◼︎大東亜戦争とは何だったのか②「戦後」の「歴史認識」 桶谷秀昭 × 福田逸× 富岡幸一郎

◼︎大東亜戦争の意義を認めなくて何とする(大東亜戦争とは何だったのか②)

【ニコ動】
西部邁ゼミナール)大東亜戦争とは何だったのか【2】


桶谷秀昭:文芸批評家

福田逸:演出家 明治大学商学部教授、福田恆存(劇作家・評論家)の次男
[※(注)wikiでは「逸=はやる」になってますが、こちらでは「逸=いつる」で紹介されてますね]

富岡幸一郎:雑誌「表現者」編集長、鎌倉文学館館長、関東学院大学文学部教授、近著『川端康成 魔界の文学』(岩波現代全書)

西部邁:評論家 雑誌「表現者」顧問、近著『経済倫理学序説』(中公文庫)

小林麻子
歴史認識という決まり文句が、大陸や半島の方から突きつけられてから、すでに久しいものがありますが、朝鮮併合や日中戦争などに関する、いわゆる【歴史認識】が、近代200年余の歴史のパースペクティブ(perspective:見通し)の中で正しく位置づけられているとはとても思われません。

歴史というものが国民心理においてどんな深さや重みを持つのかの論議には、やはり文芸批評の力が不可欠です。

それでは先生方、どうぞ宜しくお願い致します。

小林麻子
伺いたいのですが、あの戦争は侵略戦争というふうに学んだような気がするんですが、それでいいんでしょうか?

大東亜戦争とは侵略戦争だったのか?]

あぁ、そうらしいですねぇ。それがなにか、「戦後の常識」になっているんですが、どこの国民、どこの民族といえども、自分のした戦争を侵略戦争と言う者はいないんですよね。

小林麻子
はい。

アメリカの占領が七年間続いたわけですが、その時に、「あの戦争は日本の侵略戦争だ」ということにされてしまったわけですが、結論を先に言いますと・・・

【そうではありません!!侵略戦争じゃありません!!!】

日米交渉というのが、昭和16年の5月から始まりまして、【支那事変】というのが、すでに昭和12年から始まっていますね。「この支那事変で、アメリカの中国における権益が損なわれた」と。ドンパチやっていますから、日本に(米国は)抗議を申し込んだわけです。

支那事変】というのは、あれは戦争と呼ばずに『事変』と呼んでいましたね。実はあの時の参謀本部の資料なんかをいま読み返してみますと、支那事変に勝利しようなどということは一言も言っていないんです。『支那事変を解決したい!』と言っているんです。

支那事変とは何か 昭和12年年(1937)〜]

南京が陥落した昭和13年、東京に国民政府(※当時の中華民国の国民政府)の外交部がちゃんとあるんですよ。戦争だったらそんなもんはあるわけないでしょう?

で、アメリカと日本は(昭和12年の)5月から11月の26日まで交渉を延々として、何一つ交渉は進展しなかったわけです。その11月の26日に(アメリカ側から)交渉はバーっと打ち切られたわけですね。何故打ち切られたかと言いますと、あの時のアメリカのハル国務長官コーデル・ハル)が、【ハル・ノート】というものを出しまして、「日本は、日独伊三国同盟を結んでいるが、これから寝返ってアメリカ側につけ!」「中国大陸から即時、日本軍を撤兵せよ」というものを突き付けたわけです。

[※「参考」ハル・ノートについて

▷主な内容は以下の通り

支那大陸フランス領インドシナからの即時無条件完全撤退
汪兆銘政権(南京政府)を見捨てて重慶蒋介石政権(重慶政府)を支持すること
日独伊三国同盟の死文化(事実上の破棄)

参考サイト

よく、戦後になって、「いや。日米戦争は避けられたんだ。ハル・ノートを呑めばよかったじゃないか!?」と言っていますが、ハル・ノートを呑むということは【国家的自殺】ですね。『戦わずして敗戦と同じ結果になってしまう』わけです。

