▪️政論家森田実、「我が人生」を語る①:ゲスト 森田実(西部邁ゼミナール)

▪️政論家森田実、「我が人生」を語る①:ゲスト 森田実西部邁ゼミナール)

ゲスト

政治評論家 森田実 近著:「森田実の一期一緑」(第三文明社

評論家 西部邁 近著:「生と死、その非凡なる平凡」(新潮社)

【ニコ動】

西部邁ゼミナール)森田実、我が人生を語る【1/3】2015.05.10

http://sp.nicovideo.jp/watch/sm26223413?cp_in=wt_tg

小林麻子

今日は当番組でははじめて、政治評論の大家 森田実先生のご登壇です。

西部先生のお話によると、森田先生はどんな政治党派にも偏らず、公平な立場から事実に則してわかりやすい政治評論をなさって著名とのことです。

ただし、今回は政治の現状に関する評論ではなく、そもそも森田実なる人物はいかなる人格の持ち主であるか、それを視聴者に伝えたいとの趣旨で、森田実、人生を語ると題させていただきました。

森田実

あ、ありがとうございます、どうも。

小林麻子

森田先生、はじめまして。

森田先生は、いわゆる「左翼・過激派」の運動にあって、西部先生の大先輩ということで伺って・・・あっ、あのぉ・・・

森田実

あのぉ〜昭和27年、1952年に大学(東京大学工学部)に入って、すぐ左翼の運動に突入しましてね、

小林麻子

はい。

森田実

そして、普通は4年で出るんですが、僕は6年やって、それで押し出されちゃって、

小林麻子

はい。

森田実

学生でもないのに少し(左翼運動を)やっててね、それで入れ替わりの昭和33年に(東大に)西部さんが入ってきたわけですよ。

小林麻子

はぁ〜。

森田実

僕はその、僕と一緒にやってきた【島成郎】(※しましげお)というねブント(※共産主義社同盟:共青同)の書記長、親玉で、それからから【唐牛健太郎】(※かろうじけんたろう)という全学連の委員長で、まぁ英雄的な人間がいてね、彼らと時々会っていると、あのぉ、西部、西部と言うんですよ。

小林麻子

はぁ〜。

森田実

それでね、なんかすごい頭のいい奴だと、彼らが言っているんですよ。だから、僕は彼(西部)に会う前から、名前を知ってたわけですよ。

小林麻子

まぁ。

森田実

それから東大でね、我々の頭のいい学者として有名だった【内田忠夫】さんって経済学者、それから【衞藤瀋吉】さんって国際政治学者。

小林麻子

はい。

森田実

この人たちが、駒場の大将だったわけですよ。それで「会いたい」というから会いましたら、「西部邁という大秀才がいる」と。

小林麻子

おぉ!

森田実

それでね、彼(西部)はものすごい秀才なんだけども、学生運動をやり過ぎて、それでかなり長い間、刑務所に入ってたりなんかしていた・・・

西部邁

(笑)

森田実

それでね、一つ(西部を)応援してくれないかと言うんで、僕は彼らが大秀才と言うんだから、そういうのは滅多に聞く話じゃないんですよ。

小林麻子

へぇ〜。

森田実

学者は他人を褒めないからねぇ。

小林麻子

すごいこと。

森田実

だからそうだろうと思って、経済セミナーに連載して下さいと頼んだら、もうその連載が中央公論から本になって吉野作造賞をとって、それでね、天下の西部邁になっちゃったんですよ。

[*「経済倫理学序説」 吉野作造賞受賞(1983)]

→ この名著が復刊されましたね。それにあたり佐伯啓思氏の寄せた文章はこちらです

http://d.hatena.ne.jp/manji_ex001/touch/20140809/1407511124

小林麻子

すっ、すごいですねっ。

西部邁

ちょっと途中で悪いんだけど、今の話聞いてたら、頭が痛くなってきたんで帽子を被らせてやらせていただきますけども(笑)

実は麻子さんね、視聴者の皆さん、

小林麻子

はい。

西部邁

僕は昭和33年に大学(東大)に来たんですけど、もう既にその頃はね、森田さんは大学運動の「雲上人」・・・雲の上の人でね、僕らと一緒にやってる2つ3つ上の先輩はよく言ってました。

森田実ならどうするだろうか・・・」ってね。

小林麻子

う〜ん。

西部邁

つまり、実戦家としてね、人の予想もつかない、こんなこと言ったら悪党のように見えますけどもね(笑)、人の想像のつかない戦略・戦術を捻り出してきて、結果として万余の群衆・大衆を動かしてみせるというね。

