◼︎現代において「思想」は可能か①(佐伯啓思×柴山桂太×西部邁)西部邁ゼミナール
【ニコ動】
(西部邁ゼミナール)現代において「思想」は可能か① 2014.11.09
柴山桂太:滋賀大学経済学部准教授、表現者編集委員
近著『グローバリズムが世界を滅ぼす』(文春新書)
小林麻子
今日はお馴染みの佐伯啓思先生と、柴山桂太先生をお招きしました。
そして、佐伯先生が来春に京都大学教授の職から定年退職の運びとなるそうです。今時、少なくとも公の場で師弟間の真剣な議論が発表されるという機会は皆無といってよいでしょう。そこで、当ゼミナールがその場を提供しようというわけです。
佐伯先生は、ごく最近こちらの『西田幾多郎』(新潮新書)という書物を出版され、日本思想の根源を探るという遠大な企画にとりかかっておられます。そのことを背景において、三代に及ぶ師弟(西部邁⇄佐伯啓思⇄柴山桂太)が人生、国家、時代、そして思想の全般にわたってどこでどう維持、どこでそれぞれが食い違うのか興味津々といったところです。
では、これから三週間にわたる、三代の師弟鼎談、先生方どうぞよろしくお願い致します。
柴山先生。
柴山桂太
はい。
「思想」鼎談ということなんだけども、思想ってなんなんでしょうねぇ?むかし福澤諭吉読んでたら、あの時代は『思想伝達』なんて言葉があった。ただ、情報伝達とは言っていないんですよね。
ただあの時代、『思想』これもうすでにあったのだけど、明治10年前後ですけどもね、情報というと、ある程度、形がととのったものならば、揺れ動くものの考え方とか、気分を込めての表現の仕方とか、そういうことを指して【思想】と言ってたかな。
柴山桂太
私もそれいつも悩むんですけど、『思想』っていったい何なのかなといつも考えるんですよね。
似たような言葉に【哲学】というのがあって、『哲学』は、ギリシャの昔は、あらゆることを論じる総合的なものだったのでしょうけど、最近、哲学と言うと、やっぱり『論理』と言いますかね、物事の論理的な正しさを考える。
それよりも『思想』というのは、もう少し広がりがあるような印象を持ってまして、【想】という感じが少し「感情」と言いますかね、「情緒」というか、そういうものを含んでいる。
想像の「想」だから、『イマジネーション(Imagination)』だね。そういうことでいいの?佐伯先生。
柴山さんが仰った【哲学】というのは、【論理】でもあるけど、もう一つ、何かこの世の中の根本的真実みたいなもの、【真理】みたいなものをどこか究めたいという欲望が、たぶん哲学にはあるだろうという気がするんです。
もう一つ、我々は現にこうやって行きていて、生きているという中で様々な「知識」を持ってきたり、何か「情報」を持ってきたり、つまり『実践』しますよね、『行動』します。
ところが、『哲学的な真理』というのは、非常に根本的・究極的なものですから、我々の日常的な実践には、そのままスライドできない。その間ぐらいで、どこか哲学的な真理というものを目指しながら、しかし、それはいまここでは実現できないということを前提にして、それで『行動』やら、『生活の場』に持ってくる場合のそのちょうど中間あたりにあるのが【思想】だっていうイメージを持っていますけどもね。
【哲学】と言った時にはね、例えば、30年、50年、沈思黙考(※ちんしもっこう)してグッと考えて、それで何か異常に余計なものを削いでね、その自分の長い間考えたことの『骨格』というか『エッセンス』だけを凝縮してね、そういう時には確かに『哲学』としか言いようがないものでしょうが、【思想】と言った時には、「書く」だけじゃなくて、「書く」「語る」ね。それこそ(佐伯が)いま仰った【実践】ね。
表現の実践を通じて、残ったものが『蓄積』され、『時間を超えて残るもの』が、「佐伯先生の思想はこういうことだぜ」という意味もあるのね。
柴山桂太
