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◼︎西部邁ゼミナール 2014年年末特番 ~メディアクラシーの落日~副題:ニッポンはまだ在るのか(藤井聡×佐藤健志×西部邁)

◼︎西部邁ゼミナール 2014年年末特番 ~メディアクラシーの落日~副題:ニッポンはまだ在るのか(藤井聡×佐藤健志×西部邁

京都大学大学院教授:藤井聡
評論家:佐藤健志

【ニコ動】
2014年12月29日 20:02投稿
西部邁ゼミナール)メディアクラシーの落日【前半】2014.12.29


西部邁ゼミナール)メディアクラシーの落日【後半】2014.12.29

小林麻子
京都大学大学院教授の藤井聡さん、文明評論家の佐藤健志さんを招いて、年末特別番組を1時間に及んで催したく存じます。

テーマは、『日本はまだ在るのか』ということにしました(笑)

一同
(笑)

小林麻子
些か大げさ、もしくは軽率な題名と思われる方もいるかもしれませんが、衆院総選挙が行われたにもかかわらず、日本国家の進路が、グローバリズムナショナリズムの間で一向に定まらずとなれば、戦後から70年経った我が国が「目標喪失」「方向喪失」に陥ったことは、どうやら確かなようです。

そこで皆さんで『日本を取り戻す最後の手立て』を講じていただこうというわけです。

それでは先生方、どうぞ宜しくお願い致します。

麻子さんね、二人とも僕の言わば勝手に言えば、若き友人たちなんで・・・

小林麻子
はい。

年末ということもあって、それに何の意味があるかわからないけども、ちょっと帽子を被りたくなって(笑)

一同
(笑)

それはともかく、実は今日、皮のジャケット着てきたんです。

これは今日の(テーマの)『medeia-cracy:メディアの支配』ということとちょっと関係ありましてね。

これは実はもう時効だから言っていいと思うのだけど、中曽根康弘さんという元首相がおられて、メディアから『リクルート事件』というのがあって、大バッシングを受けて、本当に大火事。中曽根邸にすれば。

[※1989年にリクルート事件の責任を取る形で、藤波孝生官房長官と共に中曽根は自民党を離党、竹下内閣は総辞職]

その時に、僕ちょうど評論家になったばかりでね、肝試しもあって、新聞テレビをみたら、メディアが100%近くおかしいんでね、肝試しも兼ねて、中曽根先生の群馬3区に「断固として応援!」に行って、『マスメディアが全ておかしい!!』という単純な演説をしまくってて・・・

フッフッフッフ〜(笑)

その時にね「御礼」と称して、ここで時効が関係していると思うのだけど、商品券を頂戴したんですよ。

小林麻子
へぇ〜

金額はね、25万円でしたかね、妙に覚えているもんですね、そういうことは。

はっはっはー(笑)

ところがね、本当に偶然なんですが、僕が「皮のジャケットが欲しい」と言ったら、もう亡くなっているんですがカミさんが、「そんな金が我が家にあるわけないでしょう」といった直後に商品券が。

小林麻子
へぇ〜(笑)

ウチのカミさんはその頃、政治家という存在を怖れていて、僕も怖れていたんですけど、やっぱりね・・・すぐ使わないといけない!

小林麻子
はぁ。

というので(西部が着ているジャケットを指して)これ。カミさん勝手に変えてきたの。

ところが僕は正直者ですから、新宿の酒場で「この皮のジャケットは中曽根の商品券で買ったものだ」と言ったら、もう一週間後にはね、『西部は中曽根の金で生きている!』という・・・

一同
(苦笑)

ほんとなのよ?

もう、25万円で生きていけるという(笑)

そうね(笑)なんか冗談からはじめて悪いんだけど、メディアってのはすごいなぁ、ひどいなぁとね。

小林麻子
ひどいです。

評論家早々(それが)分かった、記念すべきジャケット。

一同
(笑)

僕はちょっとね、カミさんの看病なんてしてて、よく読んでなかったんだけど、「朝日新聞」というものがあって、それが、福島原発の吉田証言(吉田調書)、奇しくも同じ『吉田』なんだけども、従軍慰安婦の強制連行証言の吉田証言(吉田清治)、その二つにおいて、『誤報』もしくは『虚報』を重ね続けていたと。

小林麻子
はい。

ということについて、麻子さんは女性代表として、いかがお考えか?

小林麻子
え〜へへへ(笑)いや、間違っているって分かっていながらも、立場を守らなければいけないというのが、なんか、人間関係にもそういう人がいるなぁと思います、はい。

そうね。僕はバカ正直に、ごめんなさい、だから、こんなこと(中曽根からの商品券でジャケットを買った話)を言っちゃったのね。

佐藤健志先生、今の麻子さんの人間哲学についていかがお考えですか?(笑)

小林麻子
いやぁ〜恥ずかしい。

まぁ、やっぱりメディアですから、それはまぁ「情報産業」なので、あんまり支離滅裂なことを露骨に言い続けるとそれは信用はなくなると。

そうか。

となると、虚偽であれ、何であれ、とりあえず、首尾一貫性というものを持ち続けなければいけないと、そういう『強迫観念』というのは当然皆さんお持ちになるでしょうね。

小林麻子
あぁ〜。

虚報の温床になると。

嘘は嘘で首尾一貫性がなければならないということでしょう。

それと先ほど麻子さんが「人間関係でもある話ですね」と仰いましたけども、まさにこの『メディアクラシーの問題』ってそうだと思うんですけども、たぶん、構造としては、冒頭で申し上げると、『人間関係のとある側面というものが、メディアがあることで、より加速していって、より過激化していっているという構造』ではないかと。『嘘が固まっていく構造が加速している』んじゃないかと。

あの、先ほどのこの「25万円のジャケット」のお話でも(笑)・・・どうやら、「西部先生は25万円で生きていける」という・・・

一同
(爆笑)

・・・ことがない限り(笑)、メディアが当時言われてたその話は「嘘話」であるということですけども。

いや、メディアの場合、その25万円の後にゼロが一つ二つ三つぐらい・・・(笑)

勝手につけていると(笑)

でこれ、その話もお聞きしながらこういうことがあったなぁと思ったのですけども、【吉田兼好】の『徒然草』、メディアもまだ何にもない頃、当時のメディアはなにかあったのかもしれないですけども、吉田兼好はこんなことを言ってまして。

「世に語り傳ふる事、まことはあいなきにや、多くは皆虚言なり。」

「言ひたきまゝに語りなして、筆にも書き止めぬれば、やがて定まりぬ。」

[※徒然草の第73段:
「世に語り伝ふる事、まことはあいなきにや、多くは皆虚言なり。
あるにも過ぎて人は物を言ひなすに、まして、年月過ぎ、境も隔りぬれば、言ひたきまゝに語りなして、筆にも書き止めぬれば、やがて定まりぬ。道々の物の上手のいみじき事など、かたくななる人の、その道知らぬは、そゞろに、神の如くに言へども、道知れる人は、さらに、信も起さず。音に聞くと見る時とは、何事も変るものなり。」

(口語訳)「この世の中に語り伝えられている事は、真実そのままに語ってもつまらないからだろうか、多くの話は嘘八百である。
人は事実よりも大げさに物事を言う傾向がある上に、ましてや、年月を経て、遠く離れた場所の出来事であれば、言いたい放題に語られる。書物などに記録されてしまえば、もはや嘘は真実に書き換えられてしまう。巨匠の伝説は、愚かな人間が、ろくに知らないくせに神のように崇め奉るので、たちが悪い。しかし、その道の達人だったら、そんな架空伝説は信用しない。やはり 百聞は一見にしかず なのである。」

いやぁ〜 恐ろしい話だね(笑)