ルーズヴェルト(フランクリン・ルーズヴェルト)は、マジックという暗号解読(※アメリカは。日本の外交暗号電報や日本軍の暗号の解読を「マジック」と呼んだ)で、日本の電報を全部聴いてるわけですね。だから、【ハワイ奇襲を知らないというのは「嘘」】で、全部(暗号解読で)知ってたんです。

知っていたんですけども、『日本に騙し討ちの奇襲をさせたということにすれば、“アメリカの戦争の大義”が立つではないか!』ということ、まぁ一種の謀略をやったということが、いまハッキリしております。

ようするに結論を言うと、あの時のルーズヴェルト大統領は言うに及ばず、アメリカの司令官たちが、しょっちゅう秘密会議を開いていて、大抵のテーマは、『いかに日本を挑発して、最初に日本に先制攻撃をさせるか』と。

そうするとね、アメリカ(国内)では、結構、反戦ムードもあって、それで「日本が攻撃した」ということ、つまり、パール・ハーバー真珠湾のね。それを、いかに誘い込むか、日本が攻撃した時も、その(アメリカの)会議が一斉に拍手喝采したと。そういう文書がアメリカ中にクソ真面目に残してありましてね(笑)

うん。

ある程度、いろんな、あの時の歴史を、まぁ調べるというか、眺めていくと、大概、【誘い込まれたな】と。

で、日本もそれを承知だけども、ここまでね、誘い込まれて、先ほど「国家としての自殺」と(仰られたけど)、ここまでやったら名誉を踏み躙られ、やっぱり、【国家の名誉が無ければ、国を建てている意味が無い】ですから、そこまで追い込まれて、おおよそ、上手くいけば引き分けに持ち込めるかもしれないが、それも難しかろうということを承知の上だけども、やっぱり、《行かざるべからず》というかんじで行ったということは、ある程度、年月生きてると分かるはずですけど、【(戦後の)日本人は分かりたくない人が多いみたい】ですね。

「あの戦争は避けられた」という説を言う人がおりますが、「ハル・ノートを呑めばよかったじゃないか」と。

(それを)呑んだら、戦わずして手を上げたのと同じことになる。

いま西部さんが言われたようにね、「国家的なプライドというものを踏み躙って、形振り構わず生きてればいいのか?」ということでしょう。

普通ね、侵略、侵略と言うけれど、「侵略とは何か?」ものすごく簡単に言うと・・・

先制武力攻撃をした方なんだけど、ただ、先制武力攻撃には二種類のものがあって、一つは、英語で言うと、【preventive】『予防的』ですね。

[preventive:予防的な先制武力攻撃]

これ以上、我慢すると本当に名誉を失うような、或いは、国力を失うような、(そのような状況が想定される場合において)致し方なく先制攻撃を。まぁ、真珠湾でもどこでもいいんですよ。

もう一つは、明らかに確かに『覇権的』なね、たとえば、古い話ですが、1898年か。イギリスが南アフリカで金が採れるとなったら、「それを俺によこせ!」となってね、言って、『南ア戦争』(ボーア戦争)が起こるのだけど。

あぁいうのなんかは明らかに、【hegemonic】な武力をもって先制攻撃を加える。あぁいうのは【aggression:侵略】と呼ぶんでしょうけど。

[hegemonic:覇権的な先制武力攻撃]

日本は、そういう意味ではね、赤裸な覇権的意図を丸出しにして、他の国のものを奪うというふうな、そんな野蛮な意味での覇権的な先制武力攻撃は、中国大陸に対しても、或いは、真珠湾に対してもやっていない、というふうに整理していいんでしょうね。

やっていない。(整理して)いいと思います。

そういう意味じゃ、本当に前回の一回目に、桶谷先生が、昭和天皇の開戦の詔書をお読み頂きましたけども、『帝国の存立がまさに危機に瀕せり』と。『帝国今や自尊自衛のため蹶然と立って一切の障害を乗り越えていかなきゃならない』と、ハッキリとそういう状況になっていたわけですね。

[※『米国及び英国に対する宣戦の詔書』(昭和16年12月8日)の全文が掲載されている参考サイト:http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/7517/nenpyo/1941-50/1941_kaisen_shosho.html

