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◾️第3期表現者塾 『西郷南洲』論 於:日本記者クラブ(内幸町)講師:澤村修司(西部邁ゼミナール)

◾️第3期表現者塾 『西郷南洲』論 於:日本記者クラブ(内幸町)講師:澤村修司(西部邁ゼミナール)

【ニコ動】

西部邁ゼミナール)表現者塾「西郷南洲」論 2015.05.31

http://sp.nicovideo.jp/watch/sm26380200?cp_in=wt_tg

小林麻子:女優

6月25日~28日 世田谷パブリックシアター SWANNY vol.7 作 ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー『ゴミ、都市そして死』『ネコの首の血』

澤村修治:評伝作家・評論家

1960年、東京都生まれ、千葉大学人文学部卒業、新書・選書などの編集長を務める。

2010年「徳田秋聲、仮装と成熟」で本格的に作家活動を開始。

2014年「天皇のリゾート ~御用邸をめぐる近代史」、12月まで雑誌「表現者」に「西郷南洲論」を寄稿、現在は「表現者」に「暴れん坊と畸人の時代」を連載中

◉オープニング

小林麻子

今日のゼミナールは特別編として、表現者塾の模様をお伝えします。表現者塾は、番組「西部邁ゼミナール」、雑誌「表現者」と連動した“思想の実践の場”としての塾、全国から多くの塾生が集まっています。

今回講師を務めるのは、評伝作家の澤村修治先生。澤村先生は気鋭の作家として多方面で活躍しています。

今回のテーマは【西郷隆盛】。

澤村先生が、誤解された西郷の真の姿を教えてくれる模様です。その前に、西部先生からコメントが届いております。

西部邁(コメント)

えぇ、ご存知の方も多いでしょうが、私どもの発行している「表現者」、それをMXテレビがサポートしてくれておりまして、MX・表現者共同主催という形で、公開された塾を開いております。

去年も今年もやっておりますが、今日はたまたま私が体調を崩して欠席で、塾の現場にはおりませんけども、評論家の澤村修治さんが西郷南洲について、見事なレポートをされるはずです。ご清聴下さい。


◉本編(前半) 

澤村修治

西郷さんというのはいろんな顔がありますが、政治家としての顔ですとかね、たいへん義侠心に富んだ組織のリーダーだとか、そういった顔がありますが、なによりも【軍人】なんですね。陸軍の軍人です。

[*“軍人”としての西郷隆盛

この軍人、武職者だということが前提とならないと、西郷さんというのはよくわからないのではないかな、というところです。

西郷隆盛は、我が国初めての「大将」でした。当時は海軍大将というのはありませんでしたから、陸軍大将ですが、軍のトップということを、近代の軍の制度の最高位を得たのが西郷南洲ということでございます。


⚪︎西郷への誤解を糺す

もう一つ、西郷さんについて誤解はされていないと思うのですが、念のために、誤解をされている方のためにそれを解くべく言いますと、「西郷隆盛が封建逆光勢力のようだ」と。「近代というものを理解しなかった。だから、西南戦争で滅びたんだ」と。そういうような位置づけなり、描かれ方がされているものを私も時々目にします。

西郷さんは、封建時代に戻ればいい、近代化を拒否だ、という勢力ではありません。『彼らは近代化へのある意味での理解者でした。』

近代化をどう進めていくかによって、考え方の違いがあっただけ、というふうに私は考えています。

西郷軍は『西南戦争』の時に、言うまでもないですが、西洋式の軍備を備えております。もちろん、銃も使っております。

またなにより、西郷隆盛の主将格にであり、彼に深い影響を与えた藩主に【島津斉彬】という人物がおります。

[*島津斉彬(1809~1858) 薩摩藩第11代藩主・藩の富国強兵に成功]

久光の前の代なんですが(※注:斉彬の弟の久光は藩主にならず、藩主の父という立場。国父と称された)、この斉彬は藩において『欧化政策』を先進的にとった藩主というふうに言われております。

富国強兵に努め、藩において、例えば、斉彬がやったことは、洋式造船、それから反射炉、または、溶鉱炉を造りました。地代、水代、ガラス、ガス菅こういったものの製造に取り組んでおります。