最後の「筆にも書き止めぬれば、やがて定まりぬ」というのは、筆に書くというので、ある種の『嘘が本物化してしまう』という構造。

で、吉田兼好の時代ですら・・・

途中で悪いけど、ほんとそう。司馬遷から始まったんでしょうけど、歴史の『史』なんてのは、これはもともと『ふみ(史)』という意味ですからね。書き留めると歴史になっちゃうという。中国の場合ね。

英語は『History』だから、単に『物語』だから、喋り言葉も入るんだろうけど。

不可解な言葉がいつの間にか我々を支配している。そういう構造がメディアクラシーの根底にあるということになると思いますが、メディアクラシーというのは普通、メディアが悪い、社会を支配しているふうに受け止められますが・・・

(吉田)兼好がここに。

確かにメディアというのは影響力はものすごいわけですよね。我々の思考、行動、いろんなところで深い影響力をもたらし得る。

ただ、これを『権力』と呼べるかどうかというのは疑問だと思うのですよね。

う〜ん。

というのは、権力というのは、一つは『支配』しなければならない。その際に必要なのは、単に影響力が強いだけではなくて、とりあえず『首尾一貫した整合性を持った支配しよとする意思』がなければならない。

うん。

メディアというものに、そういうものがあるだろうか?先ほど、麻子さんが仰った「嘘であってもそれを守らなければならない」みたいな話がありましたが、別に虚偽報道を正当化するつもりはまったく無いのですが、とりあえず、嘘は嘘なりに首尾一貫させようとする態度と、何でもいいからころころ意見を変えていくタイプと、どちらが望ましいか?それはなかなか微妙なところだと思うんですね。

「クラトス(Kratos→ Cratos)」というギリシャ語の、「力」ということからきたらしいのだけど、それはともかくね、トクヴィル(【アレクシ・ド・トクヴィル】)というね、ぼく何度も口に出すけど、19世紀半ばのフランス人、アメリカを論じた人ですけども、メディアのことを正確に言うと、Periodical-Press(ペリオディカル・プレス)、定期刊行物、「新聞」ですね、あっさり言うとね、定期的に発行される。

新聞はまぁ、毎日ですけども、そういうことを指してね、「Primary Power(プライマリー・パワー)」と呼んでいる。これね、「Primary」って「主要」って訳すけども、「Primary Scool」っていうと「小学校」のことだよね。「Elementary school」とも言うけど。

いま佐藤さんが仰ったように、もしも小学校だとすると、小学生には露骨な力は無いわけですよ。しかしながら佐藤さんね?小学校で習い覚えたことってのは、なんとなくその人間の人生を大まかに方向付けるでしょう?

はい。

この「Primary Power」と言うトクヴィルの言葉は、「主要権力」と訳すか、小学校級のかんじとして「基礎権力」と訳すか。佐藤節はあれなのね、「基礎」の方なのね・・・

そうですね。はっきりと『権力』と言えるかどうかも分からないようなところで、しかし『強力な影響力』を持っているという。

なるほど。

メディアの発達に伴って『力を持ち過ぎた』ということが、つまりはメディアクラシーの本質じゃなかと。

恐らくメディアクラシーというものを突き詰めると、やっぱり民主主義である「デモクラシー」になってしまう。

そうなんですよね。

でなぜそうなのかと言うと、やはり、メディアは『ビジネス』でやっているところがありますから、結局、ビジネスでやっていることから、『人々の聞きたいものを流さないと潰れてしまう』という構造があって。そのうちメディアというものが『民衆の精神の鏡』にならざるを得ないというところがあって。

で、ずれているところがあれば、そこで啓蒙ができればいいというところもあるのかもしれないですけど、それも含めてやっぱり、(民衆の)精神構造の鏡になる。

というところですから、結局、その精神というのが「demo(デモ)」、人々に、大衆にあるんだとすると、『大衆社会の第一権力が民衆に、大衆にあるということを意味しているのが、実はメディアクラシーというもの』じゃないかなぁと。

いまメディアって本当は Medium(メディウム)から来ていると思うのですけど、これは「霊媒」なんですね。あるいは「巫女さん」なんかに通じる言葉です。

簡単に言うと、霊界と人間界を媒介するのがそれ。

そうです。だから「神の言葉」を伝えたわけですね、人々に対して。

ところが、ご存知の通り、近代に入って、「民衆の声が神の声」であると。そういうことになったんです。

フッフッフッフー(笑)

紀元後かな、ジュリアス・シーザーの後になりますけども、ぼくラテン語なんか知らないけども、『vox populi(ボックス・ポプリ)』・・・

vox populi vox Dei ですね。
[民の声は神の声]

[※よかったらこのサイトをご参照ください。参考になります。http://www.ritsumei.ac.jp/kic/~syt01970/asahi/page052.html

populi(ポプリ)というのは「People」ね。それで dei(デイ)というのは、これは「神」なんですよね。

だからね、「民の声は神の声」ってのは、要するに古代ローマなのね。時代から多くの人々の気分でも意見でも、これはいわゆる「世論(=vox populi)」ですけどもね、それに応じたフリをしないと、皇帝であってもね、シーザーであろうが誰であろうが、『自分の権力を維持できなくなる』ね。

そういう意味では、日本ではいわゆる左翼が言う「天皇制」だってそうなんですよ。仁徳天皇が、民の竈(※民のかまど→ 記紀の逸話)から煙が出ているかどうか気になってしょうがないみたいなことを読んでて、天皇があの時代ね、もちろん豪族の長ですけどもね、勝手にやっていたんじゃなくて、「みんなちゃんと暮らしているかなぁ?」と気にしないとエンペラーたり得ない。

福澤諭吉】が確か、『学問のすゝめ』か『文明論之概略』かどっちか忘れましたけど、民主主義は最近始まったかのように言われている。でも、そんなことは決してなく、民衆のある種のパワーというか民衆の思いというものが、結局、今までの歴史の為政者たちを全部動かしてきたんだと。

僕もずっとそう思ってた(笑)

一同
(笑)

『気風』がこの国を動かしているんだと。確か(福澤は)気風という言葉を使っていました。

そうなのよ。福澤諭吉はね、文明とは何ぞや。

小林麻子
はい。

『国民の気風である!』ってね(笑)

そうそうそう。

気風ってね、『国民の気分のおもむくところ』という感じですよね。

エドマンド・バーク】もあれですよね。『人々を導く者は、自分が導く者によって逆に導かれる』と。

あぁ〜そうですね。

逆に言えば、『導かれる側のクオリティというのが、導く側のクオリティにどうしても影響を与えてしまう』・・・

そうですね。

ですから本当に、福澤諭吉風に言えば、『よい気風を国が持っているか、持っていないか』・・・

そうです。

それが実は、民衆の声は、結局、神の声というのは、民衆の声と多分にいつも重なるんだと思いますね。

それで考えますと、いわゆる『ダブル吉田事件』というのが、朝日(新聞)でありましたけど、結局あれは、『民が聞きたいことを書いただけであって、民の奴隷として朝日新聞の記事が書かされた』みたいなという構造と解釈することもできるんですね。

(笑)少々極端に言えば、本当にそういうことになるのかもしれませんね。つまり、「強制連行される」というイメージを、『人々が見たかった』『想像したかった』ということ・・・

そう。

・・・だから書いたんですと。

これはもう人気作家の映画や小説とそっくりの構造。

まぁそうだね。

先ほどの吉田兼好の話だけど、恐ろしく、ぼくすっかりそんなの忘れてたけど、歴史の「史」、これに意味があるとしたらさ、もちろん気分では「デタラメな気分」とかねぇ、「真っ当な気分」いろいろあるんだけど、長い歴史の時間を通じて残るほどのものの多くは、やっぱり『真っ当なもの』が残っているんだと。「一時の気分」のようなものは、時間の試練にさらされて、どんどん薄らいでいく、消えていくと。

というのが『保守思想』で言えば、保守がすぐに「歴史」を持ち出すのは、僕のことを言っているのだけど(笑)歴史にはいいものが残っているんだ・・・でも、吉田兼好先生は、そんなことを何の保証も無いのに言っている(笑)

一同
(笑)

いやね、僕もそうかもしれないと思っている。でもね、神だ仏だと言ってもね、英語で言ってもしょうがないけど、「Secularization(セキュラライゼーション)」というのは「世俗化」という意味ですけども、簡単に言うと神とか仏、すぐそれを持ち出して、自分は神や仏に繋がっているという言い方はやめて、判断を俗世に、自分たちに戻すという意味での「Secular(セキュラー:俗世の)」世俗化はやむを得ぬね。これは近現代はそうですけども。

神・仏に頼らず、歴史にも頼らないとしたら、固有名詞を挙げて悪いけども、大阪の【橋下徹】さんみたいでいいんですか?

