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◼︎現代において「思想」は可能か -学問と思想- ②(佐伯啓思×柴山桂太×西部邁)西部邁ゼミナール

◼︎現代において「思想」は可能か -学問と思想- ②(佐伯啓思×柴山桂太×西部邁西部邁ゼミナール

【ニコ動】
西部邁ゼミナール)現代において「思想」は可能か② 2014.11.16
佐伯啓思×柴山桂太×西部邁

佐伯啓思京都大学大学院 人間・環境学研究科教授、評論家、表現者顧問
近著『西田幾多郎 ~無私の思想と日本人~』(新潮新書

柴山桂太:滋賀大学経済学部准教授、表現者編集委員
近著『グローバリズムが世界を滅ぼす』(エマニュエル・トッド、ハジュン・チャン、柴山桂太、中野剛志、藤井聡堀茂樹、文春新書)

小林麻子
京都大学佐伯啓思先生と、滋賀大学の柴山桂太先生をお招きしての「思想」鼎談、その第二回目です。

前回は主として『人生と「思想」』ということでしたが、今回は『学問と「思想」』ということになろうかと思われます。

『学問』という難解な問題をどう解きほぐしてもらえるか大いに楽しみです。

ではお二方宜しくお願い致します。

学問の『学』という字のもともとの意味はご存知?まぁ〜普通に「学ぶ」・・・

小林麻子
学ぶ・・・以外でわからないです。

これね、昔の言葉で『まねぶ(=学)』とも言ってたらしい、大昔ね。

小林麻子
あぁ。

古い字使ってました、小学校1、2年の頃、『學』という字ね。これね、(上の部分が)「鳥の羽」ね、こんなふうにひっくり返っているけども。

小林麻子
あぁ。

これね、親鳥(「學」の字の上部)の羽の下で子供が飛び方を「真似をする」・・・つまり、『学(まなぶ=まねぶ)というのは、飛び方について親の真似をする』という意味なのね。

[*「學」親鳥の羽の下で飛び方の真似をする]

小林麻子
はぁ〜はい。

ところがね、こっち(学問の「問」)は『問う』でしょう?これ(=学問)相当面白い言葉でね、真似をするんだ。しっかり真似をしなさいよと言いながら「問う」ちゃっている。

たとえば、お父さん(を佐伯)、子供(を柴山)としたときに、お父さんの真似をしながら、『お父さんなんでそんなことしなければいけないの?』と問うてるというね。

柴山桂太
ハハハハハ(笑)

正しいとされていることをいちおう教えながら、しかし、『それが正しいかどうかを吟味してみる』・・・

まぁ〜そういうことだ、簡単に言えばね。

小林麻子
そうすると、自分で考えるんですか?

柴山桂太
う〜ん、そういうものなんでしょうね。でもこれ、『学(學)問』というのは中国由来ですけども、欧米ではあれですよね、その『スクール(school)』、『スカラー(scholar)』まぁいろいろありますけども、こういうニュアンスの言葉(※本来的な意味における「學問」)というのは無いですよね。

ドイツ語のあれですよね、『ヴィッセンシャフトwissenschaft)』がそれに近いかな?Wissenschaftは、『知識全般についていろいろ考える』とかいう感じだけど。日本語の言うような狭い意味じゃないんですけどね。それが『學問(≒Wissenschaft)』かなぁ・・・。

[*Wissenschaft『學問』知識全般について考える]

スカラー(scholar)というのはなんてったって『学者』って意味ですけども・・・

柴山桂太
もともと『暇(ヒマ)』って意味ですよね。

[*scholar「学者」 『暇な人』という意味]

小林麻子
はぁ。

柴山桂太
学校の先生というのは『暇な人』という、もともとの意味は。暇だから考える。

小林麻子
へぇ〜、そうなんですかぁ。

柴山桂太
まぁ、最近はだんだんそうじゃなくなって、社会情勢であんまり暇してられなくなってきましたけども、もともとはそうですね。

小林麻子
へぇ〜。

たとえば、【坪内逍遙(逍遥)】という小説家がいたでしょう?