ということは、やっぱり『状況』というか、『その人が生きた時代の陰』のようなものが入るということですよね。
それも入るんですよね。
【表現】というのは、頭と口先と指先から出てくるわけでしょう。そうすると、その人の『人生』・・・あ、そうだ、一週間前ぐらいに、人生ってね、『思想』というとどうしても「人間に関すること」が多いでしょう。そうすると、人間に関して、人間である自分が表現する。
『自分』って何かというと、人の生というか、人生を持っている、ということなのかねぇ。
(柴山を指して)あなたは、ごめんなさい、からかって言っているんじゃないんだよ。
柴山桂太
えぇ。
人生・・・あるよねぇ?(笑)
柴山桂太
(困り顔で)いちおう、あると思います(苦笑い)
まぁだけど、確かに、その物事の正しさというのも突き詰めていくと、例えば、正しいか間違っているかという時に、まぁ「間違っている」と行き着いたとして、その間違っているというところの究極まで行くと、なんかその常識というか、何かその核のようなものに行き当たるという風な感覚は、評論をやっていると常にあって、それは何か、『人生』というと、私の場合はちょっと大袈裟になっちゃうんですけど(笑)『何かが繋がっている』ふうには思う時がありますね。
19世紀、20世紀初めかな、【Lebensphilosophie(独語:レーベンスフィロソフィ)】=【生の哲学】というのが出てきて、『人間は生きている。生きている人間が表現するのが生ける言葉であって、哲学といい思想といい、そういうものだ』という、『生きて死ぬという人間の生の成り立ちと、別のところに思想があると思うなど大間違いである』と。
それはよく、『真』と『善』と『美』(真・善・美)というような言い方しますけども、究極的にギリシャの哲学者たちが目指したのは、物事の根本的『真理』、宇宙というものを成り立たせている根本的な真理、それを知ることは同時に生きる上で非常にいい生き方ができる、『善』みたいなもの、そのことがまた、『美』的な感性と関わってくるという。全てがわりと【調和】した形でしたよね。
調和。
えぇ。それが崩れてしまってる時に、近代に入ると【科学】が出てくる。『科学』というのは、ある事実とある命題が対応しているかどうか、そういうことだけに非常に『客観的』に扱おうとしますね。
客観的に扱おうとするのはいいのだけど、逆に、科学をやっている科学者の『人生』だとか、『生き方』だとか、そういうものとほとんど関わらなくなってしまっていて、あるいは、科学だけが向こう側の宙に浮いてしまってね、それが、こちら側で生活している人間と一体どういう風に関わるのかということが問題になってきますね。
そこから、いま(西部)先生が仰ったような【生】というものをもう一度根底に置いた哲学ができないかとか、あるいは、『Pragmatism(プラグマティズム)』みたいなすぐ生活の実践に役に立つような考え方ができないかというような。
20世紀というのは、だいたいそういう意味では、『哲学と科学が完全に分離』してしまって、だから逆に言えば、その中間あたりで、「生きる」ということと「知識」の関係を取り結ぶのが、むしろ広い意味で【思想】というふうになってくるんじゃないかという気がしますけどもね。
【Science(サイエンス)】というのはもともとはもっと広い意味で『知る』ということですね、単にね。どうもそうらしい、ラテン語で言えばね。
『Premise(プレミス)』と言うんですけど、『前提』を置くんですよね。言葉で言いますが、『前提を置いて論理を組み立てる』わけさ。
人間に関するのは厄介なのはね、これ簡単な例なのは、(小林)麻子ちゃんも消費してるでしょう?僕も消費している。さっき弁当食べたんだけど。
小林麻子
はい(笑)
ところがね、人間の消費は「何を前提に成り立っているのか?」考えてみるでしょう?