小林麻子

うん。

西部邁

それでね、物事の裏も斜めも全部読んだ上でやるというね、そういう能力を(森田から)数年後輩の人たち、でも僕らの先輩にあたる者たちが「持たない」ものだから、いつも、森田ならばどうするだろうか、というのがね、一つのテキストになってて、それで僕は森田なる人物の名前を早くから知ってた。

小林麻子

へぇ〜。

西部邁

実際にお会いしたのが、こと(学生運動)が終わって、僕も森田さんも違った理由でしょうけどね、まぁ簡単に言っちゃうと・・・

『左翼運動はくだらない!』

という結論に達して(笑)姿を消す。何人かいたんですけど、きれいに姿を消してね、後腐れなく、ズルズルズルズル何か尾ひれをつけないで、スパッとそこで自分の人生をピリオドを打った、一旦ね。そういう人物はほんの少数、何人かいるんですけど、そのうちの(森田は)お一人ね。それが終わった後でお会いしてね。

小林麻子

はぁ〜。

西部邁

もうちょっとよろしい?

森田実

(うん)

西部邁

でもね、その頃、森田さんもいろんな人生がおありだったのでしょう、いろんな才能お有りですからね・・・博打の才能もすごいんですよ!

貧乏人からすればね、大量の金銭をいわば上納することになるんですよ。上納って言わないね、博打の負けだから。それでね、やっぱり博打の負けは本当に人の命より大事で返さなきゃならない。

小林麻子

はい。

西部邁

それで返しに入って、その時にね、金、原稿料も一銭も来ない。ただひたすら(森田は)「経済セミナー」(日本評論社)の編集長をなさってたんで、そこに原稿を献上すると。全ては博打からはじまった。

小林麻子

ウフフフフ(笑)

森田実

あのね、あの〜、西部さんにはね、いいと言ったんだけど、彼はね「意地でも返す」と。

小林麻子

アハハハハ(笑)

西部邁

(笑)

森田実

そんなことあったんだな(笑)

ただ、これ非常に重要なことなんですが、西部さんが東大の教授になって、経済学者として活動しはじめてからね、西部さんは凄かったですよ。

というのはね、僕は「経済セミナー」の編集長をやってたから、経済学者と付き合った。で、みんなね、『細分化・専門化』ね。これでね、足掬われたね、経済学者。

それからね、『数学」に頼ればなんとかなると。で、僕は自分で勝手に『数学の罠』と言ってるんだけど、それにハマってね、ロクな経済学者にしかなれなかったんだと思う。

それと反対側の、そういう個別化だとか数学化だとかいうのはダメだと。

『経済は哲学なんだ。思想なんだ。社会思想なんだ』

・・・というんで、経済学から社会思想に全体として行った。そういう人は、東大経済学部出身者では西部さんだけなんですよ。

西部邁

つまりね、森田さんも僕も、他にも何人かいるんですけども、いわゆる政治的実戦活動のまだ牧歌的な時代ですから機関銃も爆弾もピストルも無いような時代で、あるのは子供の遊びと同じでね、まぁ石ころがあるというぐらいの時代だけども、でもね、そういうこと、そういう実戦に関わっていると、いろんなことが見えるでしょう?

人間について言えば、大胆さとか卑怯さとかね。正義心とか臆病さとかさ。なんか、そういう人間の複雑な模様をね、数年間に渡っていろいろ見てしまうと、また、自分自身もそれに関わってしまうと、その『数学のような単純な形式ではね、表せないほど世の中は複雑怪奇』だということを、もう子供心に幼心に理解してしまう。

そういう経緯で僕は、数学的授業をやめた。まぁそういうことなんだけどね。

小林麻子

はぁ〜。

西部邁

それはいいとして、今日は森田さんの話じゃない。

小林麻子

す、すごいお二方・・・。

西部邁

麻子さん知らないでしょう、【砂川事件】(1957年)、【砂川闘争】という言葉、知らないでしょう?