「逍遥」というのは「散歩する」という意味で、あれはアリストテレスからきたのよね。

[*逍遥する=散歩する アリストテレスからきた]

柴山桂太
あぁ〜。

アカデメイアの森(※古代ギリシャアテナイにあった聖林)をみんなで散歩・散策しながら、『真理とは何だろうか』と言って。あの場合は『逍遥する=散歩する』というね。

小林麻子
はい。

僕がアメリカ行ったときに、すぐに腹が立ったのは、アメリカ人はいっつも・・・

「What's your speciality?」

speciality(スペシャリティ=専門)って書くのだけども、「あなたの専門は何ですか?」ってのはね、学者同士の最初会った時の挨拶なんですよ。

小林麻子
はぁ。

それで、自分は「エコノミストです」とかさぁ、なんか言うんだよね。僕はね、毎回、判で押したいように『専門を無くすのが、僕の専門です』って言うと、アメリカ人嫌がってどっか行っちゃうのね。

小林麻子
はぁ。

ハッハハハハ(笑)

でも、いま日本でもそうですよね?

そうですねぇ。

本当にどこ行っても・・・たぶん、佐伯も何度も経験あると思う。「先生の専門はなんなんですか?」って、たぶん100回は聞かれてるよ、人生で。

【ダニエル・ベル】ってね、アメリカの社会学者がいましたけども、もう死んでしまったのかな、彼?(※2011年1月に没)彼が日本に来て喋っていた時に、そんなことを言ってましたねぇ。

「俺のスペシャリティは何だ?と聞かれるといちばん困るんだ。だから、俺のスペシャリティは、Generalizing Speciality(ジェネラライジング・スペシャリティ)だ」と。

うん、まぁそうだね、そうだ(笑)

『専門を一般化することが俺の専門だ』と言ったことがあるんですね。

[*Generalizing Speciality 専門を一般化する ダニエル・ベル(社会学者)]

「Special(スペシャル)」というのは「特殊」でしょう?その反対語が「General(ジェネラル)」「一般」ね。

だから、「specialist(スペシャリスト)」の反対が 「generalist(ジェネラリスト)」ですよね。

[*specialist の反対が generalist]

この三人ね、日本では珍しい、まぁ〜三人だけではないのだけど、まぁ言ってみれば『ジェネラリスト』なんですよね。

ところでさ、麻子さん。

小林麻子
はい。

昔ね、Special(スペシャル)のこの「Spec(スペック)」ね。これ調べたことがあるの。ラテン語から来ているのですけど、Specというのは要するにね、英語で言うと「Look at」「見る」という意味らしいね。

柴山桂太
あぁ。

この場合の「Look」って非常に物理的にね、上から見るか、後ろから見るか、下から見るかね、あるいはX線で透視したら骨が見えたとか、いろんな見方があるわけでしょう?

でもね、このSpecialのSpecというのは、非常に簡単な意味ね。「ふと見たら、髪の毛が長いな」というね、そういうことなんですよね。

だから、Specという意味自体がね、『物事を非常に限定して見る』というね。

[*spec「見る」 語源はラテン語

柴山桂太
しかもその、専門家というのはキリが無いですよね。たとえば、私が馴染みのある経済学で、自分のことを経済学者と言わずに、「国際経済学者」「医療経済学者」・・・

あぁ。

柴山桂太
国際経済学でも「国際貿易論」「国際金融論」と、どんどんどんどん狭くなっていって、その間でも『断裂』ができてしまうという、もうキリが無い状況ですよね。

そのうちね、結婚・離婚の経済学者ってね・・・

小林麻子
えぇ〜!?