一つのあれはね、「快楽」「苦痛」の計算で、「快楽は最大にして、苦痛は最小にする」ってのは前提で、人間はそういうもんだという前提を置くと、それでおおよそ説明されることが多いの。
ところが、別の前提を置くの。人間の消費なんてほとんど習慣でやっているんだと。それも事実とあってくるんですよ。
もう一つ、人間の消費なんてほとんどファッション、流行で動かされているんだって前提を置くと、それもだいたい合っちゃうのね。
最後に何にしましょうか。人間の消費には全て宗教・道徳心のね、イスラム教徒を想像すればわかるように、影は強い影を落としていると。宗教観・道徳観が消費を決めているというと、また全部あっそうに見えてくるのね。
そうするとね、「なんだ、どの前提置いても、人間のまともに考えたことは大概事実とまぁまぁ合っちゃうな」と。いま言った4つの前提のどれがどれだけ正しいのか、みんな正しいとしたら、どういうふうに組み合わせなければいけないのかということを考えるとね、やっぱり【思想の領域】に入っちゃうのね。
【anthropology(アンソロポロジー)】・・・人類学と訳されるけど、まぁ『人間学』だね、人類。科学の場合はね、前提をやっているのが人間が探った、『生きている人間』でしょう?
数学者の【岡潔】という人がむかし、奈良女子大にいて・・・
あ〜そうそうそう。
戦後を代表する数学者の一人でしょうね。数学というのは完全に論理でできているという・・・まぁいちおう、それはそうなんです。
ですから、最初からはじまって論理を持っていけば、最後まで到達して、全てが非常に明晰にわかるはず。
『それでも、納得できない数学というのがある』というんですよ。
ほう。
どんなに論理的に正しくても、どうしてもそれを受け入れることができないものがあって、じゃあ、「受け入れられることができるか・どうか」の基準は何かというと、岡さんは【情緒だ】と言うんですよ。感覚というか情緒。
だから、どんな論理でも『論理を超えたもの』があって、本当にそういうことが正しいかどうか判定するのは論理じゃなくって『情緒』だというのを、岡さんがしばしば言っておられた。
そう。僕ね、佐伯さん、20代の頃の後半かな、アルバイトでね、経済予測作業に携わったことがあるの。その当時はね、来年の日本のGNPがどうなるかとか、「未来予測」ね。
ところがね、僕ね、ある時に気がついたの。大概のあれは、【ロジスティク曲線(logistic curve)】って言うんですけどね。
まぁこちら(画像のグラフの横軸)に「時間」をとるでしょう、Timeね。こちらは(画像のグラフの縦軸)はなんでもいいや「X」ね。それでね、こんなカーブ(曲線)で描くことが多いんですよ。ロジスティクというのは、最初はものすごい勢いで増える(急激な曲線になる)のだけど、途中から増え方が減る(曲線がなだらかになる)というね。それで、そのまま(曲線が)下がる場合もあるし、そのまま(下がらないで横軸と並行のまま推移)行く場合もあるのだけども。
これね、『生物の繁殖曲線』(※個体群増加モデル)ね、簡単に言うとゴキブリ。加速度的に増えていくの。ただ、ある段階の「変換点」を過ぎると増え方が徐々に弱くなって、最後は没落する場合もあるし、ストップする場合もある。
そうすると前提でね、こういう前提を置くんですよ。「人間はゴキブリも同然」と。
柴山桂太
フフフフフ(失笑)
いい?この世に起こる経済現象全てはゴキブリの繁殖率に・・・となってくるとね、数値的には合うのよね。ところがね、『納得できない』でしょう?