えっへっへっへー(笑)

あの人のことを誹謗、批判しているんじゃなくってね、この前テレビで見ていたら、(橋下徹は)見事な人ですね。

(笑)

結論だけ言ってね、あの先生に悪いんですけども、根本前提は間違っているんですけども、「公務員の月給減らせばみんなうまく行く」というのは間違いなんだけど、それ以外のことは見事にワンダフル、ビューティフルと言いたくなるぐらい見事に組み立てて、言い逃れ方もこれは見事に何でも出来るってぐらいすごい人で。(藤井の顔を覗き込んで)それでいいの〜?(笑)

あのぉ〜その問題と言いますか、これに関しては、今日は「まことはあいなきにや、多くは皆虚言(そらごと)なり」という嘘話の話でありますけど、嘘話について橋下徹さんが、政治家になられる数年前に書かれた本がありまして、その本の中でこんな発言を仰ってます。

「政治家志すっちゅ〜のは、権力欲、名誉欲の最高峰だよ。その後に国民の為、お国の為がついてくる。自分の権力欲・名誉欲を達成する手段として、いやいや国民の為、お国の為に奉仕しなければならないわけよ。別に政治家を志す動機付けが権力欲・名誉欲でもいいじゃないか!」

とこっから嘘のことを(橋下は)仰るんですが、

「嘘をつけない奴は政治家や弁護士にはなれない。嘘つきは政治家と弁護士の始まりなのっ!」

と(橋下徹は)仰っている。

[※参考 橋下徹「まっとう勝負」小学館 (2006/11/8)

「政治家を志すっちゅうのは、権力欲、名誉欲の最高峰だよ。その後に、国民のため、お国のためがついてくる。自分の権力欲、名誉欲を達成する手段として、嫌々国民のため、お国のために奉仕しなければならないわけよ。…別に政治家を志す動機付けが権力欲、名誉欲でもいいじゃないか!….ウソをつけないヤツは政治家と弁護士になれないよ!嘘つきは政治家と弁護士のはじまりなのっ!」

「なんで『国民のために、お国のために』なんてケツの穴がかゆくなるようなことばかりいうんだ?政治家を志すっちゅうのは、権力欲、名誉欲の最高峰だよ。 自分の権力欲を達成する手段として、嫌々国民のため、お国のために奉仕しなければいけないわけよ。ウソをつけない奴は政治家と弁護士にはなれないよ!」


ものすっっっごい正しいでしょう?

フッフッフー(笑)

正しいですね。ただ、嘘だろうが何だろうが『結果』を出さないとならないですね、政治ですから。嘘だけで、結果が出せるかどうかという。

(笑)これでいい政治が出来るんだったら、それはそれでいいのかもしれない。

出来れば。政治は結果ですから、それは(笑)

しかしながら、さもしいと思う。

みんな忘れちゃっているけど、政治学でアメリカに【ハンス・モーゲンソー】という人がいて、ものすごく名著なんですけども、その人は要するに、権力というものは、どれほどに大切な、重要なものかということを(その著書の中で)政治学説を展開した時にね、『アニムス・ドミナンディ(animus dominandi)』ラテン語ですけどもね、animus(アニムス)というのはね、アニマル(animal)と関係あるのだけど「衝動」という「活力」感じかな。dominandi(ドミナンディ)というのは、ドミネーション(domination)ですから「支配」ってね。

つまり『「支配しようとする衝動」これこそが、少なくとも政治学における根本前提だ』って言うね、それでこんな分厚い本を書いた人で。

[*参考:アニムス・ドミナンディ

Animus Dominandi
"優越せんとする悪意を伴わずにはいない意思"と訳され、モーゲンソーが唱えた。これにより、"教会は政治団体へ、革命は独裁へ、郷土愛は帝国主義へ形を変える"という。人間は勢力拡大(power)を求めるという前提。
*1 Morgenthau,Scientific Man, pp. 194-195


政治的人間をモデル化すれば、橋下徹先生でお宜しいんですよね。

あっはっはっはっはー(大笑い)

ところが人間というのは、なかなか厄介で・・・

厄介(笑)

心の中をじーっと見てみますと、やっぱり、親が亡くなった・・・ちょっと悲しいとか、道路で倒れている人がいると、あっ、大丈夫かなぁ?と思ったり、昔のことで、ちょっと悪いことをすると罪の意識を感じたり・・・『心のリアリズム』の中には権力欲・名誉欲以外のものもかなり埋め込まれている。

一方で、政治というものは『人間全体を取り扱うもの』ですから・・・

そうですね。

従って、政治をやる時に、権力欲・名誉欲以外のことにも幾許か配慮しないと、ちゃんとした政治の結果が残せないということになる。従って・・・

小林麻子
うんうん。

世の中は、建前で割り切っても、うまくいかない。

うん。

しかし、本音で割り切ろうとしたら、やはりうまくいかない。

建前と本音のこの渾然一体としたもので、政治をやらないと、絶対に失敗する!

そうですね。メディアクラシーに問題があるとすれば、ある時は、本当に「建前だけでキレイに割り切ろうとする」と。それだと別の時はですね、今度は「本音だけでキレイに割り切ろうとする」と。

ものすごく言うとあれでしょう。橋下先生は正しいんだけども、権力を目指して、権力の為なら嘘でも平気でつくぐらいで無いと、政治家にも弁護士にもなれないって、ものすごく正しいのだけど、実は、その前に政治家・弁護士の前に【人間】というのがいるわけですよね。

うんうん。

ヒューマニズムで言っているんじゃなくて、いるんですよ、人間って。

で、人間というのは、権力衝動もあると同時に、その反対で言えば『Fraternity(フラタニティ):友愛精神』、麻子さんと仲良くなりたいなぁ〜という、例えば友愛精神とかね、ご先祖の風習、伝統のままに生きて自分もご先祖に連なって死にたいなとか、人間というのはいろんな複合的なコンプレックス(complex)ですよね。そのうちの一つの側面だけをシンプレックス(simplex)って言うんだけど(笑)、単純に取り出して、アニムス・ドミナンディ(animus dominandi = 支配しようとする衝動)って・・・

フッフッフー(笑)

橋下さんでも、誰ぞ田中角栄さんでも、小沢一郎さんでもどなたでもよろしいのだけど、弁護士とか政治家になる前の人間は何者だったのか?!と・・・

小林麻子
(珍しく語気を強めて)そうですね!!!

・・・考えてみると、実は、そういう人間が投票したりね。

小林麻子
うんうん。

大臣席に座ったりしている人もいるからね。もっと複雑なんですね。

嘘つかなければ、確かに政治家にも弁護士にもなれないかもしれませんが、嘘であれ、ついちゃった嘘には『責任』がつきまとうわけですね。

そうですね。

そっから逃れることは、結局出来ないんですね。

うん。責任論に行く前に、認識論としてね、何度も言ったかもしれないけども、例えば、お三方(藤井、佐藤、小林)と喋っているでしょう、語っている。それと僕の中にね、麻子さん的気分、佐藤健志さん的、藤井さん的・・・僕の方に入ってくるわけですよ、多少とも、

うんうん。

小林麻子
はぁ。

それと、もともとの自分の気分でも意見でもいいのだけど、最初に「1」であったものが、三人と付き合ったせいで「4つ」に、コンプレックスに、複合体になるわけね。そうするとね、「どの人の意見がいちばんいいかな」とか、「どう組み合わせればもっといい意見になるかなぁ」とか考えるでしょう?