本当なのよ、いたのよ。ノーベル賞まで貰っちゃってるけどね(笑)

[*西部邁が経済学にグッドバイ!した頃のシカゴ学派の経済学者 ゲーリー・ベッカー]

柴山桂太
(うんうん。笑)

小林麻子
へぇ〜。

だから専門・・・「あなたの専門は何ですか?」って聞くこと自体がね、おかしいよね。

スカラー、スクールってのは「暇」って意味だっていったけどね、日本人はあれでしょう?アメリカ人と同じで大好きなことが「ビジネス」ですよね。

「Business(ビジネス)」ってみな言うけどもさ、あれ形容詞で言うと「Busy=忙しい」という意味ですよ。それを名詞化「~ness」を付けてBusinessだから、日本語に訳すと『多忙』という意味ですよね。ちょっと芸が無いのよ。

「僕は“多忙人間”です」と言うこと自体ね、子供っぽいでしょう?

小林麻子
はい。

昔の人はね、貫禄あるは人よ、結構忙しくても、「いやぁ〜暇でね。人生退屈ですな」みたいなことをちょこっと言えてやっと大人なんですよね。

いい歳こいてね、もう60、70、80(歳)になって、「ビジネスです!多忙です!多忙です!!」と言っているのはね、ちょっと精神の水準が幼稚だから、ということなんですよね。

柴山桂太
(うんうん。笑)

[*businessはbusyの名詞化 “多忙人間”の幼稚さ]

となると、時々はschool(スクール)、scholar(スカラー)?『暇人もいいもんだなぁ』と思い出してもらいたいけども。

あの、さっきのねぇ、『學問』という言葉で、僕の『學問』という言葉についての最初のイメージ、まぁ、ふと考えることが、たとえば、昔の江戸時代の塾ね・・・【伊藤仁斎】とか・・・

あぁ〜。

それから、【本居宣長】なんかもやっておりましたけども、あぁいう「古典」をものすごくみんなでキチッと読んで、それを一生懸命時間をかけて・・・

あ〜あ。

本居宣長みたいに30年も『古事記』を読むとかね、そういうことをものすごい時間をかけて、それと古典を吸収して、それで何か一つの「教訓」なり「自分の生き方」なりね・・・

そうか。

なんかそういうことをやったのが、『學問』という感じがするんですけどね。だから、『塾』ですよね、今にすると。

『古学』とか『古義学』というとね、言葉のことも入れるとこう『古(辞)学』・・・

[*伊藤仁斎の古学や本居宣長など江戸の塾]

だけどね、昔の人はね、僕はね、自分がやってないから言うわけじゃないけど、古(いにしえ)人の論語でもなんでもいいんですよ、そういうものを、じっくりじっくりじっくり読んでさ、解釈するとね、何もかもわかったように思われるという、そういう古き良き時代があったのよね。

そうでしょうね。本居(宣長)も、伊藤仁斎も、【山崎闇斎】もそうだけど、別に、いわゆる我々が考える意味での熱の冷たい、書斎に閉じこもった学者というわけでもない。

中江藤樹】なんかもね、お母さんの面倒を見るために帰ってきたわけですから(※脱藩して郷里で私塾を開く)、だから、彼が『陽明学』だとか、そういう儒学の一つの系統を勉強することは、そのこと自体が、『彼自身の生き方』に関わるようなもんですよね。

そうだね。

中江藤樹っての『近江聖人』と呼ばれて、愛媛でお侍さんやってて(※伊予大洲藩)、母一人子一人で、お母さんがね、寂しいと、帰って来てくれ、帰って来てくれというので帰って来て、であの塾(※藤樹書院→代表的門下は、熊沢蕃山ら)を開いてね、「学問とは何でしょうか?」と言ったら・・・

『学問とは母親の面倒をみることだ』と言って(笑)まぁ〜それが有名なセリフになったりとかね。

[*「学問とは母親の面倒をみること」中江藤樹

佐伯さんが仰ったね、『古いものを読むこと』、彼(中江藤樹)は陽明学ですからね、【王陽明】(※明代の儒学者、「陽明学」の開祖)の。儒学でありながら、『実践を重んじる学』ですからね。

『母親の面倒をみるという日々の実践』と、まぁ〜解釈だな(笑)