柴山桂太
えぇ。
えっ?ゴキブリと人間が同じにされても・・・というね(笑)
案外、納得できたり、ハッハッハッハ(笑)
小林麻子
私もです(笑)
納得できるの?(笑)
あっ、でもね岡潔さんが言ったことは、そりゃ数学だけどもね、今の場合はもっと物理学も含めてですけどね、科学、『実証科学』の方に移っていくとね、納得したとしても、人を説得できないよね(笑)
そりゃそうだ(笑)
麻子ちゃんが絶対反対しますから(笑)
小林麻子
いえ。私ももう・・・はい、納得しました(照笑)
納得してるんだよね?(笑)
納得しちゃった?(笑)
柴山桂太
いわゆる『実証科学』は、いま世の中に溢れていますけども、特に心理学ブームらしくて、「あぁいう性格はこうだ」とかね。
小林麻子
あぁ。
柴山桂太
浅いレベルでは「あぁそうか」と思うことはあるんだけれど、深いレベルでは、深いレベルで納得するということは、なかなか科学的知識では難しいですよね。
『深いレベルで納得する』というのは、すごく難しいというか、それなりに知的手続きと言いますかね、必要だというのがあって。
あのねぇ、そういう『納得』ということについては、わりと悲観的でいてね。
そうか。
フフフフフ(笑)
先ほど紹介していただいた『西田幾多郎 ~無私の思想と日本人~』(著:佐伯啓思、新潮新書)ね、別に哲学書でもなければ、西田の解説書でもなくて、まぁエッセイなんです。一般向けに書いたエッセイなので、非常に読みやすいはずなんです。
それでね、(京都大学の)一回生の学生たちにちょっと読んでもらって感想を聞いてみた。そうすると、ほとんどの学生がね、「書いてることはよくわかる」と。頭でよくわかる。だけど、『無の思想』『無の境地』というのがやっぱり「納得できない!」というんですよ。「わからない」という。
僕はね、まぁ〜自分で書いてあることはありますけども、その説明の仕方が上手いか下手かは別として、あの【無】というものが、ある程度、自分の中で納得できているような気がするんです。なかなか説明できないんですけども。
ちょっと、ちょっとしてみて。
日本人の中にある伝統的なものの考え方と思うんだけど、やはり、『この現世というのはどこか幻だ』という感じがあるんじゃないかと思うんですね。でも、幻だということは、どこかに『本来の世界』があるだろうと。だけど、本来の世界は見えませんから、見えないものは、それは『無』であろうと。
日本人は特に、西欧のように神というのも、絶対的な神というものを持っていませんから、その神に代わるものは、全てを包括する何か『巨大なブラックボックス』みたいなそういうものを、なんとなく日本人は考えたんじゃないかって気持ちで、それは、僕自身もそういう気がするんです。
やっぱり、ある程度『年(年齢)の問題』もあるのかなって気もするんですけどね。それと、その人の『経験』みたいなものがやっぱりあるのかなぁと。
だから、なかなか本当の意味で納得というのは難しいけども、逆に言えば、僕が納得している方が、何かを勝手に思い込んでいるだけでね、本当のことを言えば、納得してないその方が正常なのかもしれないですね。
人間ってね、「言葉の動物」だという大前提からはじまったとしますでしょう?
【言葉】ってのはなにか普通ね、『意味』というものを持つんだけども、この意味というものが、これまた厄介でね、一つはまぁ、『状況によって変わる』というのと、もう一つは、ある意味を考えた時に、同時に『反対の意味』も頭の中で考えますからね、組み合わせた意味とかいろんなね。
そうするとね、単一の意味は「これはこんな意味があるんだ」と叫んだって虚しくなるという意味で、ある種の【無】の感じが出てくる。
いろんな意味の複合体としての『形』はね、そこで簡単に言うのだけど、いまから100年前後前、ある種の『記号論』的なものが生まれはじめた。『記号そのものには意味は無い』わけです。「YはXの関数である」「Y=F of X」とかって形がある。でも「X」が何であるか、地球であるか、ゴキブリであるかとかさ、そういうことは『状況』によって決まるし、形そのものはね、『そこで納得可能ということはない』の。
う〜〜ん。いやだけども・・・
(佐伯を遮るように)いや、それはかなり『無い』と言いたいわけ。というのは『形』なんて人が勝手に考えたものでしょう?