それだね。

だから、大東亜戦争って、その「亜細亜の列強からの解放」というのがありますけども、日本自体がそれだけアメリカに攻められていたと思う。

ですから、戦闘(について)は、確かに、真珠湾で先に撃ったわけですけども、しかし、その前のすでに『経済制裁』、数年に渡る非常に厳しい、それこそ石油とか一切。それから、アメリカにいる日本人の財産を全部凍結するとかですね。

まぁ、経済制裁と言うとちょっと弱い感じです。経済とかいろんなもので、【もうすでに戦争をアメリカは始めていた】と。

福田(逸)先生ね。こんなふうにまとめたら。福田逸先生のお父さん、【福田恆存】先生、有名な文芸批評家、社会思想家であられたんですけども、そのお父さんの分も含めてですね(笑)

こんなふうに言ったら、単純すぎるかもしれないけども、【林房雄】さんに『100年戦争』(※東亜百年戦争)ってありますね。幕末からね、要するに西洋近代と日本近代の・・・(日本はまだ)近代でもないけど、とにかく『ぶつかり合い』が始まったと。

林房雄の100年戦争 西洋近代 vs 日本]

[※「参考」林房雄の『東亜百年戦争

これは、1963~65年「中央公論」で連載された林房雄の『大東亜戦争肯定論』の中で「東亜百年戦争」という語を林自身が用いた。

林房雄『日本の近代史とは「東亜百年戦争」の歴史である。大東亜戦争は、1941年の真珠湾攻撃に始まったわけではない。おおよそ百年前から始まっていた。』

林房雄は、特に「黒船ショック」を強調しているわけではなく、林にとっての『百年戦争』とは、ペリーの黒船来航の少し前から既に始まっていた。

英米との大東亜戦争についての観点からすれば、幕末の黒船来襲、1825年の異国船打払令あたりから既に(東亜百年戦争は)始まっていたという事になる。

この歴史の流れで捉えれば、大東亜戦争が決して、戦後の知識人等がよく言う「昭和期の軍部の暴走」「統帥権の独立という天皇制国家の問題」あるいは「日本の資源を断つというアメリカの対日戦略」などで、説明がつくものではないのである。]

仮に、(x、y軸の縦横図における)起点を「幕末」としまして、横軸の終点を「1945年の敗戦」としますけどもね。縦軸を「自衛度」としますが、日本が幾つかの戦争をやっていますけども、(それらは)どんな戦争だったか?

ものすごい大雑把な考え方ですけども、「幕末」では『ロシアに対して日本をどう守るか』(※ロシアの南進政策に伴う日本接触とロシア船入港や蝦夷地における文化露寇事件など)ということですしね。

ただ、1915年の『対支21カ条条約』ね、あの文章読むとそれほど侵略的な内容は無いんですが、まぁ、姿勢として言うと次第に軍部が強くなってね、軍部の少なくとも一部にはね、中国に要するに覇権を唱えたいということがあったとすれば、(幕末が自衛度100に対して)自衛度は下がっていって、自衛度が下がるということは、相対的に侵略性が強くなるということにもなるのだけど、そんなことをやっていって、これが「1941年の開戦」の時点となると、あれは明らかにいま仰った意味において、日本の『対米自衛』だと考えると、自衛度は盛り返して(※幕末時点の時同様、高い自衛度=列強に飲み込まれない=攘夷)、これが45年時点でおしまいになるんですけども。

でもね、なんかそんなふうにイメージしますとね、百年戦争で言うと(一つではない)いろんな戦争ですから、100%の自衛とか、100%の侵略などあるべくも無いんだけども、この『百年戦争のイメージ世界』を考えれば、明らかに、【幕末からの近代日本は、西洋に対していかに自国を自衛するか】というね、そちらの傾きの方が明らかに大きいんだと。林房雄さんが言いたかったことをまとめて言うと、そういうことになりますよね。