その逆に言うとね、人のことを気にしないで、例えば、嘘と真実、あるいは、真実に近いものをどっちがどうか考えない、「人(=他人)のことは気にしない!!」というのが、このアニムス・ドミナンディのコツなんでしょうね。

小林麻子
あ〜あ。

聞いたフリしかしない!!

で、もしアニムス・ドミナンディですか。これで行きますと、『議会というものを全部否定すること』になってしまって。いま(西部)先生が仰った「気分」が入ってきて、何か重なっていくというのは、これをやるのがもっともオーソライズ(authorize)しながら、最も崇高な格好でやろうとするのが『議会』でありますから、『議会制民主主義を根底から覆す』・・・

ちょっといい事を言ってくれた。

はい。

善人ぶって言うんじゃないんですけどね、みんな『議会』とか『議論』とか言うけど、『議論』というのはこうなんですよ。

例えばね、麻子さんが「少数派」で、この三人が「多数派」だとするでしょう?

小林麻子
はい。

それで「議論」をはじめるわけさ。この多数派もね、(少数派の意見を)聞いているうちに、「あら、麻子さん結構いいこと言っているな」と。

小林麻子
あははははは(笑)

でもね、僕らも名誉があるんでね、「僕らが間違っていました!」って謝罪はしないと思う。でもね、さりげなくね、麻子さんの意見を取り入れて(笑)ちょっと膨らましたりさ・・・

小林麻子
はぁ(笑)

(笑)

修正したりして、『議論というのはね、少数派の方が正しいかもしれない』ってね。そういうことを受け入れるね、『寛容』ってのは別に善人のあれじゃないんですよ。なんとなくね、こっちが楽しく、愉快に生きるために、少数派も上手く取り入れちゃうの。そのために『議論』があるんですよ。

音楽に例えると、いちばんわかりやすいと思うんです。

あぁ〜そうか。

つまり、4人のバンドで演奏したとする。曲はいいと。

あっそうかあ!

それは誰か一人の演奏に期されるもんじゃないんですね。4人が同時にやっているから、そういう演奏になるんであって、だから、議論も本来はそうあるべきなんですね。

西部・藤井
そうだね。

小林麻子
うん。

交響曲、symphony(シンフォニー)の「sym(シン)」というのは「同一」という意味ですからね。phone(フォン)というのは「音」ですからね。「いろんな音が同一化する」ってね、それで「交響曲」でしょう。交響曲に限らないけどね。

一つ間違えるとだから、よくない議論のやり方ってのは、『どの楽器の音がいちばん大きいか、それを競うこと。』

あっそうか!

(ギターをかき鳴らすマネをしながら)ヘヴィメタしかなくなりますねぇ(笑)

そうですそうです(笑)

おそらく、これを政治の世界にまた改めて戻しますと、名誉・権力欲だけでもしも政治をすると、「結果がついてくればいい」という議論がありましたが、どういう結果になるかというと、大なる可能性、あるいは、ほぼ100%の確立で『テロル(terror)』、必ず、テロル、暴力、『恐怖政治』が行われることになることは避けられないと思うですね。

その名誉と権力だけでいいということならば、「権力のためには収奪していけばいい」わけですから、あるいは、「いろんな政敵を暴力でやっつけていけばいい」、「名誉のためには嘘を信じこませればいい」、ということになりますから、『恐怖政治』しか待っていないということになるわけですよね。

うん、そうね。

マックス・ウェーバーヴェーバー)】という社会学者が言ったことでね、「結果」という言葉で思い出したんですけど、『結果責任』と『動機責任』ね。

動機責任ですね。

それで、マックス・ウェーバーが言ったのは、その前に【イマヌエル・カント】という人がいて、やっぱりね、『動機が倫理に、道徳でもいいけど合っているかどうかが問題だ』と言ったのに対して、ウェーバーは、政治学を勉強しているうちに、『いや政治には結果の責任を持つ』という、いま佐藤さんが仰ったね、あるいは『政治責任』とも言いますけどもね。

ただ、ぼく考えたことがあるんですけどね、もしも佐藤さんがよ?

はい。

自分の能力、関心、あるいは寛容の精神で能う限りのことを考えて、しかも、有限の、決断には時間の制限がありますからね、与えられた時間の中に、自分の能力いっぱいに考え、人の意見も聞き、そして決断を下して、結果が失敗したとするでしょう?

小林麻子
はぁ。

そういう時に、貴方に責任あるの?

その決断がどれだけの影響をもたらすかによりますが・・・

そうか。

それを【福田恆存】さん風に言えば、『動機の純粋さとかが問題になるのは、結果が上手くいかなかった時だけである』と。

ハーハッハ(笑)

『結果が上手くいった時に、「とはいえ動機は不純だったじゃないか!?」と追及されることはない』と。

なるほど、そういうことか。

結果が良かったんだから、動機が不純だろうが許されるというのは、おそらくはあると思います。ただ、たいてい、動機が不純だったら結果は出ないというのがある(笑)

ただね、ただね、それもある、それでいい。福田恆存佐藤健志のあれでいいんだけども、こういう論法もあると思いますよ。

つまり、いま僕は勝手にさ、自分の能力いっぱいにやったことが間違っていたと。でもね、能力いっぱいと簡単に言ったけどさ、実はそこにすでに『嘘』が入っていてね、人間はいつも反省しますでしょう。そうすると、神でも仏でもない限り、自分が完全に自分の全能力を振るったとは言えないね。

うん、う〜ん。

あそこはもうちょっと・・・反省というのは謝罪じゃなくて、自己を振り返ってリフレクト(reflect)するとね、「あっ、あそこに落ち度があった・・・」という、まぁそういうことはあるよね。

あぁ。

そうすると、その分の責任は取るというね。そういうことになるよね。

そうですね。『葉隠の精神』というのはそういう・・・

葉隠』はそれか。

『毎朝毎夕、改めては死に改めては死に、常住死身になりて居る時は・・・』
(毎朝毎夕、改めては死に改めては死に、常住死身になりて居る時は、武道に自由を得、一生落度なく、家職を仕果すべきなり。)

[※「葉隠」:山本常朝(佐賀鍋島藩士)口述の武士道論書、『武士道とは何か。死ぬことと見つけたり』と言っている


だけど、普通、結果が上手くいった時にですね、なお反省して責任を取るということにはならないわけでして(笑)

それもそうだな(笑)

失敗したことを見つめて、そして、毎朝毎夕反省をし、そして、また昼間働く。

結果が上手くいかなかったとしても、「いやベストを尽くしたのだから!」で許されていいかは、それは別の問題ですね。

あるいは「いや上手くいかなかったからこそ、これからベストを尽くすんである!」と言って、上手くいかなかったのを口実にさらにやるとかですね(笑)

そこでどう振る舞うかを他人が見てて、「あっ、この人は失敗したけども、本当によく頑張ったな。」と思われれば、それがまた次に繋がっていくと。

よくね、政治とか政治学って言うけれど、政治学の始まりとしては【プラトン】・・・君とは言いません(笑)古代あたりの人がいましてね、彼らがね、『デモクラシー(democracy)』を論じる。古代アテネのデモクラシーね。

このね、デモクラシーせいで!!

(渋い顔で)うんうん。

「我がアテネは、スパルタに戦争に負けたんだ!」と。

そう!それっ!!

