◼︎「教育は可能か」評論家 小浜逸郎(西部邁ゼミナール)

◼︎「教育は可能か」評論家 小浜逸郎西部邁ゼミナール)

評論家:小浜逸郎 国士舘大学客員教授 著書『なぜ人を殺してはいけないのか』~あなたはこの問いに答えられますか?~(PHP文庫)、『新訳・歎異抄』(PHP文庫)、『日本の七大思想家』(幻冬舎)他

【ニコ動】
西部邁ゼミナール]教育は可能か②2014.12.21


小林麻子
小浜逸郎先生はこちらの『なぜ人を殺してはいけないのか』を上梓されていて、こちらの本は最近、文庫本として出版されています。

今回は、「グローバル人材の養成」という教育課題が果たして妥当かどうかということをめぐって論議が行われると存じます。

長きにわたって教育に、しかも学校以外の場所での教育に携わってきた小浜先生から、有益な話が伺われると思います。

それでは先生方、宜しくお願い致します。

教育で、これぼく何年か前に言ったことの繰り返しで、ほんに恥ずかしいんですけど、教育の「教」(の漢字)の(部首の)「へん」ね。親孝行の「孝」(※「教」の字の左側⇒「孝」)で、これは「子供が親に従う」、あるいは「〜従わせる」というね、そういう『従う(=孝)』という意味なんですね。

こちらの「つくり」(※「教」の字の右側⇒「攵」)は、鞭を交差しているでしょう?『鞭打つ(=攵)』という意味なのね。

つまり(※教育の「教」とは)『従うように鞭打つ』、つまり『強制する』というのが『教』なの。

[※教育の『教』は 従うように鞭打つの意味]

ところがね、(教育の)「育」というのは、女性がね・・・これは下品な言葉かなぁ・・・『股から子供を産む』というね、そういう象形。そっから来ているんですね。

子供は産まれるべくして産まれるんですよ。「育」という言葉にはね、古代ギリシャからあるんですけども、学校の先生の出来ることは、その子供が、何か良いものを生み出すように「産婆役」をね、『手助け役をやることができるだけ(=先生)』だ。と。

[※教育の『育』は 良いものを生み出す意味]

そういうことだから、こっち(「育」)は『自発性』ね。こっちのほう(「教」)は『強制性』という、なかごろ、矛盾を孕んでいることなの。

[※「教」・・・強制性 「育」・・・自発性]

小浜先生は、そのあたりのことをよくよく分かった上で、教育論を展開されている、という紹介で悪いでしょうか?(笑)

いえいえ。大変結構です(笑)

あの、教育の世界でよく言われるのは、「自由と強制のバランスをどう取るか」という話なんですね。

なるほどね。

一頃、「なんでも子供の自由を尊重すればいい」という風潮があって、私なんかはそういうのを『お子様教』と言ってたんですけどね。「自由がいいんだ」みたいな。で、「管理教育はけしからん!」みたいな風潮が、これは80年代ぐらいかな・・・結構ありましたけども、私はそれには違和感を覚えまして・・・

あぁ〜そうだ。ちょっとその本を紹介されたら?

これは、97年だったと思います。

『子供は親が教育しろ!』(小浜逸郎 草思社、1997年)

中身は、一種の「お子様教的な自由教育方針」を批判した本で、子供の自由をできるだけ尊重しようとか、個性を伸ばそうというような、先ほどの西部先生の「教・育」の「育」の方ですね。そちらの方ばかりに偏っているから、『バランスが悪い』んじゃないのか?ということを批判した本です。

実は、今日のテーマになると思いますけども、「子供をできるだけ自由にしなさい」「のびのびと個性を伸ばしなさい」という理念のもとに『ゆとり教育』というのが生まれてきた。

先週は寺脇さん(寺脇研文科省官僚時代「ゆとり教育」の旗振り役)が出てて(笑)

ハッハッハ(笑)

そもそも『ゆとり教育』って、どうしてはじまったのかということを考えなくてはいけないんで、あのつまり、子供が「偏差値教育」とか、それから「受験教育」とか「詰め込み教育」とか、そういうもので大変苦しんでいる“に違いない”と。そこから子供を解放してやらなければならないんだという理念で、あれ(ゆとり教育)はじまったんですね。