林房雄さんの『百年戦争』という考え方で、幕末から、あるいは明治維新の頃から、要は、どう西洋を受けいれるか?という、【西洋との戦い】、それがずっと続いてて、日清・日露(戦争)と幸いにして勝てた。特に、日露というのは「信じられない勝ち方をした」「勝ちっこない戦いに勝った」という、それがだから、逆のトラウマになって、大東亜戦争、アメリカとの戦争に突っ込んだのかもしれないですけども、この長い流れの中で考えていきますと、【国家を存立させよう】というのは、人間の当然の権利としては既得権だろうし、要するに【生存の本能】みたいなものですから、国家を失うなんていうことを考えるなんてあり得ないですよね。

それからすると、富岡先生が先述された、アメリカがとった日本に対する(※制裁というか、事実上の戦争)、たとえば、『ABCD包囲網』もそうですけども、その金融制裁ですね、そういったものをあれだけ突き付けられたら、『ハル・ノート』を呑むも呑まないも無いところまでいってますね。

もし、「呑んでた」とすれば何が起こったかというと、【完全な隷属社会】に。

今だってそうじゃないか?(対米隷属)という人もいるかもしれないし、精神的に隷属国家ができているかもしれないですが、《少なくとも完全に「独立国」として存在し得なかった》と。

それともう一つは、【天皇の存在】というもの、《天皇家が無くなったんではないかという危険性》すら僕は感じますね。

ギリギリのところで踏みとどまり、もちろん、昭和大帝が敗戦の時に、自分の身を守るために戦争をやめようと仰ったのではないことも重々承知で、全くその逆、自己犠牲の上において、日本という国民をなんとか生かせたいと思ったというふうに、そういう方だったと私は信じて疑わないのですけども、敗戦に至るまでに、やはり、《国家というものを守ろうという意識》という、それを言っただけで、ある種の人は、「右翼」であったり「軍国主義」だという、非常に不思議なレッテルを貼るのですけども、人間帰属する故郷でも、国でも、『何かに帰属しないで人間が存立できるというのは考えられない』わけですから、その本質を考えると、ハル・ノートを突き付けられた時に、【これは蹴るしかなかった】と私は思いますね。

東京裁判』では日本はね、簡単に言えば、「日本は犯罪をやったんだ。戦争犯罪したんだ!」という。それに対して、【パール判事】(ラダ・ビノード・パール)がただ一人、『無罪』という判決を下したという。

東京裁判史観 vs パール判決史観」と言ったら、ちょっと言い方あれですけども、『パール判決』をちゃんと読んでみると、こういうことを言っているんですね。

ともかく、満州事変あたりからの日本のやり方はいろんな問題があった。しかしながら、百年戦争なんて(パール判事は)言っておりませんけどもね、それに巻き込んだのは西洋、アメリカである。ところがもうひと押しありましてね。日本に問題が大いにあるのは、実は、近代日本は、特に昭和に入ってからですけども、《西洋のマネをする》ようにして、つまり【近代主義】ですね、明治維新後の近代日本が、模型・模範として西洋を置いて、アジアで最初に近代化をして、もっと言えば、西洋のマネをして、そしてその果てに、これは僕ではなくてパール判事が言っていることなんだけども、満州事変その他が起こり始めたと。

問題は、日本が明治維新後、西洋を100%に近く範として、それで近代に入ったというところが問題なんだけど、僕はそれはね、もちろん、そうせざるを得なかったというのが当時の帝国主義段階の情としてよくわかると同時にね、確かに明治の途中では、日本主義への復帰もありますんでね、そんなモノトーン、モノカラーで西洋のマネしたわけではないというのは承知の上で言うけども、確かに、『西洋のマネをして、それで、もともとのマネをされた側の西洋側にやられたという』そういうふうにパール判事は見ているんだけども。どう?