極めて開明的な君主であった。その愛弟子が西郷南洲でした。そういったことを考え合わせれば、彼は近代否定のガトリング砲に刀を抜いて対抗すると、、そういうイメージの人物とは違うかなというふうに考えていただきたいと思います。

幕末において、『挙国一致で近代化を進めないといけない』というのが、西郷南洲を含めた幕末の活動家たちの結論でした。そのために紆余曲折あったものの、みんな同じ目的で行動したというのが幕末であります。かくして、明治維新が実現したわけで、西郷南洲はその最大の功労者でした。

にも関わらず、西郷さんは明治10年、【西南戦争】、これは日本の近代における最大の内戦ですけども、これを引き起こして、最大の功労者が、最大の批判者になったと。これが、すごく西郷さんの不思議でありまして、西郷さんというのは調べれば調べられるほど、不思議な人物であるというふうにつくづくに思う次第であります。

[*西南戦争(1877) 維新最大の士族による反乱]

だいたいですね、古今東西、革命、あるいは変革の指導者の功労者であり、しかも、国民のものすごく人気のある人物、西郷さんは明治天皇も西郷さんを大好きでしたから、みんな西郷さんが大好き。

功労者であり、人気のある人物というのは、【独裁者】になるんですね。西郷南洲もなろうと思えばなれたんだと思います。しかし、彼はそれ(独裁者)にならなかった。この辺りも不思議なんですが。

西郷さんは、『自分を取り立ててくれた島津斉彬公への御恩返しはこれでできた。自分は新政府の高官になって、人々の上に立つなんてできない』、ということで実に無欲恬淡(むよくてんたん)として、故郷に帰ります。

そして、西郷南洲は、よく知られたことですが、維新の原動力であったにも関わらず、「近代社会には無用だ」ということで、太政官政府に切り捨てられようとしていた武士たちを救済しようとします。こういった活動を通じて、西郷さんは「新政府への批判者」というふうになっていきます。最大の功労者にして、最大の批判者、まして新政府の権力者にも独裁者にもならず、むしろ、無慾恬淡として政府を去ったと、こういった人物が魅力的でないハズはありませんが、『近代というものを考える時に、西郷さんというのは一体なんだったのか』・・・という謎解きをするというのが、非常に重要かなと思います。


⚪︎戦後の知識人は「西郷南洲」をどう見たか

まず第一は、知識人の南洲像ということです。

実は、西郷隆盛西郷南洲というのは、「戦後の日本の知識人にとっては、極めて不人気です。」あまり、正面から取り上げられてきませんでした。

とりわけ『左派系と言われてる知識人は、どこか南洲を敬遠してきた』いうのがあるのは偽ざるところかなと思います。これは幾つか理由があるんですけど、西南戦争という、近代の大反乱を起こしたわりには、じゃあ、南洲がどういった国を目指していたのかと、当時の太政官政府がやっている近代化と違う、どういう近代化を彼は具体的に求めていたのかというのが、実ははっきりしないと。

また、これはよく知られていることなんですが、西郷南洲は、昭和期のいわゆる軍国政治の中で、持ち上げられました。アジアに覇を唱える当時の日本の行動の元祖のような人物として、祭り上げられます。まぁ、これは、西郷さんの責任ではありませんが、これが「戦後」ではマイナスになったと。とりわけ、左派系の知識人は戦争批判の観点がありますから、これも相まって、なんとなく西郷さんは敬遠されるようになってしまいました。


⚪︎保守系の知識人の「南洲」論/ 江藤淳三島由紀夫

それでは『保守系』の人はどうかと。保守系の方々に西郷論、優れた西郷論というのは、戦後において集まっております。

【葦津珍彦】(あしづうずひこ)の『永遠の維新者』、それから【江藤淳】の『南洲残影』、こういった作品があります。

[*江藤淳(1932~1999:文芸評論家)「南洲残影」(1998文藝春秋)で西郷を描く]

また、【三島由紀夫】の『革命哲学としての陽明学』を割腹するそう遠くない時期に書かれたのですが、この中にも・・・この論文は大塩論、大塩平八郎論なんですが、西郷南洲が登場をしております。