ところが、90年代の末から2000年ぐらいからはじまっているんですけど、その頃の子供の現状というのは、特に「公立学校に通っている子供の現状」というのは、そんなに過激な競争というのはすでになくなっていて、高等学校もだいたい誰でも入れる、無理しなければ誰でも入れるという状況でしたから、そもそも、詰め込み教育とか、受験競争で子供が苦しんでいるとか、そういう状況じゃあなかった。

あ〜あ、そうか。

ですから、(「ゆとり教育」推進者や賛同者たちの)『認識が間違っている』んですね、そもそもはじめから。

80年代というのは「構内暴力」というのが吹き荒れたりですね、あるいは「学級崩壊」があったりして、それは言ってみると、そういう「圧力」に対して、「上からの圧力に対する子供の反抗だ」みたいな捉えられ方をしたんですけども、あの私は違った認識をもっていて、なんでそういうことになったかと言えば、『近代教育』 というものがほぼ「ある種成功した」ってことなんですね。

それで、そのために誰もが高等教育を受けられるようになったような状況がつくりだされた。これはこれで、結構素晴らしいことだと思うんです。そういう目標が達成されると、教育を受けることの『意味』ですね。

あ〜あ。

子供にとってのインセンティブってのがだんだんだんだん壊れていってしまう。

まぁ、日常茶飯の当たり前のことになっちゃったもんだから、刺激がなくなった。わかりやすく言えばね。

無くなった。そういうことですね。

その方が、時代を捉えるのに正しい認識だったと私は思っているんですけども、今だに「その状態」というのは続いているですね。

ですけど、文科省はじめ、ゆとり教育をはじめた人たちは・・・あれはもともと『日教組』から出ているんですよね?

それはそうですけどね。「子供の人権」という観念からはじまるわけね。

人権ね、はい。

それから、先生(=教員)の労働条件を緩やかにしよう、「先生のゆとり」をという(笑)

実は、話を聞いてて思い出した。僕ね、1980年頃ね、小学校高学年の子供連れで外国から帰ってきて、ぼく東京の教育事情を全く知らなかったこともあるんだけど、名前は言いませんが、いわゆる普通の公立小学校・中学校に入れて、僕はなにも反省もしていないんですけども、結果としてはすごくて、中学校では例えば、屋上でシンナーを吸って、シンナーがタバコの火で爆発して死んじゃった子供と・・・勿論、稀なケースですけどもね、そんなようなことが起こっているようなあれで、それも放っておいたんですけどもね、親のことを抜きにして言うと、いやぁ〜相当すごいなぁと、日本の(学校現場は)・・・それは、1980年?

そうですね、80年代前半からえぇ、そうですね。

それから、もう一つ思い出したのは、僕は、詰め込まれたんじゃなくて、なんか、負けじ魂でね、学校の教科ぐらい人に負けたくないってんで「独学」をやるクセが子供の時からあって、まぁそれはいいんですけどもね、この歳になると面白いもので、無理やり自分自身に詰め込んだ、例えばあれだけど、「フランス革命は1789年」とかさ、「ロシア革命は1917年」とかさ、それ自体はどうでもいいことなんだけどもね、そういうことの知識が散らばっているでしょう、これで、60、70、僕はもうすぐ75(歳)ですから、「お前いったい何を覚えているの?」って言ったら、実はそういう中学・高校段階で自分で無理矢理詰め込んだ知識とも言えない「情報」か、それが点在してて、なんとか自分を成り立たせているということに気付くんですよね。

僕も結構、本を読んだんだけどね、なんかこう、小難しい理屈は年をとるのと共に蒸発してしまってね、残るのは、実は子供の時、青年の時に無理矢理詰め込んだものが、いわば『柱として』残っているという、面白いもんだなぁと。

あぁ、自発的に詰め込むのは大変結構だと思うんですけども・・・

へっへっへ(笑)

結局、その「ゆとり教育」が結果が出てきた。そしたら、これはいろいろな面から言えるけども、『学力低下した』わけですよ、はっきり言ってね。

うん、そうね。

これは、OECDの世界の国際的な調査なんかでも、明らかに日本の学力がガクンと落ちたというのが出て(笑)、慌ててこれはマズイということで、さぁ〜今度はそれの反動で、学力を伸ばそう、伸ばそう、という話になったんだけど、『ゆとり教育の持っていた本当の問題」というのは「思想の問題」』であって、ちょっとなんというか、偉そうに言うと、【徳育】と【知育】を分けて、「知育偏重はけしからん。徳の寛容をすべきだ」みたいなことを主張する人がたくさんいるんですね。二元論になっているわけですね。