古いものを勉強することが、いまここでの生活にどっかで繋がっているというね、とりあえず、そういう意味でいい時代だったんでしょうけどね。

日本で言えば、どうですか、僕らあまりよく知らないけど、戦前の旧制高校のあたりまでは、そういうところがあったんじゃないですかね。【古典を非常に重視した】んじゃないですかね。

そうでしょうね。

日本の古典も、向こうの古典まで。

そうだね。

そういうもの(古典)を読むことが、別に「訓詁学」でやっているというよりも、いまここで役に立つというように思っているというぐらいの感じが。

僕らの時代から、そういうのなくなったのですけどね、やっぱり僕らよりは10年前までは、学科のあれとしても『原書講読』という時間があって・・・(柴山を見て)今もあるの?

柴山桂太
う〜ん、ほとんどなくなりましたね。

なくなったでしょう?

つまりね、翻訳では読まないと。原書にあたってね、それを学生たちが、ほんとじっくりじっくり一頁ずつ翻訳し、検討して前へ進んでいくという、それが、意味があったのよ。

[*自分で翻訳し解釈する原書講読の意義深さ]

二つのことがあって、一つはね、扱う原書は、今時そのあたりで書き散らかしたものじゃなくて、それは誰でもいいですよ、誰でもいいのだけど、『何か物事をものすごく広く深く考えた原書があるから、それを講読することに意味がある』のが一つと。

[*物事を広く深く考えた原書講読の意義] 

もう一つは、非常に浅い理由なのだけども、まだそういうものが日本に輸入紹介されていない間、そういうものに接することによって、『自分で翻訳し、自分で解釈する』というね。

でももはや、何もかも翻訳され、もう一週間後には翻訳されていますからねぇ。

[*自分で翻訳し解釈する原書講読の意義]

柴山桂太
やっぱり、西欧でも人文学の伝統というのは、『古典を読む』と。古典の教えの中から、大事なものを掴み出してくる。これが学問の正当だというのはその通りだと思うのですが、一方で、特に『社会科学』というか、社会に関わることをやっていると、どうしても状況が・・・特にこれ、20世紀以降でショックでめまぐるしく変わっていって、で『状況』に対して、さっきの『見る』じゃないけども、『どうなっているのか脈絡を押さえる』という作業が必要になってきて、そこでこう『分裂していく』というんですかね・・・『古典の知恵とそれをつなげなきゃならない』というふうになってくると、どうしてもその『状況』をかなり強く意識するという。

それに引きずられ過ぎると今度は逆に、社会科学はすぐに政策、政策と言いたがりますけども、実学というふうに舞い上がってしまうと言いますかね。そこのところのバランスをどういうふうにとるかというのは、いつも考えるのですけどね。

それはだけど、いまそのねぇ、柴山くんが仰ったことと言うのは、物凄い勢いで進行しているというか、もうこの10年単位で『状況』がどんどんどんどん分解すると悪くなっているという気がしますけどもねぇ。

つまり、一方では非常に『実学的』な政策に反映しないと、『いまここで社会の役に立たないと意味がないという風潮』が、社会の中からもでできてくる。

他方では、『ちょっと何か面白ければそれでいく』という、何かそのマスコミに取り上げられて、それで少し話題になって。

もう一つ言えば、『それの反動で、全く何の社会的な意味も恐らくないであろうようなことを一つの学問として権限をもってやる』と。

そうだね。

しかも、この【実学】というね、言葉の意味すらが怪しくなっちゃって。

今ね、実学というと非常に狭い意味なんですよ。これを学んで応用するとね、「どれだけ金が儲かるか」とか、「どれだけ評判が取れるか」みたいなね。

でも、たとえば【福澤諭吉】がね、「実学の祖」と言われることもあると思うのですけど、福澤諭吉が学問を称してなんと言っているかと言うと・・・

『人間交際に役立つもの』

人間交際という言葉を使っていて、これげ言語でというか、彼に対応する英語でなんと言うかといえば、『Society(ソサイエティ)』ね、『社会』ね。

で、社会とは何か?本当に『人間交際』なんです。もっと言うと、【「社交に役立つものが実学だ」】と。

[*「人間交際に役立つものが実学福澤諭吉

さて、人間交際、『付き合い』に役立つものって、人間の付き合いって金だけじゃないでしょう?女性にどれだけ理解してもらえるかとか、家庭がどうとかねぇ、友達を作るとか、いろんなことを含めての「社交」で「社会」でしょう。