小林麻子

あっ、はい、えぇ。

西部邁

視聴者も知らない人いるから。

(黒板を使って)ここに新宿があるとするでしょう、これに中央線が走って、ここに立川ってのありますよねぇ。

これ立川飛行場その他があって、米軍基地、米軍に摂取されたんですよ。ここ(新宿)に西武新宿線が走ってるでしょう、まぁこのあたりになるのかな、有名な駅名で言うと東村山ってあるでしょう、それでこれ(中央線)と繋いだとすると、今はモノレールでだいたい繋がっているんですけどね(※現在の多摩都市モノレール線)、このあたり(現在のモノレール線沿線付近)にあるのが「砂川」というね、そういうところで。

その砂川というところに、まだ米軍が基地を拡張しようとした時(※現在は立川基地跡地となっている)に、森田氏が先頭どころかほとんど1人で仕出かしたみたい。仕出かしたという表現は悪いけども、学生を組織して、そこ(砂川闘争)に動員して、それで警察の機動隊と衝突して、まぁ普通は流血の惨事と言われていたようですけども。

僕はまだその頃は札幌におったんですよ。

小林麻子

はぁ〜。

西部邁

これが、1956年が最初で、次の57年もあったんですね。

森田実

そうです。

西部邁

僕はその後の58年ですから。札幌でそれを新聞の片隅で感じてただけなんだけど、これが、つまり簡単に言うと、アメリカに対して真正面から、筆の上じゃなくて体ごと、農民と一緒になって反対するという、そういうことを忘れられてしまったけど、今から思うとあれですね、戦後70年の、結局アメリカに首根っこ捕まえられて、右行け左行けとしたい放題。

今もそうなんですよ、僕ね、安倍晋三内閣、晋三さん個人は消極的に応援しているものだけども、でもしかし、安倍さんも含めてね、結局、アメリカのレールから、敷いたレールから外れられない。そういうことに対してかつてね、今から何年前になるのかなぁ・・・50年以上前にね、本当に一握りの学生たちがそこへ突撃して行ったってね。そういう時の(森田は)最高指導者なんですよ。

森田実

まぁ〜あの〜出発点はね、あの〜戦後の出発点もそうなんですが、ポツダム宣言ですよね。で、ポツダム宣言というのは、13項目になってて、それで、降伏しなさいという第1項からはじまりまして、降伏したら、戦争犯罪人を追求しますよと。それで民主主義的な制度を入れなさいと、いうことがずっと書かれて。

[*wikiでもいいですが、クソみたいなポツダム宣言はこちら

http://matome.naver.jp/m/odai/2136232117008395701

森田実

まぁ、日本はかなり真面目にね、ポツダム宣言を実行したんですけど、12項目の中に、日本が平和的で民主的な政府を作ったら占領軍は直ちに撤退する、という項目があるんですよ。だから、みんなそれを信じていたんですよ。ある時期がくれば撤退すると。

[*ポツダム宣言第12条 “占領軍の撤退”を明記]

森田実

ところが、サンフランシスコ講和条約の時に、国会でも議論されず、国民にも何も知らされず、当時の吉田首相(吉田茂)ですらも国会で質問されて「知りません」と答えた【第一次日米安保条約】(※1951年、講和条約と同日に締結)が突如として、サンフランシスコにて吉田さん一人がサインするという形で調印されて、サンフランシスコ講和条約日米安保条約の両条約が締結されたという形で出てくるんですよ。

ちょうどその時に、僕は高校生で、それで浪人してそういう左翼運動やってる時で、大学に入ったのは1952年、昭和27年で、その年の4月28日に日本が独立するわけですね。講和条約が発効して。(※サンフランシスコ講和条約の効力は調印翌年の1952/4/28から)

で、もうその時には、左翼運動に突入して、どんどん運動しているわけですが、講和条約と共に日米安保条約の第一次が締結された、それに基づいて行政協定(※【日米行政協定】1952年:日米安保条約第3条に基づく行政協定、安保改正の60年にはこれが「地位協定」に)が結ばれて、そして行政協定に基づいて、基地拡張になるわけですが、アメリカはね、占領が終わった時に、沖縄とか岩国とか横須賀とか大きな基地は全部押さえたんですよ。で、そこは全部押さえてたんですが、もっと欲しくなってね、立川基地は拡張しろ。それから、いろんなところの演習場は作れと、いろんなところで欲を掻いたわけですよ。で、その欲を掻いたところで、あの【反対運動】が起こった。

砂川(闘争)の場合は、55年から始まったんだけど、労働組合社会党が警官隊が出てきたら身を引いちゃったから、あの砂川町の農民そのもの、それから行政の人たちがね、警官隊と直接対決しちゃったんですね。