ですけど、私の考えでは、『基礎的な知識の習得なくして「徳の寛容」というのはあり得ない!』と思っているんですね。ですから、これ(「徳」と「知」)は対立するものではない。

あぁそうだ。

反対も言えますよね。「徳」が広い意味で、道徳というのは「あぁそうか。これをやるべきなのか、やらねばならないのか」ということを納得すると、『気力』が湧くでしょう。そうすると、気力が湧くから「知識」も自ずとつくと言うね。

から学習意欲出てきて。

両方のね。

相互作用がありますね。先生の仰る通りだと思いますね。

(「知」か「徳」かどっちに比重を置くのか?という二元論でもって)こっち側に触れたり、こっちに触れたりするんですよ。で、ゆとり教育が失敗だったという、学力低下を招いたという現象を見て、慌ててこんどはこっち(知)だという話になってて。

今度、この『知育』は何を中心にするかというと、『グローバリズムに対応しなきゃいかん!!』という話になるわけですよねぇ?私はこれもなんかおかしいなと思っていて、特にその「英語だ!英語だ!」と文科省がすごく騒いでて、小学校3年から英語(の授業)をやろうと。

高学年、つまり5・6年から英語を正規の教科にしようと。そういう流れになっているんですね。教科書もつくって。

それから、もっとおかしいのは、中学校の英語授業は英語で全部やろう。

『どうしてそんなにグローバリズムに媚を売って、適応しなければならないのか?』そんな必要ないと思うんですよね。

勿論、英語というのは世界共通語ですから、ある程度は必要だと思いますけども、『必要な人って限られている』んですよね、ビジネスエリートとか。

だけどあの、公教育というのは、全員に共通の教育をやるわけだから、『全員が大人になって、英語を使うような仕事に就くのか?そんなわけはない』んですよね。

『特に、日本の場合は、その「母国語」を使いながら、世界で冠たる「職人国家」と言っているんですけど、素晴らしい技術の国をつくり上げた。』

これは、フィリピンの人なんかから、言うと、「英語が無いと、産業を起こせない」とか「技術を習得できない」とか、東南アジアなんかはだいたいそうなんですが、フィリピンの人なんかから見ると、『母国語でそういうことができるって凄い羨ましいことだ』って言うんですね。

考えてみると、フィリピン、ミャンマーシンガポール・・・

マレーシア?

・・・マレーシア。これ全部『植民地』だった、英米系のね。だから、公用語は英語を使わざるを得ない。自分の国の言葉で出来ないんですよね。

それで思い出すのはね、『エスペラント語』ね。あれは、「Espoir(エスポワール)とか、「希望」という意味なんですけども、あれが人工的につくられて、結局、普及しませんでしたけども、多分、つくった趣旨というのは、特定の国語、この場合は「英語」ね、この英語が国際社会の公用語となると、やはり、『英語圏が世界を支配しはじめる』と。言葉というのは、どこかで「パワー」「力」ですからね、そういう『特定の国語を世界共通語にしてはいけない』というんで、それぞれの国語を守るために、人工語としてのエスペラント語をつくって。

実はあの、ケニアのスワヒリ語もそうらしい(=人工語)ですね。

あぁ〜。

結果として。みんな部族ごとに違った言葉を使っていて、スワヒリ語というのは、実際に誰も日常生活で使っていないんですって。

それで「公用語」としてね、大都会に集まってくると、スワヒリ語で部族同士がなんとか通じ合うというね。

いちばん極端な例を出すと、アメリカの映画を観ていますと、よくね、美しい女性まで「Bullshit!(ブルシット)」なんつってるんですよ。

フフフ(笑)

「Bull」というのは「牛」でしょう?「shit」というのは、汚い言葉で「糞」とか「小便」なんですよ。でも、普通の使われ方で「嘘ばなし」という時に、「アンタの言っていることはウソだよ」といった時に、「Bullshit」(=嘘ばなし、デタラメ)っていうんですよね。

で、それでね・・・

「Fuck!」もありますよ。

「Fuck」もあるよね。あれね、平気で使っている。

「Son of a bitch」とかね。

「Son of a bitch」というのは、あれですからね。

売春婦の息子。

小林麻子
あ〜あ。

そうでしょう?そういうことをね、日常語でもしも使いはじめたらさ、日本でそれを言ったら、本当にあれですよ、「喧嘩沙汰の場面だけ」でしょう?