理由はね、みんな簡単に言うと、デモクラシーのせいで、兵士は前線で戦っているけども、国に残っているアテネ人は、歌えや踊れやでね・・・

うんうん(苦笑)

もっと金よこせ、パンよこせでね、もっと楽させよと言って、真面目じゃないと。

『このデモクラシーのせいで、戦争に負けたのみならず、我が古代アテネが滅びていくのである。』というね、【デモクラシー批判から実は政治学は始まった】のね。

そうです。『国家』(※プラトンの主著)ですね。『対話編国家』です。

それがみんなして、戦後70年か、なんとかレジームのもと、「デモクラシー万歳!!」を右も左も上も下もそれしか言わないと。こんな国で果たして国と言えるか。。。

後半戦に入るんだけど、あっ「戦」じゃないんだ、戦いじゃないんだから(笑)

一同
(笑)

戦後日本、やがて70年ですけどもね、よくね、中国とか韓国から「日本人には歴史認識が無いとか不足している」と。

歴史認識論争というものがあるらしいんだけど(笑)、麻子さんは『歴史認識』という言葉を聞いて、どんな気持ちになられる?

小林麻子
歴史認識は・・・必要・・・ですよね?

んんっ?・・・うん。そうだよね?

小林麻子
(ガクッ)

(笑)

ンフッフッフッフー(笑)

中国、韓国というふうになると、すぐ「反日的な」というか、「日本はこんな悪いことをしてけしからん!」というふうになりますが、もしや『台湾の人たちの歴史認識』というのが、またいろいろあるんですよね。

台湾の方々というのは、日本の植民地統治を非常に評価しているところがあって・・・

そうでしょう。

その「二宮金次郎二宮尊徳)の教えは偉かった」とかですね、女性なんですけど、「自分がもし男に生まれたら絶対に特攻隊に志願した」と。

あぁ。

そういった形で日本を評価してくれるんですが、ところが、やっぱり不満があると。

うん。

我々は日本のために頑張った、戦ったんだと。大東亜戦争の理想を信じたんだ。戦後、日本政府は我々に対して感謝もしてくれない!!

そうですね。

そうでしょうね。

保証はおろか、それはおかしいじゃないかと。これまた、歴史認識に関する問題提起なんですよね。

(小林に向かって)佐藤さんの言うとおりで、歴史認識はひつよぉ〜ですっ!!(笑)

一同
アッハッハッハー(笑)

小林麻子
うん。

過去をどう評価するかどうかに関係なくですね、『過去と現在は繋がっているんだということ』をまず受け入れてからですね。

あぁ〜いいこと言ってくれるなぁ。

だいたい日本では、いわゆる左と言われる人たちは、戦前の日本は悪い時代だったと。暗黒であったと。で、戦後は良くなったと。というふうに言うわけですが、『戦前と戦後は切れている』ということに関して、これは完全にこれは自明のことなんですね。

今度は保守寄りの方は、今度は戦前の方が良かったと。戦後の日本はダメになったと。(左と)正反対の主張をするわけですが、例によって、『戦前と戦後はハッキリ切れている、違うものなんだ』ということをですね、これが自明の前提になってしまうわけです。

そう。

その意味では、歴史認識を持てというのは、反省しろ、反省しろって表面的にはそういう主張になりますが、なんでそんなに、『1945年という特定の年を境に、それ以前と以後では全く違うんです』というふうに言えるんだと。そういうことに対する不可解な念というものがあるんじゃないですか。

本来、歴史認識というと、その『物語』というふうに言い換えてもいいと思うんですけど、1945年の前後でそれまでなんかこう戦争映画みたいなことをやって、そっからいきなりラブロマンスになってしまうと「この映画なんや!?」ってなみたいなことになってしまいますから、正しき映画を作るということと、正しき歴史認識を持つというのは、同じようなもんだとすると、『ちゃんと自然に「45年の境」があったとしても、ちゃんと続くように何某かの物語を持っておかないと。』

そうだねぇ。

それがたぶん、歴史認識を持つということであると。

メディアクラシーに引きつけると、あれなんですよね、戦後日本のメディアが言い続けた最大のフィクションというのは、【「戦後は戦前と違います」】と。

アッハハハー、うん(笑)

いいか悪いかは、メディア次第なんですよ。(戦前と戦後は)違います!と。

これはいわゆる右と呼ばれる方々も、左と呼ばれる方々も、【「そこの点については合意をしている。」】

だから、そこのあたりがメディアクラシー最大のポイントじゃないかと。そこで切っちゃうと、堂々巡りが始まっちゃうというのが、宣伝の為にもってきたこの本で展開した論点です(笑)


アッハッハッハー(笑)

ぼく行ったことないんですけど、ドイツにある小さな村(Potsdam:ポツダム)らしくてね、そこにアメリカだイギリスだ中国だ集まって、 日本に降伏を迫ったんですね。それで『ポツダム宣言』というんですけど、日本はそれを受け入れて、まぁそれこそ『戦後』になるんですけど、ポツダム宣言の第何条か忘れた・・・『「カイロ宣言」を受けて〜』(※第8条)って書いてあるでしょう。要するに、『日本は野蛮国だ!』と書いてある。それでね、『日本の周辺のいろんなところを盗み獲りしたヒデェ国だ』と。それを含んで、ポツダム宣言で、急いで言うと、ポツダム宣言を受け入れて『東京裁判』が行われ、東京裁判の判決に基づいて『サンフランシスコ講和条約』で日本が独立するわけさ。

それをね、字面通り取るとね、戦前日本はならず者国家ということになる。さてそこで、佐藤さんが今ね、戦前にならず者を何十年もやっててさ、急に戦争で負ければね、善人になれるのかってね(笑)

へっへっへっへー(笑)

ならず者の子供たちは、やっぱりならず者だろうということになっちゃうでしょう?

小林麻子
はい。

もちろんね、日本人に限らず全人類の何割かはならず者の性格を持っているのだけどね、『丸ごとのならず者』というのは、絶対にいなくてね。

そう。そう(笑)

普通に考えれば『連続』ですからね、やはり、戦前と戦後は繋がっていると。

(黒板に)線で書くと、明治維新で少し曲がって、それでこの前の大東亜戦で曲がって、でも連続なんですよね。だから、自分たちは今ここにいて、元を辿れば明治維新だ江戸だとこうなる。

テレビでやるでしょう最近、日本人は自信を無くしたもんだから、織田信長だ、家康だ、信玄だとかね。

ンフッフッフー(笑)

でもね、あぁいうの見ると、(歴史の線の)延長線もあって、単純延長ね。(その上り調子だった頃の延長線上に)だから、ここに「今の日本」があると思っちゃってさ、こんな風に(自信に満ちていたであろう時代を)調べ始めるわけさ。

確かにね、(歴史は)連続だけども、(明治維新などの)大きな(歴史の)折れ曲がりは、近代日本は、明治維新大東亜戦争・敗戦であった。ここにある(現代の)日本ってのは、本当の日本の姿は連続だけれども、『かなり90度ばかり違った方向へ進んでいる』わけさ。

それで考えますと、先ほど歴史認識というものが、「現時点を The End とする物語である」ということなんですが、この映画のちょっと不思議なところは、実は(将来にも)続いていく物語であって、To Be Continued であって、To Be Continued の物語というのは、第二話とか第三話のことを含んで第一話が完結しているはずですから、それを含んで、物語全体が「物語化」されていないといけない。

従って、『未来に対してどういう国をつくるかという一定の見通し』があって、初めて物語を解釈というのができるはず。

従って、ここって思っている部分(理想)ではどうしょもなくて、ここにいる事実(現実)で考えて、まぁどうかわかりませんけども、(将来地点として)この辺を考えながら(現時点の上の地点)考えていくみたいな。

そうね。だからちょっと漫画的な言い方だけど、安倍首相の言い方に賛成ですけど、『戦後レジームからの脱却』って言葉ね、単純にこう(黒板に)グラフで書くと、(グラフの線が右肩上がりに)こう進んできて、敗戦で(グラフの線が)妙に空中に舞い上がったか、地下に潜ったか(線が)妙な屈折を描いて、ようやっとここ(敗戦の地点)に(グラフが)戻ってきて、こう(右肩上がりに)行けばいいなぁ〜と。