それはあると思います。

日本はアジアの解放を。で、アジアの代表として西洋と戦うと。しかし、その前から、日本は完全に西洋的な軍事力や、その生活を含めた体制を作っている。

一方でですね、非常に西洋の帝国主義的な実は姿勢を示していた。

しかし、大東亜戦争に関しては、アジアを解放するという。【その二面性があった】んですよね。それは非常に難しい問題で、ですから、実は大東亜戦争の最中に、昭和17年、戦争が始まった時に、【近代の超克】という議論が、これは文学者を中心にですね、雑誌で行われている。

この「近代」というのは、要するに【西洋近代】ですね。『我々はいったい西洋近代をどういうふうに乗り越えるのか』という、つまりそれは、ある意味、【大東亜戦争の思想的な戦い】、日本人の明治維新以降の思想的な課題が突き付けられていた。

大東亜戦争というのは、思想的な面だけを摘まんで言えば、【近代の超克戦争】なんですよね。

そうですね。

日本の近代は、ヨーロッパのマネをしたわけですよ。《それを超克しよう》というんです。だから、【自己否定】ですね。日本の自己否定を行おうとした。

という意味は、支那事変がなかなか解決できなかったと言いますが、南京が陥落した時に、日本は(中国側に)、『日本の方から講和を出している』のですね。ところが、【蒋介石】はそれに対して答えなかったわけです。そして、近衛首相は癇癪を起こして、昭和13年の1月に、『以後、蒋介石政権を相手にせず』と言ってね・・・

あったねぇ(笑)

それからずーっと延々と「解決不能状態」になってしまうわけですけども、さっき出た、「侵略戦争」云々という言葉から言いますと、侵略戦争というのは、当然、これはアグレッシブな形で戦争を吹っかけて、そしてハントするというような、典型的な形が侵略戦争ですが、【これを日本は一度もやっておりません!!】 これはハッキリ言える。

日華事変』も、日本は講和を出しているわけですよ。その条件をいま詳しくは時間が無いので申せませんが、蒋介石の国民革命党の要人の【白崇禧】(はくすうき)という人は、それ(日本から提示された講和の内容)を見て、『こんな条件だったら、何で(日本と)戦争をしてるんだ?』と言ったわけですよ。

だから、あれはね、日本の方がそうやって講和の条件を持ち出しているのに、無視されている。で、大東亜戦争に流れ込むという構図ですね。

これで、今までのお話で、『大東亜戦争は侵略戦争ではない』ということは証明できたと思いますが、ちょっと付け加えさせていただきますと、これは、実は、【自尊自衛のための戦争】であると同時に、【絶対的な戦争】だったと思うんですね。

絶対的ってどういうことかと言いますと、『勝算の無い戦争』『勝算のハッキリしない戦争』です。勝てる保証はどこにもない。【「だけど、戦わなければ、日本の国家的存立は無くなってしまう。そういう意味で“絶対的戦争”だった」】と思うんです。

これが、自尊自衛のために、一切の障礙(障害)を乗り切って、蹶然として立たなければならないとい言葉に現れていると思うんですね。

だいたい、この『宣戦の詔書』というのは型が決まっておりまして、まず「序文」があって、それから戦争に至る「経過説明」があって、そして『この戦争の態度』を言うわけですが、日清・日露というのとは、大東亜戦争はかなり違うわけですね。

日清・日露の場合には、『大日本帝国皇帝』となっています。これ、エンペラー(Emperor)という英語に翻訳し易いようになっている。

なるほどね。

日清・日露の場合は、欧米に対して非常に気兼ねしてものを言っているんです。

[日清・日露の宣戦詔書 欧米への配慮]

そうですよね。

つまり、それはどういう形かというと、「文明」という言葉を使いましてね、「文明を平和の地において実現し』、この「文明」は、英語のCivilization ドイツ語で言うとZivilisationですね。そういう「文明」という言葉を使っていますが、『大東亜戦争詔書には、「文明」という言葉は一切使っていません』

これは、『もはや、我々はヨーロッパ文明を超克する、超克しよう!』というのが現れているのではないかと思います。

それにしても、近代日本、明治維新頃とすると、僕はあまり痴話話得意じゃないんだけど、【福澤諭吉】はよく読んだ時に、これは世間で知らされていないんですけどもね、明治12年ぐらいになるのかな?その前の大著と言われていた『文明論之概略』を書いた直後みたい、1、2年後ですけどもね。