(それを)女性が使うんですよね・・・

そういうことをね、やっぱり国語というのはね、それぞれに使い方も含めて、ある種の『価値観』が、『規範感覚』が込められているんだという。

『勝手に、人の国の言葉をね、持ってくるんじゃない!』というのが正しいんですよね。

これ必要とするのは、本当にあれなんですよ、ビジネスマンの国際部の人たちとかね、もっと今度は逆に「下層」のね、「とにかく自分の国では食えない」「なんとか簡単な英語を覚えて他の国に移民して、なんとか下層労働やろうとする」ね、そういう人には(英語は)必要かもしれないけども、『普通の国民はその国家に定住するんですからね。』(=だから、必要ない)

そうですよね。ですから例えば、中卒のお寿司屋さんの職人さんが、「絶対おれはロサンゼルス行って、寿司店を開くんだ!!」とか言って、(実際にロスへ)行ったら語学も何もなくって、生活の言葉ですから、別に小学校や中学校で英語を習っていなくたって絶対に話せるようになるんですよ。

それもそう。

やはりね、『国語』ってのはね、どれほど大事か。結論を言っちゃうと、いろんな教科があっていいんですよ、物理も算数もね。でもね、小学校・中学校段階で、『初等教育で重んじなければならないのは、やっぱり「国語」です』よね、まずもって。

それから、『中等教育からはじまるとね、ある種「歴史教育」ね。』

国語ったら『国』でしょう、国は『歴史』を持っているんだ。それを礼賛するか疑うか、どんな歴史だったかということ。

それから、『高等教育か、いろんな科目があっていいんだけど、ど真ん中にはせっかく言った「徳育」ね。』これを守れというんじゃなくて、この国民がどういう『道徳の系譜』をね、もって現在に至っているか、その『徳』についてのいろんなバラエティ、多様な姿ね、それがどう組み合わさっているかという系譜なり、構造を学ぶということが、中心になる。

それは非常に大切なことで、ですから、だけど、小学校・中学校の教科の時間というのは限られていますから、そこへ、こんど「英語」が入り込んでくると、『どこか削らなければならない』わけですよね。だいたい、「まさか国語は削らないだろうなぁ?」と思いますけども。

あと、理科なんか削られやすいんですよ。自然科学の常識というのかな、これがなんか相当にひどい状態になっている。

私、ちょっと大学で教えていて、教えている大学の悪口(=国士舘大学)言っちゃうと申し訳ありませんけども・・・(笑)、本当にあの、常識がないとですね。社会の常識もないですけども。「三権分立を知らない」とかですね、それから「ガリレオの落体の法則」ね。

(小林に向かって)「重いものと軽いものを同じ高さから同時に落としたら、どっちが先に落ちますか?」

小林麻子
えっ?重いものです。

えっへっへっへー(笑)

・・・と、(小林と同じように大学生が)仰るんですよ、ね?

小林麻子
えぇ〜?(恥笑)

でも、これはもう何百年も前にガリレオが「それは違いますよ」ということを発見しているんです。

小林麻子
えぇ?(恥笑)その、バカな学生の一人・・・orz

(ガリレオはその実験を)やってみると、(落ちるのは)同じなんですね。

小林麻子
あっ・・・(手を合わせながら)すいません。。。

空気の抵抗を考えなければ。

抵抗がね。

小林麻子
す、すいません・・・orz

花はヒラヒラ落ちるけど、あれはこう・・・

空気があるから。

本当は、小学校や中学校で知っていなければならないんですけども・・・

小林麻子
(頭を押さえながら)すいません、すいません・・・(泣)

おれも一瞬覚えていませんから、耄碌していますんで(笑)

小林麻子
そんなにもう、すいません、すいませ〜ん(泣泣泣)