そういう広い意味があったのに、今では「金の話」「技術の話」が実学とされてしまうとかさ。一つ一つの言葉がね、もうあれなんですよ・・・狂っちゃってるのね。

小林麻子ってどんな人かなぁ・・・年も違うし、セックス(性別)も違うから。
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(上図の黒板上の歪んだ円状のものを指して)
これね、グニャグニャと書いたのは、「よくわからん」って意味なのね。わかるようでよくわからない、よくわからないの。

小林麻子
うん。

その時にね、もうちょっと厳密にわかろうとするとさ、あなたの経済状態をね、調べたとすると、ここに「経済学」が出てくるわけ、Economicsがね。

でもね、あなたは芝居の役者その他で、主役なのか端役(はやく)なのかはいいとして・・・

小林麻子
端役です(笑)

そうするとね、そういう芝居小屋の中でのある種の政治的ポジションね。

小林麻子
うん。

そうか、監督がやっているのかと。これは「政治学」。Political Scienceね。

それからね、いま芝居が落ち目の三度笠なのかどうか知らないけれど・・・

小林麻子
(困った表情で)ふふふ・・・落ち目の・・・はい(笑)

そしたら、Sociology、社会のね、「社会学」も必要でしょう。

それからね、いろんなあれがあるんですよ、チェーホフがどうのこうのとなってくると「文化学」ね。Cultural Study。

たとえば、小林麻子さんという一人の女性をなんとか把握しようとするとさ・・・

小林麻子
(う〜〜ん・・・)はい。

学問的に言えばさ、経済学、政治学、社会学、文化学の四種類でなんとか『近似する』というね。

もうちょっと枝分かれしたら、さきほど言った、国際経済学だとか、いろんなの枝分かれして、でもね、そのうちの一つやったってさ・・・「麻子さんは、経済学的なことだけやって、どうも貧乏人のようだ」と。

小林麻子
ハハハハハ(苦笑)

それでおしまいとされたら、あなた怒るでしょう?(笑)

小林麻子
はぁ、えぇ・・・いや、怒りはしませんけど。。。(苦笑)

怒らない?(笑)

フッフッフッフ(笑)

いや、『専門主義』ってそういうところあるんですよね。

そうですねぇ。

僕は何もね、全部やれって言ってるんじゃないんだけど、常識としてね、何かの対象を見るときにさ、物事を何か多面的にね、そうしないと、例の諺で言うと、群盲象を撫でる。

[*物事を多面的にみなければ群盲象を撫でる(群盲撫象、若しくは群盲評象=群盲象を評す)]

経済学の話で言うと、実際ね、かなり大きな弊害をもたらしている気もするんです。

[*経済学上の専門主義がもたらす弊害]

というのは、たとえば、この15年ぐらい『構造改革構造改革』というように言われて、規制緩和みたいな話がありましたけども、たとえば、「金融経済学者」にね、「金融市場はどうすれば効率化できますか?」というふうに聞くと、「それは自由化しなさい!」と。銀行とか証券とか垣根を取っ払ってしまって、お金が自由に流れるように自由化しなさいと。

で、(自由化を)やりますよね?やると、金融市場は確かに効率化するけども、その産業に回るハズのお金が全て金融市場に流れてしまうから、経済全体としては産業の金が足りなくなってしまう。そうするとそこで雇用は増えないから、『経済全体は悪くなってしまう』んですよね。

で、今度は「労働経済学者」に聞いて、「労働市場をうまくやるにはどうしたらいいですか?」と。そしたら、労働経済学者は、「労働市場を活性化するためには、労働者の流動性を高めましょう」とこういうふうに言う。

