようと、否決されようが、『うるせぇや!そんなことはこっちは宣告承知の上でやってきているんだ』と。その頃は僕は墓に入っていますからね、知らない。富岡君(富岡幸一郎)にしますけどもねぇ〜

(困惑顔で苦笑)

まだ生き延びている人がね、教えてくれと、(富岡を指して)そこに来るんですよ。「教えてくれというから教えてやるがな」といって教えてやればいいんですよ。

これね、下手にやるとある種の「エリート主義」「選良主義」になる。僕は何も傲慢なことを言っているんじゃないんですよ。

どう考えても「こうだぜ」と言っている人が、ほんの少数でもしっかりと生き延びてくれれば、その人たちがものを言う局面が来るなんて保証しませんよ。(会場一同笑) 来るかもしれないから、それを楽しみにですね、まぁ、皆さんエンターテイメントで娯楽か抱き合うか知らないけども、楽しんでお生きくださいと。そういうことなの。

では、もう一人、君。僕が当てて悪いけども。

▷聴講者(質問)
本日はありがとうございます。ご質問させていただきたいのは、戦争を境に日本の教育というのは、おそらく180度変わったんじゃないかなというふうに思っております。

日本人の国民性なのか、それとも、日本の教育のシステムが素晴らしく行き届いていたからなのか、どのように先生は思われますか?

僕ね、こういうことを書いたことがあるんですよ。なんぼも売れなかった本で、立派な本なんだけどね、・・・『教育、不可能である』と(笑)

[参考『教育 ~不可能なれども~』西部邁 ダイヤモンド社 2007年

これね、昔からあるんですよ。この場で言ったかなぁ?少し厳密に考えて下さいね。

教育ってのはね、【体育】、サッカーとか野球のことを別にして言えばね、教育ってのは、【知育】と、それから、先ほど富岡さんが言った道徳などの【徳育】ね。

徳育】ってのは広くてね、この場合は、やる気というか、人間の『気力』を養うことだと。ただこの場合の【気力】ってのは、単にサッカーの球を蹴ればいいというんじゃなくて、人間は『言葉』の動物で、言葉というのは必ず『価値観』を伴うから、『価値観を学ぶと必ず人間の気力というのは湧くものだ』と、こういうふうに考えてください。

さてそこでね、小学校だろうが、大学だろうが、“教師に出来るのはこっち(※『知育』)だけ”なんですよ。知育ね。『徳育』されたらたまったもんじゃないですよ。しかも、学校でしょう?学校というのは、二人か三人なら別なんだけども、いまは少なくて20人から30人ですか?僕らの頃は、5、60人いましたけどね、教室にね。

人それぞれ違った親、違った環境、違った遺伝子、いろんなもので生きているでしょう?学校の先生ごときがですね、それに対して『気力』ね、『徳育』出来るわけがないんですよ。出来るのは『知育』だけ。僕の経験によるとね、知育そのものは、実は『独学がいちばんいい』んですね。学校の教師は邪魔でね。(会場笑)だって、邪魔に決まってますよ、20人だろうが、30人だろうが、たくさんに(一人の教師が)教えるんでしょう?基本的に平均的なことでしょう?あるいは、平均値以下のことです。あるいは、試験用にやるわけでしょう?モデルのモードをね。そんな邪魔くさいことをね、知識教育ではもう本当に無駄なんですよ。

『独学』ってのは、これはね、知識教育だけと限定すれば、学校の先生も要らない、学校も要らない。だけども、『気力が失せてくる』んですよ、独りでやってると。

先ほどの、Twitter、インターネットの世界とも関係あるんでしょうけどもね、独りでいるとね、人間はやっぱり、『社交的動物』なんですね。どうしても、他人とケンカだろうがなんだろうがね、他人との関わりの中で、「よし、俺もやったるか」とかね、「俺はこういうことをやろう、あれはやらないでおこう」というようなことが出来てくる。

子供ですから、仲間ったって、あれでしょう、学校しか行けないんですよ。そうでしょう?そのために、学校に時々行くんですよね。

でも、学校の先生で言えばね、別に、知識教育(知育)をやっているけども、たぶん、こうなんですね。学校の先生の出来る最大の知識教育は、俺は教えているフリをしているけども、こんなものは、適当に「平均値」を教えるだけであって、しかももっとすごいですよ。学校の教科書に書いてあることは、特に「人間社会の問題」の場合は、『50年後には間違え』なんですからね。経済学で、「マルクス経済学は、ほとんど実は間違っていました」とかね。「平和憲法論、民主主義論、あれもほとんど逆さまでした」ってことは、数十年後に明らかになるでしょう?