ハッハッハッハ(笑)
そしたらね、「佐伯の考える形」ね。またいろんな形があるでしょう。なに言ってるんだと。形は天から降ってくるものじゃないだろうと。でね、堂々巡りになってくるわけね。
そうですねぇ。
そうそうそう。
(イデア=究極の形)そういうものがとにかく存在するんだというふうに言った。だけども、存在するけども『それは見えません』から、具体的に見えないものなんですよね、非常に抽象的な頭の中でたぶん想定もできないようなものを言っているんじゃないですかね、イデアというのは。
だから、イデアというのは、『有るとも言えるし、無いとも言える』ようなものだと思うんです。だから、『それが存在するということは同時に、存在しないということがそこに裏に』ね。
でもさ、先ほどさ(佐伯が)年(年齢)のことを言ったけども、人生有限ですよね。年取るということは、もうじき死ぬってことなんでさ。それはわかりきらないんだけどね。
僕は75歳、あなた(佐伯)はいま、64(歳)か。
うん、まぁ、そうですね。
まぁいいや。こんだけ生きてね、「どうもこんなものみたいだなぁ〜」と、本当は、みたいだなぁと思っているだけで、「これだ!」とは断言できないのよ。でも、これだけ生きたらね、まぁ〜これ以上もうじき死ぬ身でですよ?「あ〜でもない、こ〜でもない」と議論する時間もないし、どんなもんだね。
(笑)
「だいたい、こんな形でいいとしてくれませんか?」というね、佐伯さんだってあと11年後に俺と同じ年だから、まぁ〜だいたいわかったよと。でしょう?
(にこやかに頷く)
それでも彼(=柴山)はまだ若いんだけどね、若い人には『想像力』があるでしょう?普通あれは「理解する」と言うじゃない?この場合は「納得」だけどね、この英語を日本人はなんでよく使わないのかなと思うんだけど、『コンプリヘンション:Comprehension(理解)』(com・pre・hension)「com」というのは「一緒に」という意味だよね。「hension」というのは、「hend」でこれのもともとは「hold=しっかり掴む」ですよ。それで「comprehend」というのは「(動詞)理解する」なんだけど、「com=一緒に」だから、何か物事を総合的に、しかも「pre」だから「予め」ですよね。把握する(※物事を総合的に把握すること▷Comprehension)っての。
おそらくね、「understanding=理解する(こと)」でもいいのだけど、これ(Comprehension)の方が言葉として面白いのはね、ある程度、(佐伯が)仰ったように、長年生きるとさ、いろんなことを経験するでしょう。喜び、悲しみ、男、女・・・いろんなことね。
しかも、だいたいいろんなことが繰り返されますから、「またこんなことが起こるんだろうな」って、予めその「hold=把握」(すること)、それをね、みんなが、どこか『共有』すると。
そのことの『強さ』みたいなものがありますねぇ。
強さね。
やはり、想像力だけでというのは、なかなか難しいような気がしますけどね。
そうか。まぁそりゃそうだ。
ある気分で、佐伯さん言うとおりだと。結局、「わからないんだよ!」ってね。全ての人間は、わかりやすく言えば、孤独に生まれ、孤独に死んでくんだよと。
ある一行の表現にしてもね、本当に自分がそれに込めた意味はね、「他人には結局のところは通じずじまい」のところが多々あってさ、自分の文章を本当の意味で理解してくれるなんてのは。
それどころか、自分自身がね、いろんな人が入っていますからね、佐伯さんの中には、お父さんの調子とか、お母さんのetc... そうすると、ある一つの表現をとった時に、『自分の中の誰が言ったのか?』ね。自分の中のお父さん的要素が言わせたのか、お母さんなのか、うぬぬ・・・とこうなってくる。『結局、わからずじまいだなぁ』という意味においてね、それを強調するとね、あなた、今度は精神病院に行かなきゃならなくなってくる(笑)
はっはっはー(笑)