社会の常識もないし、ちょっとこれじゃいかんなぁ〜って感じがしますねぇ。

小林麻子
そうですねぇ・・・う〜ん・・・ふふふふ(困笑)

そういう時間が削られてしまうと、英語(の授業化)によって。これをどうするんだと。『その根っこには、国語教育がちゃんとしていない』というのがあるんですよね。

そうですよね。

えぇ。

特にね、『国語教育』と繋がると思うんですけど、最近よく新宿あたりの酒場でね、20、30(歳代)の若者たちが、「俺たちの会社のクリエイティビティはさ」って・・・

フフフフフ(笑)

「創造性(creativity)」ね、言っているんですけどね。これはね、【藤原正彦】さんって、数学者ですね、言っていることに僕はすごく励まされたんですけどもね・・・


えぇえぇえぇ。

あの人たちじゃないけども、数学というのはね、純粋論理の世界だと思っているけども、どういうふうにして「数学上の発見」をしていくかというね、このクリエイティビティの問題になってくると、各国の国民のね、自分自身が日本列島で育って国語を使って生きていて、果てはね、この日本列島の例えばだけど、「虫の声」とかね、「風の音」とか「光の強さ弱さ」とか、そういう非常に『感覚的なもの』のね、英語で言う必要もないけども、Sensibility(センシビリティ)=感受性っていう、『その「感受性の違い」が、数学的な論理の発見とかなんかに繋がってくる』んだってね。そういうものを捕まえるものとして、実は『国語』があるわけですよね。

これ、俳句でも和歌でも物語でもいいんですけどもね、日常会話でもいいんだけども、やはり数学にすら、そういう感受性っての?そういうものが繋がっているということを考えたら、本当にね、感受性と離れたところで、えぇ? How are you? とかさ、I'm fine thank you,and you? とかさ、五月蝿いね。

一同
(爆笑)

そんなことはね、「喋れる」って、喋ったって構わないけども、そんなことは恐らくあれなのね、必要があったら、(小浜が)先ほど言ったように、寿司屋の職人がロサンゼルスで自然に覚えるだけのことでね。

えぇ。私は国語教育の重要点というのは、一つは、読み書きの基礎学力だと思うんですけど、それ以外に、やっぱり『情操教育』という面がすごく強くて・・・

あぁ〜そうですよね。

でも、『情操教育』とは何だろうなぁ〜と思ったら、自分一人で独善的に生きているんじゃなくて、この世の中は人と一緒に生きているのだから、『人の心をよく知る』ってことだと思うんです。

つまり、『他者を知ることによって、自分をよく知るって、そういう意味合いが国語の情操教育にはある』って気がしますね。

もう一つ、これは「戦後教育の欠陥」だと思いますけども、『表現力を養う』、要するに『言葉の表現力』ですね。

「作文教育」というのは、戦前の方がよく行われていたと思うのですけども、戦後もやってはいるのだけど、あんまり、いい部分・悪い部分をキチンと評価できる優れた先生がそんなにいないって感じがします。

今は、殊に「IT社会」になってですね、「情報が氾濫している世界」になっていて、そして誰でも思ったこと・考えたことを発信できる、これはすごくイイことなんだって言われているじゃないですか? でもそういう面もあるけども、必ずしもそうじゃなくって、日本語を存分にうまく書けないような人が、結構、日本語を書いたりしているわけです、日本語じゃないような言葉をね(笑)

そういうのがたくさんあるんで、ものを考えるというのは、まず言葉と無縁に考えて、それを言葉という道具を使ってですね、ツールにして表現するというふうな見方が流行っていますけども、【私はこれは基本的に間違いだと思う】んです。

僕も賛成する!