そんなことも含めて言うと、知識教育も役に立たない。学校の先生は、これ(※徳育[気力])さえできればね、本当は子供たちは、勝手にこれ(※知育[独学で])ができるだけど。ところが、『学校の先生は、徳育をできない』んですよ。一人一人に向かって。そうでしょう?

そうするとね、学校の教育ってのは、知識教育をやるの。ただ、そのやり方」のイチにね、こんなこと自体はやってしょうがないし、とりあえずやってるだけだけども、本当にやりたいのは、お前ら20人でも、50人でもいいんですよ。一人一人の『生きる気力』、いざとなれば、『状況に対応できる活力』、そういうものを養いたいのだが、俺というティーチャーでも、プロフェッサーでもいいが、『そんな者にそこまでできるわけがない!』、このね、【教育はImpossibleである】というね、不可能性をね、なんとなく、表現の仕方の中に表す、ちょっと話が通じているかどうか分からないけども、僕自身はそうなんですよ。小中高思い出すとね、ほとんどエスケープしていましたが、それでも覚えている先生は、どことなしに、「こんなことをやってもしょうがねぇんだがな」ってなことをなんとなく漂わせている先生ね。「悲しいかな。でも俺は世界史しか教えることができない。でも月給貰ってるしな。」でも、本当はもっと教えたいことがあるんだけども、それを手取り足取りね、「革命運動に参加せよ!」とか、「爆弾投げてこい!!」とまでは言えないしな、というね。そういうことを漂わせている教師のことは記憶に残っている。

だから、僕が言いたいのはね、『いかにもこれが教育ですよ!』ってね、本の読み方とかさ、学習の仕方とか、そんなことを言ってる教師はね、本当に【ロクデナシの人類を育て上げるしかない】んですね。

▷聴講者(質問)
「集団自衛」に関してなんですけども、メディアで、集団自衛が取り上げられると、必ずといっていいほど、『立憲主義に反するのではないか?』という論調がありましたけども、国民が憲法によって国家の権力を縛るという意味のようなんですけども、実際しかし、国家の権力を縛っているのはGHQであると歴史的な経緯から見て思うのですけども、となると、国民によって権力を縛っているというふうになかなか思えなくてですね、日本における立憲主義というのをどう捉えたらよいのかなと西部先生にお聞きしたいです。

あぁ〜それはね、ほんとそうなんだけど、今ね、【多くの人が嘘をこいていて】ね、『憲法とは何ぞや?』と。「政府の横暴をチェックするためにある」ってね、でもね、【それが嘘】なんですね。

『その嘘』をまかり通らせたのは、大学の知識人たちなんだけども、こう考えるべきなんですよ。

いわゆるデモクラシー、デモクラシーが是か否か?僕は小さい声で言うけども、【「(デモクラシー)クソ喰らえ!!」】と思ってますが、そんなことは別にしてね。

デモクラシーが未熟で、それ故、特権を持った特定のグループとか階級とか階層とかが、自分たちの代表者で政府を構成して、ヘタすると横暴極める、勝手気ままをやる「恐れ」があるから、それを予めチェックするために『憲法を立てる』というふうに(した。)

ところがね、それは「19世紀段階の話」でね、20世紀も後半となりましたらね、デモクラシーは未熟どころか、成熟どころか、【腐乱】状態、もう【腐り果てる】までに成熟しちゃっているわけ。

デモクラシーが成熟、爛熟した時には、全く今の説は通らなくなるのね。「権力をチェックするのは憲法だ!」と、東大法学部の馬鹿話が。

それは、もう一つの問題は、『憲法はどうやってできるのか?』を考えてください。これについて二つある。

特定の人間なりグループなりが、自分たちの理想とか目標で、それを『設計書』を書くのかね。「この家はこうあるべき」とか書くのか。それは、ハイエク曰く、【設計主義 constructivism】と言って、一つは旧ソ連のように「集団主義的」にね、collectivism(集団主義)でもって、国を設計する。

他方の極は、アメリカ的な【individualism(個人主義)】、個人を重んじる形での設計書を書くと。

「冷戦構造」なんて言ってるけども、あれは(アメリカも旧ソ連も)同じ穴の狢で、つまりね、『この世を人工的・人為的に設計できると考える奴らのやり方における違い』が、個人主義派がアメリカで、集団主義派がソ連派で、かつての中国もそうだったんだけども、そういうのも引っくるめて、言って見れば『内ゲバ』だったんですね。