それは高まった。高まったけど、労働者はいつクビを切られるかわからないから、あんまり物を買いませんから、『経済全体がまたおかしくなる』んですよ。

そうね。

だから、一つ一つの専門家は、専門の領域では、一つのことを言っているのだけど、『全体像が見えてない』から、全体像の中でそれを言わないと意味がない。

象、Elephant。

小林麻子
はい。

全体像の『像』は、それ(象)に「にんべん」が付くんでイメージになるんですけど、やっぱり、Elephant、象なる「ゾウ」は、ナニモノであるかというとイメージとしてね、長い鼻と、太い足と、巨大な胴体と、短い尻尾ってね、お耳も大きいか。

小林麻子
うん(笑)

それぐらいのトータル・イメージをもってないと、尻尾だけ触って、「象はこんなもんです」なんて言ったってしょうがない(※群盲象を撫でる)って、いろんなことそんなことは昔の人はわかってたことでしょう。

ハッハッハッハ(笑)

小林麻子
はぁ。

「群盲」というのは、これは差別語になるんだけど、盲というのは盲人、目暗って意味ですよね。群ってのは群れね。群れをなす盲人たちが、象に触って、象は尻尾みたいだとか、太い幹みたいだとか、ふにゃふにゃした長い鼻みたいだとか、そういうのを『群盲象を表する』と言う。『今の専門主義が極端にズバリ。本当にそこに行っちゃってる』のね。

[*群盲象を評す(群盲評象) 象の一部だけを触り語る]

小林麻子
はい。

柴山桂太
さっきの人間交際、『実学とは人間交際に役立つものだ(福澤諭吉)』って、確かにその通りで、まぁ『人間交際』というのは、つまり『会話』ですよね? 専門家の会話というのは、正直、あまり面白くないというか(笑)、まぁつまん(「ない」と言いかけて)・・・特定のことだけ。

たとえば、今の政治や経済について会話するといろんなことが出てくるはずで、福澤(諭吉)の言うように、『全てはたのしい会話のためにあるんだ』というふうに考えると、まぁ、専門主義というふうに言っていられなくなる。

『学問のすゝめ』という本よ、ね?普通、学問のすゝめというと、なんかこう結構、専門的に書いてあると思うよね。

何が書いてあるか、だいぶ読み進むとね、『日本人は問題だ』と。【怨望】(えんぼう)と言うのですけどもね、怨望とは簡単に言うと「嫉妬」に近いものですね。『日本人は非常に妬み嫉みね、そういう気持ちが強すぎる』と。

それでついに怨望が多いからね、言葉の路(みち)・・・【言路】(げんろ)をね、日本人は塞ぐ、塞いでしまうというね。

[*「怨望」日本人は妬み嫉みが強すぎる]

日本人は簡単に言うと、嫉妬心が強すぎるもんだから、自分の言葉を自由闊達に喋らないと。『これが日本人の最悪のところだ!』ってのが、書いてあるのが『学問のすゝめ』(福澤諭吉)ってやつなんでさ(笑)

[*日本人は嫉妬心が強く 自由闊達に喋らない]

ところが僕が見る限りね、東大教授、京都大学もそうだとそうだと・・・(佐伯を見て)ごめんなさいね、よく分かんないんだけどさ、あらゆる大学人、おそらく新聞社もそうじゃないの?TV会社もそうでしょう。み〜んなしてね、人の業績とか地位について、怨望を抱きね、それが言路、言葉の路を塞いでしまうということがあるのね。

[*他人の業績や地位に怨望を抱き言路を塞ぐ]

だからね、それ考えたら、専門なんか全部やめちゃってね、もうちょっと百何十年前に戻ってさ、たいしてさ、どうでもいいんだから、なんとなく全体のことについてね、みんながこう自由闊達に喋っていた方がね、単に面白いのみならず、多分、それが役に立つんじゃないの?国家のためにもね。

[*全体について自由闊達に喋る方が国家にも役立つ]

ハッハッハッハ(笑)

学者はね、一つのね、典型的な表れだけど、ある意味で、『現代人というのはみんな何かの専門家になっているわけ』でしょう?サラリーマンだってね、商社マンはね、アジアにしょっちゅう出掛ける人は、インドネシアの専門家になってたりするわけで(笑)