戦後の丁度70年経っているのだけど、その70年は連続だけども、日本にとっては本当に異様な『日本というものを見失って』、どこかモグラみたいに、あるいは蝶々やトンボみたいに空を飛んでいたってね。(※グラフが線を描かずに、敗戦の地点で宙を舞うか、地下を潜るかのごとく、そこで線が前へ進もうとしない、戦後の70年間)そう考えれば、こういうことからは脱却しましょうと。

藤井先生が仰った例でいきますと、とにかく、(未来への)続編を作っているつもりではいるわけです、日本は。

あぁ〜そうね。

一応、歴史ってのはエピソードの積み重ねですから、スターウォーズじゃありませんけど、episode1、2、3と追加されていくハズなんですが、『なぜか、新しい続編がですね、前作のリメイクになっている』わけですね。

ハッハッハッハッハー(笑)

あぁ。

細かいところは変わっていますけども。

太郎くんが次郎くんになっている。パン屋さんがお米屋さんになってたりとかするぐらいで(笑)

話が実は同じになっているわけですね。だから、続編を何本作ってもですね、全部リメイクですから、話が前に進まないと。

進まないと。

そういう話になってしまう。

そうですね。

それでいくと、藤井先生はよく『レジリエンス(resilience)』と仰ってますが、戦後日本には、とんでもないレジリエンスがあると。

うん。

これは、『悪い意味でのレジリエンス』なんです。

(後ろに仰け反りながら)アッハッハッハッハー。なるほどね(大笑い)

どういうレジリエンスか?本当はレジリエンスというのは「強靭」「強い」、衝撃を受けてもちゃんと跳ね返せる、固体が崩れない、そういうものを指すわけですけども、『戦後日本型のレジリエンス』というのは・・・

ンフッフッフー(笑)

戦後日本のあり方を変えようとする、あらゆるものを積極的に否定しないくせにですね、いつの間にか「中和」していくと。

で、何をしていくかと。『経済が繁栄すればいいんだ!』という結論にですね、なし崩しに上手く落とし込んでいくと。

そうそう。

それがですね、これは政府がやっているんじゃないんです。メディアがやっているわけでもない。そういう「気風」が国にあるとしか言いようがないようなことが起きてしまう。

『resilience(レジリエンス)』、強靭、強いってね、訳されて、あっ藤井さんがやったのか。

もともと貴方(藤井聡)に教えて貰ったけど、「反発力」・・・

そうです、そうです。弾力性・・・

ボールを落とすと、どれだけボールが飛び跳ねて元に戻るかというね、それらしいんですけどもね。

跳ね返してくれればいいんですが、なし崩し的に飲み込んでいってですね、変えようとする勢いを常に全部、経済成長の話へと単純化して、収斂化させる。

そうそう。ブラックホール的な構造がある。

これは、これで一種のレジリエンスなんですが、「強靭」と言うよりも、これはあまりに融通無碍という。

ねぇ、それでね。あぁそれを言おうとしたのよ。

そういうレジリエンスが、戦後の日本にはあるんじゃないですか(笑)

いやぁ、ほんとうそうですね(笑)

これよくね、「Abe-Nomics(アベノミクス)」といわれるでしょう。これおかしくてね、これね、アメリカのレーガンという大統領がいて、「レーガノミクス」って。

確か、あの頃のアメリカ経済がこんなふう(※下降線)になってて、経済政策が大問題ではあったのだけど、もともと、エコノミクス、今の経済政策論ね、みんなしてアベノミクスの経済政策、消費税増税その他、うまくいくかいかないかワーワーワーワー騒いでいる。日銀の貨幣供給、インフレターゲット

でも、もともとはこれ(Abe-Nomics)は『nomos(ノモス)』からきていて、ノモスというのは『秩序』というかんじかな。この世があるべき本来のあり方という意味でね『規範』ってのかな。

本当はね、アベノミクスで経済政策を論じるということ自体が、(頭をクルクル指で回して)ちょっと狂ってるんですよね。

(ニヤニヤ)

安倍さんは、どういうノモスを、国家の秩序を、そのうちの一面が経済問題で、経済問題は重要だけどもさ、『戦後レジームからの脱却』ってのはね、安全保障問題だとか、憲法問題、教育問題、全部含んで戦後レジームでしょう。それが『ノモス(=国家の秩序)』ですよね。

そうですね。

だからね、アベノミクスを経済政策だと(言うけど)・・・こんなの地引を引けば(それだけじゃないことが)すぐ分かるんですよ。

ンフッフッフー(笑)

さらに、アベノミクスの場合は、経済政策だと認識したとしても、実は、無限通りのアベノミクスが存在し得るわけで。

そう、そうだね。

第一と、第二と、第三の矢で構成されるのがアベノミクスだと。

しかしながら、いわゆる経済政策で、金融、財政、成長戦略以外の経済政策って存在していないですから、全ての経済政策ってアベノミクス空間のどこかの点としてプロットできる。

なるほどね。

従って、『アベノミクス是か否か?というのは、経済政策是か否か?みたいな話』に実はなるという構造があって。

僕ね、本当にね、「日本はまだ有るのか?」なんて軽率か大胆か知らんけど言ってしまった理由は、そのアベノミクスを論じている人たちがね、「地方創生化」・・・

地方創生。

それはいいとして、何か、テレビだか新聞だか見てたら、具体的に何かなぁと言ったらね、『女性活用と規制緩和』だと言うんですよ。

ンフッフッフ(苦笑)

僕に言わすと、規制緩和と言われたのは20何年前からですからね、それで地方がどんどん滅びているわけさ。えっ?と思うでしょう。

ンフッフッフ(大失笑)

それから、女性について言うとさ、麻子さんに悪いけどさ、(女性の)“活用”なんておこがましいねぇ・・・

アッハッハッハ(笑)

女性は威張り散らかしてさぁ、みんなねぇ・・・

申し訳ないと謝りたくなります(笑)

謝りたくもなるし、女性は既にね、当たりを睥睨(へいげ)しているわけですよ、広場だろうが、電車だろうが、飲み屋だろがね。

小林麻子
あはっ(笑)

これ以上、活用されたら、僕もう困るなぁって(笑)

小林麻子
そうですねぇ(笑)

ハッハッハッハー(大笑)

ここだけで十分に活用されてらっしゃいますしねぇ(笑)

小林麻子
ハハハッ(笑)

本当にね、何言っているのか分からなくなるから、僕は本当に、まだ日本はあるのか?って言いたいの。

しかも、地方創生ってのはですね、竹下総理(竹下登)が、1988年消費税を最初に導入する寸前に『ふるさと創生』と言ったわけです。

あっ、言ってた言ってた。

そして、全国の各市町村に、一律一億円配る(ふるさと創生資金)というのをやったわけです。

実際にやったんだよね。

今回は、消費税8%を10%に上げるという時に、今度は『地方創生』というのが出てきたわけです。これがですね、私が先ほどから申し上げている『続編がリメイクである』というですね、戦後日本の例なんですね。

あぁ〜。

ワッハッハッハー(笑)

さて、1970年代頃かな、【田中角栄】さんという人がおられてね、『列島改造』と言ったの、ねっ。

小林麻子
うん。

今ちょうど藤井先生が頑張って下さっているけど、それが改造に近いんだ。

(恐縮ながら)いえいえいえいえ。列島強靱化論です(笑)

それからね、だいぶ経ってから【大平正芳】さんというのが出てきてね、『田園都市構想』と言ったんですよ。

あぁ〜ありましたね。

それはね、東京一極集中をやめてね、地方の独自性の、例えば仙台、札幌、どこでもいいのだけども、そこに都市があって周辺を田園というので田園都市構想。なんとなく良さそうでしょう。

実は、戦後日本を弁護して言うとね、断片化するとね、一つだけ取り出すとナンジャラホイになっちゃうのだけど、全部集めてくるとね、言うべきことはみんな言っている気もするのね。

(頷く)

例えばね、その後の一つとして民主党?まだあるんですか???あぁ〜ごめんなさい

一同
(大失笑)

まだあると思いますよ、(一応)あります(笑)

まだあるんだけど・・・

藤井・佐藤
(大爆笑!!)