[*砂川闘争:米軍基地拡張に反対する住民運動

小林麻子

あぁ〜。

森田実

学生は危ないって言ってね、敬遠されてた。こちらの力が無かったのだけども。あの地元からね、学生さんだったら私たちを守ってくれるんじゃないかと、言うんでね・・・

西部邁

あ〜そうですか。

森田実

【青木市五郎】さんという行動隊長と、それについてきたのが【清水幾太郎】さんという、基地反対の進歩的文化人の代表的な人でした。学生の教育者でしたけども。

それから、【高野実】さんってね、直前まで(日本労組)総評事務局長を務めてた、まぁある時期は労働組合天皇とまで言われたほどの超実力者でね、確か、言論界でやってる【高野孟】さん(たかのはじめ、ジャーナリスト)って人が息子さんですよ。

[*青木市五郎(1900~1985) 砂川闘争の第一行動隊長/ 清水幾太郎(1907~1988) 学習院大学教授等を歴任、社会学者、評論家/ 高野実(1901~1974) 労働運動家、日本労働組合総評事務局長などを歴任]

森田実

その人とね、三人がやってきてね、僕を引っ張ってきて、それでね、四ッ谷の蕎麦屋の二階で鰻をご馳走になってね、

西部邁

そうですか(笑)

小林麻子

はぁ、ご馳走を。

森田実

口説かれてね。それで、特に清水さん(清水幾太郎)が、「森田君、立つべし!」と。それで僕は(東大の)卒業をやめてね、残ったんですよ、(学生)運動の中にね。清水さんがものすごいアジテーターなものだから。

西部邁

ものすごかったねぇ〜

森田実

ものすごかった。それで一緒にやろうってんでね、それで参加してったんですよ。

で、その頃は、学生運動っていったら月一日つきね。というのは、昭和26年に、まぁ中国の勧めがあって、その『極左冒険主義』というかね、『武装闘争』というんだ。竹槍作ったり、火炎瓶作ったりというそういうような運動に入っていって、

小林麻子

はい。

森田実

それでもう、ガチャガチャになって、東大の共産党の最後なんてのは200人ぐらい居たんですけどね、会議やっても数人ぐらいしか集まらないんですよ。

小林麻子

はぁ〜あ。

森田実

それで、全学連の本部なんかも作り直そうっていうんで、僕と島成郎と【香山健一】(※こうやまけんいち:全学連第2代委員長、学習院大学教授、政治学者)と、この3人でもってあの『全学連本部』を作ったんですが、その3人の他に2、3人しかいないんですから。

西部邁

ハハハ。

森田実

それでね、まぁ清水幾太郎からね、声涙倶にくだる(せいるいともにくだる)口説きを受けて、それで、青木市五郎っていうすごいオッサンから涙の説得を受けて、

西部邁

あぁ〜そうですか。

森田実

それじゃあ〜やろうじゃないかと。

小林麻子

やろうじゃないか。

森田実

それで、そのバスをあれしてね、東大の駒場とか、東大の本郷とか、早稲田とか中大とか法政とか明治とか、

小林麻子

はい。

森田実

そういうとこへ行って、バスに乗せては「砂川」に行って、それでその間に教育してね、それで3000人を集めてね、警察機動隊と激突したんですよ。

小林麻子

えぇ。

森田実

それが、あの『流血の砂川』の映画(※ドキュメンタリー映画「流血の記録 砂川」)

[*“流血の砂川”(1956年10月) 測量中止へ]

小林麻子

はい。

[*“流血の砂川”(1956年10月) 測量中止へ]

西部邁

ちょっと説明するとね、この(砂川闘争開始の)55年というのはね、

小林麻子

はい。

西部邁

記録(映画)作ったりして、共産党が、ともかくもうやめたと。火炎瓶投げたり。今度ね、逆に『歌声運動』で歌うたって人々集めようとする。でも両方とも何の意味もないと。それでしゅんとしちゃったのね、何にもしなくなっちゃったの。

それで、55年によく「六全協」っていうんだけど、第6回全国協議会、六全協って集まりをして、それで共産党がそれ以後は「国民に愛される共産党」という、いわば一般政党に変貌しようとした頃で、あまり過激な強い運動をしなくなった。その後の話(砂川闘争)なんです。

[*日本共産党 第6回全国協議会(1955) 武装闘争路線に終止符]