その全部をコンプリヘンド(comprehend)するいちばんそこにあるものを、一応とりあえず【無】と言ってきたんです。はっはっはー(笑)
そうなんだろうねぇ。
英語を使うんだけど、『integrity』という言葉があって「総合する」って意味ですよね。でもこれね、「総合する」と同時に、『一貫する』というの。
僕ね、佐伯さんが24、5(歳)の頃から知ってるの。
小林麻子
はい。へぇ。
あれから、正味40年ぐらいか・・・
そうですねぇ(笑)
その当時からね、インテグリティ、音楽だ、文学だ、哲学だカラオケだまで含めて(笑)、いろんなことを総合的にね、インテグラル(integral)、相当一貫しているんですよ、この物をやり方が。
小林麻子
はい。
物事をある程度、総合的にかつ、まぁ一貫していってる人はね、『信頼できる』なぁと。で字引き引くと、『integrity』の3番目の意味が、あの『誠実性』となってくるのね。
さて、そうなってくると、『説得力』とかなんかが「どこに発生するか」というと、科学信者が言うような、「その前提は妥当かどうか」とか、「論理は間違っていないか」とか、そんなことじゃなくてね、アンソロポロジー(anthropology)、人間学の場合は、『その人の表現が、全体の生の時間の中で、総合性と一貫性と誠実性を持っていれば』、まぁまぁ佐伯の言ったことだから、いいとしようかと。いいとしなくても、『検討に値する』というふうな、そういうところの『説得力』というのかな。ひょっとしたら、自分も『納得』するかもしれないよね。
う〜ん。そうですねぇ・・・
ちょっと話ズレるけどさ、僕いまのエコノミストたちがわからないのはね、3年前のことをもしも記憶してたら、「何とか構造改革に反対とか賛成」とか言って、その3年後は別のこと言っているんですよ、あの連中たちはね。そしたらね、自分で「納得できない」でしょう、納得できないから「説得する気もない」と。最終的にはあれかね、記憶力の問題なのかねぇ、忘却率?
柴山桂太
(苦笑)
う〜ん。。。
佐伯さんは異様にじゃあ〜記憶力が高い、忘却率が低い、というのは一貫性とか、持続性なのかね?
いやぁ・・・そういうことじゃないと思いますけどもね。
ハッハハ〜違うの?(笑)
つまり、一貫性があるかないか。たとえば、いまのエコノミストが状況が変われば、発言がコロコロ変わる。それはなんか、状況がこうだから、状況に合わせなければならないという、何か余計な変な心理が働いてしまうんですよ。
それもあるねぇ。
で、こういうふうにやればいけるだろうとか、こういうふうにやれば多少相手が納得してくれるだろう、いろんなそういう「余計なものが働いてしまう」から、逆に、インテグリティ(integrity)が無くなってしまう。なにかその、『余計なものをできるだけ抑えていく』というか、『捨てていく』方法が欲しいんですよ。
ちょっと極端に言えば、人間は全て着ているものを脱いでしまって裸になった方が、『その人の素』というものがあらわれて、そうするともう粉飾のしようがなくなってしまって。それはもう、一貫性があるの・無いのというよりかは、一回、その場を生きないとしょうがないじゃないですか(笑)
そうか。一貫せざるべからず。
そういうことが、いま本当は求められているような気がするんですけどね。みんな余計な知識を身に付け、余計なことを考え、逆に何か余計に状況に合わせようとしてみたり・・・
そうだね。
無駄なことをあまりにやりすぎているという気がしますけども。
どんな新聞もどんなテレビも、ほとんど1週間どころか3日も持たないような情報。しかも、みんなそれに取り付いてさ、永遠と続いて何十年か経ったら、これは【朝日新聞のこと】だけども、「全部虚報でした」とか「誤報でした」とか言ってね、ということになっちゃうんですね。
だから、忽せ(ゆるがせ)にできないものを見つけよう・語ってみようという、そういうことが大事だぜというので・・・
小林麻子
はい。
ということで、さよなら、さよなら、さよなら(笑)