例えばね、あの人たちは「社会福祉は大事だ」と言ったのは、あれも本当なんですよ。ね?

はい。そうですねぇ。

一つは説明すると、「競争」というけどさ、まさか、横綱と(幕下の)三段目が相撲取らないでしょう?

小林麻子
はぁ。

せいぜい、(横綱の相手は)幕内上位。ということは、やっぱり横綱と取って、ひょっとしたらね、幕内上位が勝つかもしれない可能性があるから、土俵に登るわけさ。「一人相撲」ってね、あんまり相手に差があると土俵に出てこれないでしょう?

小林麻子
うん。

そうすると『競争は成り立たない』の。(※一人相撲状態では競争は成立しない)

競争社会をつくるためにもね、相手が土俵に登るために『その程度の平等化・福祉をちゃんとしないと、競争すら成り立たない。』

これまで、いろんな政権が言ったことは、全部それなりに正しいと言える(笑)

そうですね。まさに重要なポイントで、先ほど、アベノミクスの第一、第二、第三の矢とも並行だと思うのですけども、要はそれぞれの要素に関しては、当然、この要素は必要だ、この要素も必要だ、これはちょうど、お肉も買ってきて、玉ねぎも買ってきて、それでポテトも買ってきてとこう、それぞれ美味しいものを買ってきた。それはそれでいいんですけど、それを(ただ素材だけを)並べても料理ではないので、やっぱり三つ(アベノミクスの三本の矢)をやるだけじゃなくて、三つをどういうふうに料理するのか、どんなプレート・ディッシュ、料理を作り上げるのかっていうことがないと、食べられないわけですね。

ですから、そのアベノミクスの第一、第二、第三をどうするのかと同様に、例えば「田園都市」と、それから「マクロ経済」と、それから「規制の改革」とかも含めた『全体をどういうふうに調合していくのか』というのが、これが料理人としての政治家の腕の見せ所のハズであって。

そうそう。

イングリーディエント(ingredient = 料理の材料、成分)、それぞれの要素だけの議論をしても仕方がない。

今ね、料理の話でいいことを言ってくれたのだけど、僕も中学生級の知識すらおぼつかなくなったのだけど、栄養五元素ってあったよね?

はい。

ちょっと言ってくれる?

(う〜ん)炭水化物、タンパク質、脂肪・・・

カルシウムとビタミンか。

[※タンパク質、脂肪、炭水化物の三大栄養素のほかに、無機質、ビタミンなどを指して、栄養五元素などという]

そのうちの一つでも欠けるとね、例えば、炭水化物を幾ら山ほど摂ってもね、ビタミンを摂らないと、カルシウムを摂らないと、単におデブさんが出来て早死にしますみたいなね、そういう話になってくるのね。

小林麻子
うんうんうん。

そしたらそれは『バランスの問題』でしょう?

うん。

そうです。前半では音楽の話(バンドやシンフォニーのたとえ)を申し上げましたけど、あれだって個々の楽器を集めてきても、それで全体の良さにならないわけですね。ですから、実際のレコーディングでは「ミキシング」と言って・・・

あぁそうですね。

個々の楽器のパートを録音した後で、それをどのくらいの音の大きさで混ぜ合わせたら全体としていちばん良くなるのかというので、皆さん神経を使うわけですが。

メディア論だった、今日の論議のテーマ(笑)

フッフッフッフー(笑)

ですから、かつては「総論賛成、各論反対」という言葉がありましたが、むしろ今はですね、『各論もっとも、総論辻褄合ってない』という、そういう奇妙なことに、むしろそっちに近いじゃないですかねぇ。

(黒板に貨幣の「貨」の字を書いて)
経済学の面白いところがあって「貨幣論」これ「貨」(の字)なんですけどね字が汚ないけど、貨幣がどんな機能を果たしているかという話があって、これは順不同ですけども、一つは『⑴流通手段』というのがあって、もう一つは『⑵価値の尺度』、メジャー、基準を示すんだと。それからもう一つは、価値を蓄積、保蔵ね。hoarding(ホーディング)というんだけど、『⑶保蔵手段』とこういうわけさ。それでマルクス(【カール・マルクス】)が出てきて『⑷支払手段』だってね。

これ貨幣を言葉、『言語』で置き換えるとおんなじことがあって、言語によって自分の意見を伝達する、『⑴流通』でしょう。それから、言語ですから『⑵価値判断の基準』が何であるか。それから、言語ですから自分たちの『⑶歴史(=保蔵手段)』ね、そういうものを引きずるでしょう。この支払のところは経済学と違って、これは一応、言語で言えば『⑷表現力』ですかね。佐藤健志君の独特の表現力でもって、その本が書かれたってね。

(恐れ入りながら、頭を垂れて、笑)

ところがね、今のメディアが酷いのは、これをバサーッと上下切り離しちゃってね(上部:⑴流通、⑵価値尺度、下部:⑶歴史、⑷表現力)、一体どんな価値尺度で言っているのか、どんな歴史感覚で言っているのか分からなくて、流通というのは単なる『流行』になってくるのですよね。一時(だけ)流行すればいい。

うん。

それからこの表現もね、一種のあれですよ、『刺激』ね。

小林麻子
あぁ。

刺激が強ければいいというね。

そこで先ほどね、まぁ、朝日でも産経でも何でもいいのだけど、今のメディアね、確かに誤報・虚報問題はね、それなりに自分の立場を守るべく嘘をつき続けましたということもあるんだけど、同時に「あの時代」で言うとね、『日本はならず者国家でしたァー!』と。『強制連行・従軍慰安婦をみんなやりましたァー!!』と言ったほうが【あの当時は刺激が強かった】のね。

小林麻子
あぁ〜、刺激がね。

【「みんな反省ザルになってましたから、簡単に流通し得た」】んですよね。

そういう面で言うとね、これは朝日(新聞)に限らず、今のメディアってのはなんかこう【刺激欲】と【流行力】これだけを、期待する・・・

小林麻子
なるほど。はぁ。

ということなんだよね。

[※貨幣論に擬えた「言語」の機能
⑴流通⑵価値尺度⑶歴史⑷表現

→昨今の「言語」を扱うメディアは⑴~⑷が調和せずバラバラで特に⑴流通⇒「流行」⑷表現⇒「刺激」を単純に追い求めるようになる。]

その根底にあるのは、先ほど申し上げた『戦前と戦後は違う!』と。

あっそれだ。

ここだけは、実は崩していない大前提なんですよ。

そうだ。

それ以外のことは、コロコロコロコロ変わりますし、あるいは立場によって、全然正反対に行ったりしますが、『戦前と戦後は違う』と、これだけは(左のメディアも右のメディアも一致して)譲らない。

そうですね。

『ここを突き崩すと、メディアは根本から変わる可能性はあると思います。』

そうなんです。どうしても、戦後というのはリピートしてしまって、同じことを10周年か、20周年かの周期で繰り返してしまうという構造があるのは、恐らく、『戦前と戦後が別なんだということを前提にすると、そうならざるを得ないところがあって』・・・

あると思います。

そこを(別にしないで)繋げていくと、その過去から未来に渡って、さらに未来に対しての物語というのを紡いでいくことが出来るので、リピートしないで済むハズなんですけども、「違う」ということにしてしまっていると、どうしても元に戻らないと、あらゆる辻褄が合わないので、「とにかく経済成長で誤魔化しておこうや!」みたいな。

(藤井の熱のこもったジェスチャーと関西弁に思わず)フフッ(笑)