西部邁

その時に、ある種、強い動きが出来るのは、森田さんを先頭とするほんの一握りの学生集団しかいなかったのね。そこで、彼らは(砂川闘争を)やり始めたわけさ。

小林麻子

はぁ〜。

西部邁

で、僕はなんとなくそんなことを感じながら、3年遅れで58年に東京(大学)にやってきたという、まぁそういう経緯だったんだね。

小林麻子

すごい。

森田実

まぁ〜、表に出てないことですけどね、55年の7月の末に、第6回全国協議会という共産党の意志決定機関(六全協)が開かれて、極左冒険主義と党の分裂は間違いだったと。共産党というのは自己批判しない組織ですから、それが「自己批判した」もんですから、内部がガタガタになっちゃってね、僕は東大の共産党の最後の責任者だったから、会議を招集したんですよ。

まぁ〜200人ぐらいいるのに7、80人しか集まらない。それで、みんなに発言してもらったら、「共産党本部に騙された!」と。

西部邁

フフフフフ(笑)

森田実

涙の演説が続いてね、それで、僕は一人泣かなかったもんだから、「森田の野郎なんだ!!」って追求されたりなんかしてね。

小林麻子

(笑)

森田実

それでね、じゃあ〜共産党本部に追求に行こうというんで、共産党の本部に行くと、【野坂参三】(※コミンテルン日本代表、日本共産党第一書記)とか【志田重男】とか、そういういわば(左翼勢力の)「神」みたいな位置にあった連中が本部にいるわけですよ。

それで、追求すると逃げるわけですよ。で、結構、卑しい奴だということもわかってね(笑)

西部邁

あっはっはっは(笑)

森田実

それでね、追いかけたのだけども、翌年の3月頃までやってね、いくら追求してもどうしようもない奴は追求のしがいが無くてね、それじゃあ〜大衆運動起こそうというんで、大衆運動をやって、その時に、砂川の話が入ってきてね。それじゃあ〜基地反対運動でやろうじゃないかと。

小林麻子

へぇ〜。

森田実

だから、その前に8ヶ月ぐらいかな、共産党を徹底的に追求してね、こいつらどうしょもないヤツらだと言って、私なんか共産党本部に行くと、顔パスで自由に通れるわけですよ。で、怒鳴りまくるわけですよ、「お前たちは何だ!!」って言ってね。そんな感じでしたよ。

小林麻子

へぇ〜。

西部邁

すいません、小さい話だけどね、55、56、57、これ砂川ね。で、僕が大学に入ってきた58年、後で知ったんだけど、この年の6月にね、僕は(大学に)入ってまだ2、3ヶ月・・・森田さんを先頭にして、何十人かが共産党本部に押しかけてね、どっちが仕掛けたか、現場にいないから知らないんだけど、乱闘事件が起こって、普通で言うと「暴力事件」だね。

小林麻子

(笑)

西部邁

それで皆さんね、乱闘事件の責任を取らされて、共産党の最左派であった森田さんご一統がほぼ全員、共産党から処分、切り離されると。

小林麻子

あぁ〜。

西部邁

パージ(追放)されるということが起こって、この58年の末に、先ほど「ブント」という言い方しかしなかったけど、ブントというのはドイツ語で「同盟」という意味でね、『共産主義者同盟』なるね、言ってみれば、まぁ僕に言わせれば【八百長組織】だな。それを俄かづくりに作らざるを得なくなったけど、既にその頃は、森田さんはちょっと(組織とは)距離を置いていましたんでね。

[*共産主義者同盟(ブント) 1958年結成]

西部邁

僕は森田さんとは・・・僕は何にでも、ともかく、暴れるつもりで東京に来たもんだから(笑)

小林麻子

アハハハハ(笑)

西部邁

何にでも一番暴れられるグループにいて・・・でも、その時はもう森田さんは会わずじまい。実際に会ったのは、全てが終わって、随分、何年も経ってからの話なんですけどね。

いずれにしても、森田実の名前はずーっと続いてましたね。「あいつならどうするだろうか」と。ある種の判断力と行動力と、言ってみれば、達人としてのね、そういう存在だったんです。

森田実

あの〜、【宮本顕治】がね、野坂参三だとか志田重男だとかを我々がバンバン叩いているうちにね、宮本顕治がムクムクと出てきて、それで(共産党)本部の政権をとっちゃうんですよ。

[*宮本顕治(1908~2007) 共産党書記長などを歴任]