ツールじゃない】んですね、言葉ってのはね。

それは何か、考えを頭で練ってみればわかるし、もっと分かるのは、実際に書いてみれば分かるわけ、喋ってみれば分かるわけで、『喋ったり、書いたりしながら、思考というのはイキイキと動いてくる』んですよね。そうしないと、本当のいい思考というのは実現しない。

だから、『考える力を養うということのためには、文章をちゃんと書く。日本語をちゃんと書くってことが非常に重要』になると思います。

19世紀の末にね、アメリカで【ウィリアム・ジェームズ】という、まぁ心理学者ですね。

[※ウィリアム・ジェームズ wiki http://t.co/3l1I7b55e9

ジェームズ。はい。

彼が面白いことを言っててね、悲しいから・・・感情(のこと)ね。

『悲しいから泣くのではない。泣くから悲しいのだ。』

この言葉の意味はね、「悲しい」というのは「感情」でしょう?でも、「泣く」というのは、皆が共通理解している「大きなお目目から水分が流れ出る」というね、「あっあなたが泣いている。なんか、僕も知らないけど泣いている。つまり悲しいんだ。」ってね、言葉と感情のどっちかというのではなく、【言葉と感情が分かち難く結びついている】ってね。

「泣く」という言葉を知ってて、言葉の意味を知っているから、なんか、「泣いている者」を見たら、「感情がなんか悲しいんだ」というね。

まぁ、(ウィリアム)ジェームズは結構、パラドックスから言った部分はあるけども、本当は【両方】なんですよね?

両方でしょうね。

悲しいから泣くんだし、泣くから悲しいんですよ。

やっぱり、身体で状況を受け止めて、思わず泣く。それは、悲しいというふうに言葉で表現されることだと思うんですけどね。

この「情操」という漢字の『情』、「感情」の『情』でもいいんですけどね、「情」って(部首が)「りっしんべん」で、この「りっしんべん」とは『心』でしょう?で、こっち(「情」の右側)がなぜ「青」かというと、「青」は「フレッシュ」という意味なんですよ。つまり「イキイキとしている」「若々しい」「フレッシュだ」という意味で。

やはりね、『国語』でないと、イキイキとした感情というのは捉えられないし、表現もできないんですよ。

英語覚えてもいいんですけどね、僕は少し覚えているけども、人工的に人為的に頭に取り入れた言葉というのは、なかなか(「情」の字を指して)「心の若々しさ」「イキイキとした姿」というものを捉えられないし、表現も難しいというね。【国語がいちばん「情」というものを、そして「情」がいちばん論理を生み出す基盤となる】というそんな感じなんだね。

先生が先ほど『歴史』ってことを仰ったと思うんですけども、まぁ、歴史教育は如何にあるべきかって私はあまり考えたことはないんですけども(笑)『問題意識を持たせるというのは大事』だと思うんですね。

通説が間違っていた、まぁ『歴史というのは「捏造の歴史」だともっとも言える』わけですよね。

(項垂れながら)最近つくづく思う・・・(笑)

ハハハ、そうですよね、最近いろいろありましたし(笑)

だから、そういう「通説」に対して、「疑問」を抱く。そのためには、やはり歴史教育ってあるんじゃないかなぁ。

「史実の羅列」というか、それはもう年表を見ればわかるわけで。

そうですよね。

例えば、ある事件があった時に、そのやっぱり時代背景とか社会背景とかは何かを考えさせるということは、本当に大事なだと思うんです。

これ「歴史」というのは麻子さん・・・

Historyですよね。物語。

そう、この(歴史の)「史」というのは、あれですからね、「文(ふみ)」ですからね。「文」をこれ、「歴」というのは「歴然」というけど「あらわす」という意味ね。

「あらわされた文」「あらわされた物語」という、それはやはり『言葉』でしょう?だから、『歴史というのは、自分たちの「共有する」過去の出来事にどういう物語を与えるか』というね。これは、あんまり人工的物語だとすぐ壊れますし、ですから、みんなが長い間、納得し合う、理解し合えるね、そういう文、歴史をどういう物語であらわすかという。

そうですね。

言わば、『物語をつくるということ』ですよね。ですから、人気のある歴史の先生ってどういうのかというと、例えば、それが源平の話でも、戦国時代でもなんでもいいですけども、その時の物語のとこへ子供たちを連れていっている。

だから、それは『歴史教育』の場合、いい教材も必要かもしれないけども、それよりは、『物語を上手く語れる先生』を養うと。

小林麻子
あ〜あ!いいですねぇ。そういう先生に会ったことないですぅ。

あぁ、ないですか?

(小浜を指して)ここにいるじゃないか。

いやいやいや、私は歴史はダメです(笑)

ということでですね、あっという間に時間が。本当に先生どうもありがとうございました。

ありがとうございました。


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【新年1月11日】西部邁ゼミナール長による特別講義