で、ある程度誤魔化していると、貧乏になってくると、なんかこういろいろと問題になってきて・・・

見直さなきゃならん!って話になるんですが、それも結局は、「いやっ、とにかく景気回復をやってくれ!!」という話になる。

「いや、確かにそれは最初にやらなアカンかな」ということでこうなっている。

全てがそこで鵺(ぬえ=得体の知れない化け物)のようにこうすべて飲み込まれてしまう。

(景気)回復出来ちゃうと、「とにかく今は景気がいいのだから、それ以上のことは考えなくていいじゃないか」という話になると。

小林麻子
はぁ。

で、回復出来ないと、「とにかく経済が第一だ、変わらないじゃないか」と言ってですね、結局そういう意味じゃ話が進んでいかないと。【「これが戦後日本の奇妙なレジリエンスである」】とそう思うわけです(笑)

そういう意味で、経済成長出来ていない中でもしっかりとやらなければならないことを見据えつつ、それを、経済成長出来た時に、その資源を使ってちゃんとした国の政策をすることが出来るようになるんですよね。

余裕が出来たらやるんじゃなくて、『余裕が無いけど、やらなきゃならないんだ』と。その観点って(いま)ありませんもんね。

ぼく昔ね、たまたまイラクにね、まだフセインさん(【サッダーム・フセイン】)が権力を握る前、1977年に「イラクの紙幣」があってさ、そこはね、印刷が小麦だったの。

紀元前、何千年も前に小麦文化がね、その歴史を受けて紙幣に変えているの。

小林麻子
はぁ。

日本だって、昔は聖徳太子ね。貨幣はね、単なる流通手段じゃないんですよ。どこか貨幣の中に、例えば聖徳太子が刷られているということは、「それは日本国の紙幣ですよ」と。日本国は「国」だから『歴史』があって、「こういう人たちがいた国ですよ」というのが各国各様に示されているですよね。でも、それを感じなくなっちゃったわけさ。

それで、最近なんかね、コンピュータでボタンを押せば計算出来るとか、全部失敗したようですけどね、やっぱりね、『「歴史感覚」とか「価値感覚」を無くした紙幣というのは、いずれ滅びる』んですよね。

だから、『価値の象徴』ですよね。

そうでしょう。

お金の貨幣とか紙幣というのは。『その価値の近くに歴史がある』と。

だから、どんどん新しくなっていくのがモダニズムだと(西部)先生の御持論ですけども、お金をどんどん新しくしようとは、なかなか起きてこない。

そうだねぇ。

結局、『「価値」というのは、時間の積み重ねを経ないと成立しないから』じゃないかと思います。

そうでしょうね。

その点で実は、(西部)先生が仰る通り、『お金とは、金銭とは言語と良く似ている。』

うん、そうでしょう。

【「(貨幣と言語は)共に価値というものを、象徴的な形で表現する媒体である。」】

そう。

「媒」体って「おんなへん(女)」でしょう?昔から気になっていてね。

小林麻子
はぁ。

(「女」の字は)これはもちろん、前半に佐藤さんが言ったように「巫女さん」ね。霊界とこの俗世を繋ぐね。

巫女さんということもあるんだけど、「女へん」じゃなくて「言べん(ごんべん)」もあるでしょう?(「謀」の字になる)

ンフッフッフ(笑)

これ、物事を「謀」る。

小林麻子
はい。

僕ね、今のメディアを言うと、この「情報媒体(=media)」と言っているけども、『言べん』にしたほうがよくてね?

一同
プッ(吹き出す)

『情報「謀」体?』(笑)

何人かね、それを綿密に計算しているわけでもないんですよね。先ほどの新聞のA紙(朝日新聞)で言えばね、いずれバレる嘘をとりあえずのね、否わしちゃった慣性の法則。「もう何年もやっているから、もっとやってみようか」という慣性でもって続けてとうとう倒れるというね。

小林麻子
そうですよねぇ。

大した「謀(はかりごと)」でもないんですけどもね、なんか、「女性力を活用する」というならば、女性に悪いからね、こちら(女へん)を消す。(媒が「某」の字になる)

アッハッハッハー(笑)

『情報「某」体?』

小林麻子
・・・「某」体(苦笑)

もう一つね、ぼく『情報』という言葉も気になるんですよね。「communication(コミュニケーション)」というでしょう?元々は「意思疎通」と訳すのだけど、あの場合の『意思』っていろんなことが入るんですよね。

気分とか、金の計算とか・・・

そうですねぇ。「志」じゃなくて「思」の方ですからねぇ。(意思)

そうそう。歴史観とかね、いろんなものが入って『意思』ね。「情報」媒体と言っちゃうと、かなり限定されてくるんですよね。「information(インフォメーション)」でしょう。非常にテクニカルにね、形が決まってて、計算できて。

「情報」で伝えられるのは部分、ピース(piece)でしかないですから・・・

そうですよね。

具材を送ることは出来ても、料理そのものは伝えられるないという。

そうなんですよね。

その情報は、インフォメーションとか、あるいは、もっと悪くデータ(data)としての情報でしょう。

そうそう。

本当は、情報というのはインテリジェンス(Intelligence)という言葉もあるわけです。

そうですね。

CIAというのは「中央情報局」と言いますが、あの「 I 」は「information」じゃなくて、「Central Intelligence Agency(CIA)」です。

だから『情報』をちゃんとですね、「世界観」、世界観のためには当然「価値」がなければならない、それに基づいて、「解釈」して、それを出してきたものは、本当は『価値ある情報』なんです。『インテリジェンス(Intelligence)』です。

いろんなものを常に料理を作るように、全体性を常に回復するという志向性がなければ、もうどうしょもなくなってしまいますよね。

いま佐藤さんがね、『情報を解釈しなければいけない』と。大昔にね、『解釈』って言葉を英語で調べてみたんですよ。あれは「Interpretation(インタープリテーション)」でしょう?面白いんですよ。

この場合の「inter(インター)」というのは「enter(エンター)」と一緒で「入ってくる」ってんでね。

はい。

それで「pretation(プリテーション)」がね、「precious(プレシャス)」なもの、「価値あるもの」、つまり、『価値あるものの中に入ってくる』というのが『Interpretation(=解釈)』ね。

「解釈次第」って、日本では簡単に言うけど、『勝手な解釈じゃ困る』んですよね。

一同
(頷く)

やっぱりね、歴史的な価値観にある程度しっかりと繋がるという意味において、価値ある「プレシャス(precious)」、貴重な、それこそインテリジェンス(Intelligence)に入っていくというのが、『解釈』ってことなのね。

常に、全体をつくるそういう力、レジリエンス(resilience)、強靭性というものを持てば、必ず全体性は回復して、いろんな問題、メディアクラシーの暴走も止めることは本来は出来るはずなんだと。

しかも、「Interpretation」というのはフランス語だと『役者が役を演じる』という意味で使うんです。

そうなんだ!

『役を解釈する』わけです。

なるほどねぇ!!

しかし、役の人物というのは、特に古典的な作品の人物というのは、我々の日常を生きている凡人なんかよりも、やっぱり偉大な人間なんですね。

そうか。

『自分を超えた者を解釈して演じることによって、入り込んでる』わけでして、本来、解釈ということには、自分を超えた者と一体化すると、そういうニュアンスが当然あったと。

よしっ!それで締めくくろう。

小林麻子
はぁ。

【結論】なんか戦後レジームはね、いま(佐藤が)言った、役者として、演技としてね、『幼稚園クラスである』と。

全くその通り!

(なんか演技口調の西部先生がとても面白いらしく。笑)

これから、せっかく演技をやるのならばね、いま言った、しっかりとした解釈で、脚本を解釈し直して・・・

小林麻子
はい。

歴史を解釈し直して、他国から褒められるような立派な役者に・・・


小林麻子
立派な人物に・・・

1億2800万人がなろうではないか、という途方もない話で(笑)

ワッハッハッハッハー(笑)

(帽子をとって)どうもありがとうございました。

一同
ありがとうございました(笑)