アメリカには歴史感覚が乏しい。そして、ソ連の場合は、イデオロギーとして歴史を破壊して新天国を、「労働者・農民の新天国をつくる」という文字通りの歴史破壊主義者と、アメリカのような歴史不在ね。

ところがね、日本でもイギリスでもそうなんだけども、注目していただきたいのは、イギリスは分かりやすい。イギリスにはね、成文憲法というのは存在しないんです。Written constitution(成文憲法)はね。なかなか立派な国民で。そのうちに、イギリスも馬鹿が増えているから、成文憲法つくるのかもしれませんけどもね。一応、こう考えてあるんですね。

憲法とは、国民のつくる政府の根本規範ではないか』と。

この【根本規範】どっから来るのか?自分たちの紆余曲折を持った長い歴史の中から自ずと「これはやるべきである・これはやるべきでない」という根本規範が、『国民のコモンセンス[共通のセンス]』として出来上がっているはずだと。そんなことをいちいち文章にしたためなくたって、我々イギリス人が、立派に歴史感覚を持って、家庭をつくり、企業ビジネスをやり、理解をやってれば、『自ずと自分たちの歴史感覚でもって議論が起こるはずだ』と。

自分たちの議論の仕方の中に、自分たちの歴史感覚、規範意識というものを自ずと込めながら議論してれば、互いを説得しようとしてれば、議論の仕方の上手な方が、説得力のあるほうに少しずつ傾いていくだろうと。それで十分であって、わざわざ憲法を書いて、自分のオツムを「あぁ〜憲法にはこのように書いてあるからと、これに(自分のオツムを)合わせよう」なんてのは、ハッキリ言うけど、【馬鹿野郎たち】なんですよ。

憲法なんかハッキリ言うけど、どうでもいいのもともとは!!】


Written constitution(成文憲法
Unwritten constitution(不文憲法

自分たちは、こういう(表現者)塾でも、学校でもいいんだけども、思っていることを堂々と言って、間違ったら「あぁそうか」と修正するね。そういう会話の場、議論の場というものが、まぁまぁしっかりしていればね、それでいいんですよ。【いちいち、憲法論なんかやるな!】と。憲法は全部一晩で書いてみせるから、西部に頼め。俺、本当に一晩か二晩で書いたことがある。

人間まともだったら、まともに生きていたら、憲法というのは、まともな人間のまともな常識が書いてあるものなんですよ。そんなものを書けない奴は、文章を書くとか、それ自体がおこがましいんですよ。そうでしょう?

(超大きな声で)【「アメ公の軍人ですら書けたんならば、ジャップの常識人が一晩で書けなくてどうするか!?」】という、そういう話になってくる。

僕の『伝統論』というのはこうなんですよ、素朴に言うとね。テレビで「そんなこと昔から言われてる」って言うでしょう?俺は逆で、『昔から言われてるんなら、今も言おうよ』って言ってるだけなんですよ。

『言語の問題』として関係あるのよ。これ、【田中美知太郎】という人が言ったね。大した名セリフ吐いた人じゃないんだけど、いいこと言ってた。

『言葉は必ず“過去”からやってくる。』自分の表現と言うけども、お前が使っている、俺が使っている言葉は、発明したのかい?違うでしょう。気がついたら日本語を喋っているわけ。

こういうことを言った人がいる。これもオルテガだ。

『第一印象は、最後にやってくるべきだ。』これなかなか名セリフなんですよ。

こう(辺りを)見渡すでしょう?「最後に、これを見ている自分が、紛れもなくいるんだ」ってね。そう思えばいいんですよ。これなかなか言い得て妙でね、『第一印象は、最後にやってくる』べきであるってね。それをね、アメ公たちは、まず間違っている。あれは、近代の個人主義。「私は、僕は、俺は、」ってね。「第一印象は、」ってね、やっている。『お前さん何者だね?』と。『第一印象、お前が使っている日本語は、お前が作ったのか?』って言われた途端、第一印象は崩壊するわけですよ。

第一印象、第一番目に置く立場ね。I am の「I」が崩壊するわけね。だからね、「I am~」と言ってもいいのだけども、考え方としてね、『“一人称”は、最後にやってくる』ってね。そう考えるべきなのね。そう考えると、まともな議論ができるわけさ。おしまい!

ありがとうございました。



【次回】
第一次世界大戦勃発から100年
大東亜戦争とは何だったのか』

桶谷秀明 × 福田逸(はやる)× 富岡幸一郎

大東亜戦争論、戦後日本論について、三週に渡り論議する