それでね、西洋は思想伝達の胎動、蒸気機関だ、郵便だ、電信だ、出版だと。そういう今で言えば、情報ハイウェイですね。そのせいで、境涯狼狽、要するに大混乱に陥っていると。

『西洋のマネなんかしちゃいけないんだ』ということをね、明治の11、2年で。

[西洋近代への警戒 福澤諭吉

それから、もっとビックリしたのは、その後、【中江兆民】がね、日本人は(中江を)民主主義の元祖とか、幸徳秋水が(中江に)弟子入りしたもんで社会主義の元祖なんて言ってるけども、ついつい読んでみると、(桶谷)先生が仰られた日露戦争について、『滅びを覚悟で戦え!!』と(笑)

その前には、彼はフランスに留学していますでしょう?あの岩倉具視使節団と一緒に。それで、(中江は)こう書いているんですよ。『自由と平等に狂える瘋癲病院なり』と(笑)要するに、(瘋癲病院とは)精神病院のことですね。

[フランスは自由と平等に狂える瘋癲病院]

ですから、明治の初めの人たち二人ともあれですけどね、明治維新の時は福澤諭吉は33歳かな、おそらく中江兆民は22、3歳でしょうけどね、『侍』をある程度経験した人たちは、西洋の近代化を受けいれるけども、【素直に受けいれたら、馬鹿な調子に巻き込まれるぞ】ということを、堂々と認めながら、いま(桶谷が日露戦争について)仰られたように、日露戦争で『滅びを覚悟で戦う』、まぁ戦ったんですけども、大東亜戦争はもっともっとあれですよね・・・

そうです。

【総力戦】、(桶谷が)仰った、総力戦ですから。

近代の超克ということですか。これ、受容と超克というのはなにか、受容が本当にできたつもりでいるということの、【矛盾】というのかな。

(腕を深く組みながら)そうかぁ・・・。

そこをまず考えないといけないのかな。そうすると、実は、『何を超克すべきなのか?』ということも、本当に受容できていないで、超克はできないんじゃないかと、ずっと私にある問題で。これを三週目(次週の放送)にでもお話できたらなぁと思ったりしているところなんですが。

あぁ。

西洋の全てとは言いませんがね、西ヨーロッパの一部でしょうけどもね、自分たちが作り出した近代というものに対して、『これは、大問題を含んでいる』と。

えぇえぇ。

個人主義であれ、自由主義であれね。やっぱり、精神的・思想的に言うと、やっぱりヨーロッパに一日の長があるとしたら、西ヨーロッパですけどね、【自分たち自身を根源から疑うこと】において、先んじたところがありますよね。

そうですね。

全て、まさに自由でも何でも、自分で問題視して、それを勝ち取るなり、平等にしてもそうですけども、民主主義もそう、《そういうものを受容しないで受容してしまうところ》と、このじゃあいま、単純に雑駁に言えば、「太平洋戦争」という言葉を単純に受けいれててしまう。そういうところとどこかパラレルに《日本人のDNA的なもの》があるんじゃないかなぁという。

そのへんのことを言葉の方から感ずるところがありますねぇ。言葉に鈍感というのかなぁ。

ということで、第三週に行きますので、麻子さん?(笑)

小林麻子
お願いします。

【次週】
『戦後』を超克しなければ未来はない。:大東亜戦争とは何だったのか③

やっぱり、『特攻隊の真心』を疑ってはならんと。

自分を否定して、自分の命というある意味もっとも大事なものを捨てても守ろうとしたものがある。その結果、残っているのが我々なんだと。

自分の恋人、或いは妻、子供、両親への『熱い思いだけ』がある。純粋に昇華している。

大東亜戦争は何であったかという、核心部にあるのは、【あの特攻隊の死は何であったか。】

どういうふうに自分たちの先輩・先祖たちが死んでみせたかということを、僕らが記憶して、きちんと解釈できれば、それは【僕らの精神の糧となる】わけですからね。

大東亜戦争は何であったか。そして、【あの敗北】は何であったかということを、やっぱり、しっかりと今は考えなければいけない時期に来ていると思うんです。