西部邁

おぉ〜そうか。

森田実

それで、宮本顕治だけは負けず嫌いで、(拳を)やり合うわけですよ。それで、やり合ってるうちにね、その(西部が)いま言った事件(共産党追放騒動)が起こって、事件の責任者として、僕とね、香山健一と、それから一高時代から暴れ人間として有名だった【野矢鉄夫】ってのがいたんですよ。

西部邁

あぁ〜いましたねぇ。

森田実

その3人がね、除名処分で、それで、島成郎だとかってのは一年間の活動停止処分かな。

[*参考サイト:60年安保から50年 6人の証言(知の木々舎)

http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2010-09-10-8

西部邁

へぇ〜。

森田実

その何段階かに分かれてね、(共産党本部に)首切られて。それで、僕は晴れて共産党から自由になるわけです。

小林麻子

はい。

森田実

それで、学生運動は、共産党の最大の舞台ですから、これを共産党から切り離してしまえば宮本(顕治)に一矢報いられるというんで、それで学生運動共産党から離しちゃったんですよ。

だから、「東大の共産党」というのはね、本郷に200人ぐらい、駒場に150人ぐらいいたんですよ。

小林麻子

はい。

森田実

で、解散になるわけです、組織そのものが。だから解散になっちゃうから、一人一人が名前を挙げて除名されないから、共産党に立って経歴があると、あの頃はアメリカが入れてくれなかった(入国拒否)んですよ。

西部邁

そうそうそう。

森田実

だけど、解散になっちゃったから、共産党員だったという経歴が消えちゃったんで、みんな自由にアメリカに行けるようになったんです。

小林麻子

はぁ〜あ。

森田実

だから、僕や香山(健一)以外は、どんどんアメリカに入れるようになって、そしてアメリカで勉強してきて学位を取って、学会に復帰して、それでみんな学会リーダーになってったんですよ。ねっ。

西部邁

う〜ん。

森田実

その中の最高の人物が西部さん。

小林麻子

はぁ〜あ。

西部邁

一週目、もう時間も終わるんですけど、まぁ僕は視聴者に訴えたいのは、1950年代にね、まぁそこにはいろんな「誤解」も「錯覚」も「素っ頓狂」もあったんだけど、何れにしても、そこには、これは1950年代の前半ですけどね・・・アメリカ軍という巨大な物理的存在があって、それは米軍基地という形で、その後も(今も)尾を引くんだけども、そういうものも真正面に相手にしながら、闘うというか、動いていた・・・そういうグループがかつていたんだと。

あの段階で、いつも【アメリカのことが問題だった】んですねぇ。

森田実

そうそう。だから57年の時には、アメリカ兵がカーピン銃を構えて、我々に向けてたんですから。そんな中で基地に突入して、それが今の砂川裁判なんですよ。

西部邁

だから、今はなんかね、アメリカとさ、『日米同盟』とかって言ってね、アメリカとお手手組んでればなんか良いことあるわいぐらいの風にしかなっていないけど、あの時には、だってその10数年前には、日本軍はアメリカに大敗したんだからね。非戦闘員の90万が焼き殺されたのも含めて、中国大陸も入れれば、合計300万の大量死を出しながら、アメリカと戦ってきた。砂川事件というのは、それが終わった11年後の話ですからね。

小林麻子

はぁ〜。

西部邁

まだこの硝煙の臭い消えやらぬ頃の青年群像の筆頭に(森田は)おられた。

ですから案外ね、いろんな意味であれだけれども、やっぱり多くの支援が間接的にはあったハズですよ。

森田実

うんうん。

西部邁

イデオロギーを認めるとか、理論を認めるとか、そういうことじゃなくてね、『なんか起こるべくして起こった運動だということは、多くの国民が直感してたんですよね。』

小林麻子

はい。

西部邁

なんで、人の国に他国の軍隊がいて、偉そうな顔してカーピン銃構えてるんだよって!

小林麻子

そうですね。

西部邁

勘弁しねーぞってね、そういう感じ。

小林麻子

うん。

西部邁

ということが通じていた時代があったの。

小林麻子

はい。

西部邁

ということでね、まぁそこは森田さんの前半生で、次の週は、何故、このように羽織袴を着られる存在になってくるのかということが、次の週で語られるハズです(笑)

小林麻子

はい。はぁ〜楽しみです。

西部邁

今週はありがとうございました。

一同

ありがとうございました。

【次回】我が人生を語る(六十年安保の英雄たち) ゲスト 森田実