小林麻子
はぁ。

まぁその彼は得てきた経験話はもうちょっとトータルな面がありますから、まぁ多少面白い話もあるけども、結局は、自分の商売でやってきた話しかやっぱりしないんですよね。

政治家もちょっと言ったら悪いけど、大半の人がね・・・。

ほとんどそうなってるねぇ・・・

えぇ。だから、これはちょっと、現代社会の宿痾のような大変な問題だと思いますけどもね。

[*サラリーマンまでが専門家に 現代社会の宿痾]

恐ろしく退屈な世の中を自分らで作りながら、BusyだBusyだ、忙しい忙しいと言っているわけ。

小林麻子
アハハ、そうですね(笑)

(西部)先生がね、『虚無の構造』という本で書かれていたけど、現代人というのはね、そういう大きな価値みたいなものを見失ってしまったから、本質的にものすごく【退屈】しているんですよね、みんな。本当に面白いものがないから、退屈だから、みんなBusyになって、多忙にしてしまっているんですよね。

そうそう。そうだね。

小林麻子
あぁ〜そうですねぇ。

[*現代人は大きな価値を見失い退屈している

『虚無の構造』西部邁著 中公文庫
http://www.amazon.co.jp/虚無の構造-中公文庫-西部-邁/dp/4122058309 ]

柴山桂太
何か、実存思想の方で『お喋り』と『会話』というのを分けていて・・・

ほぉ。

柴山桂太
『お喋り』というのは、日本語では【空談】と表しますよね。その意味ってのは、自分とか真剣味が全くないようなものが『お喋り』で、真剣なものを『会話』とか『対話』とか『会話』とか言って区別している人がいますけども。

まぁそういう意味で言うと、あらゆるものは情報機器で刺激されたその情報をひたすらお喋りしているという、それが現代社会の問題なのかもしれませんね。大学もそうなっちゃいました。

[*情報機器で刺激され お喋りしている現代社会]

既に、1840年ですよね、【セーレン・キルケゴール】がね、コペンハーゲンですよ、コペンハーゲンなんてあの当時、人口どれくらいなるのか?せいぜい4、5万(人)じゃないかね。

しょっちゅうパーティが行われるでしょう?それを(キルケゴールは)からかってるのね。みんながパーティ開いて祝宴で派手に乾杯しているけども、あれはね、相手を賞賛していると。貴方のやったことはつまらないけども、今は賞賛して乾杯とやってると、今度、自分がやるつまらないことについて貴方も乾杯をして賞賛をしてちょうだいよというね。そういう約束をするためにやっていると。

ハッハッハッハ(笑)

小林麻子
は〜あ。

もうね、それが1840年コペンハーゲンですらそうだったんだから、いま東京なんてニューヨークもそうでしょうけどね、至るところでそうなっている。

「俺もくだらないけど、お前もくだらないよな。でもお互いに祝杯をあげようよな?」というね、そういうことでしょう。大学もそうでしょう?

そうですねぇ。

ということでね、なかなかふざけているように(小林は)聞いているかもしれないけれど、違うのよ?

小林麻子
いえいえいえ、はい(笑)

我々は真面目にふざけているのよ。

小林麻子
あ、そうですか(笑)

なかなかね、上手くふざけるというのは、なかなか難しい。僕の課題はね、いかに上手くふざけるか、フフフ(笑)

小林麻子
(笑)

まぁ〜そういうことなんだよね。真剣な冗談という言い方があってね。

そううん。

真剣な冗談として『学問論』をこれからやりましょうということで、第二週目。

次の週は、もうちょっとねぇ・・・真面目に考えて。真面目ったって、真剣な真剣さとして、『日本の国家をいかにせん』と。どこまで真面目に喋れるか(笑)え〜わかりませんけども。

ありがとうございました。

【次週】現代において『思想』は可能か ~思想と国家~
佐伯啓思×柴山桂太×西部邁