三島の論は「大塩論」が中心で、西郷さんはどちらかというと主従の「従」の方に立っている。

それから、江藤さんにしてもですね、これは担当編集者の間接的なエピソードなんですけど、「南洲を書いて下さいよ、先生!」と言ったら、江藤さんは、『いやぁ、自分は「治者の文学」だから、反逆者の南洲はちょっと困るよ』と。

[*治者の文学 「治める」側の人間を描く]

治者の文学というのは、江藤さんの『成熟と喪失 ~“母”の崩壊』という有名な文芸評論の中に、【庄野潤三】(※1921~2009:小説家)の『静物』という作品を評価して、「治者」「治める者の文学」ということで、たいへん高く評価しております。江藤淳という優れた文芸評論家の直観力の素晴らしさが、あの中に幾つか重要な指摘をしております。たいへん子細に富みますし、その意味では名作というふうに言ってよいかと思います。

三島由紀夫は、もう一つ、産経新聞に書いたエッセイですが、『銅像との対話』という短い文章があります。

[*三島由紀夫(1925~1970)「銅像との対話 西郷隆盛」(1969年4月23日付の産経新聞)]


⚪︎「西郷」が解らなかった三島由紀夫

三島由紀夫はその銅像の南洲を見て、最初はいいとは思わなかったと、西郷隆盛が。それは、三島由紀夫が、あのギリシャ的な均整のとれたあの美しい肉体を是としてですね、あの南洲は、いわゆるずんぐりむっくりで、あんまり体が美しくないんですね。

この体形への言及というのは象徴的なことで、おそらく、三島由紀夫さんは、南洲がたぶん解らなかったのではないかと。まぁ、彼は正直に「自分は解らなかった」と書いていますから、そのように私は見ています。西洋のギリシャ的な、均整のとれたものが美しいと、素晴らしいと、そういうふうに考え、あのずんぐりむっくりの南洲は、なんだかよく解らないよというふうに言っていたのかもしれません。後になって、西郷さんの膾炙は自分はわかったということを三島さんは言っておりますが、当初はそうであったということでございます。

つまり、戦後の知識人、左翼系からは敬遠され、保守系からはなんだかよく解らないと言われたのが西郷隆盛でした。


⚪︎戦前・明治期の知識人の「南洲」論

これは実はですね、戦後知識人が押し並べてそういうスタンスをとっているんですが、『戦前』に目を転じると、全く知識人の南洲の捉え方が違います。

『明治の知識人というのは、西郷南洲を極めて好意的に論じている人が多くございます。』

福澤諭吉】、これも有名ですけども、『丁丑公論』(ていちゅうこうろん)というのを載せてまして、このように福澤は言っています。

[*福澤諭吉(1835~1901:思想家)『丁丑公論』(1901年時事新報に掲載)]

『西郷は天下の人物なり、日本狭しといえども、国情厳なりと言えども、あに1人を容れるに余地なからんや

日本は1日の日本にあらず、国法は万代の国法にあらず、他日この人物を持ちうるの時あるべきなり、これまた惜しむべし』

これはなんと、西郷さんが城山で滅びた明治10年に書いたと言われています。ただ、当時、「逆賊」を持ち上げるのは不味かろうということで、発表は随分あとになったという曰く付きの論文でございます。

他にもですね、【徳富蘇峰】、【中江兆民】、【北一輝】、【石川啄木】と、言ってくとキリがないんですけど、当時の知識人はですね、みんな西郷さんを評価しております。

それから、文学者に目を転じますけども、【夏目漱石】、この漱石もですね、実は南洲のことを好意的に書いております。

こういった明治人はですね、江戸時代の『士族』の生き方、志向というのを生々しく知った人たちです。ゆえに、いかにも【「士族らしい態度を保ち、武士らしく死んでいった西郷さん、滅びていった西郷さんに対して強いシンパシーを感じていた」】ということがわかります。


⚪︎戦前・大正期の知識人の「南洲」論

大正期の知識人もですね、西郷さんについて触れております。あまり知られていないんですが、【宮澤賢治】、『雨ニモマケズ』、『銀河鉄道の夜』の宮澤賢治ですが、この宮澤賢治もですね、実は西郷さんのことを書いているんですね。

[*宮澤賢治(1896~1933:詩人・童話作家)『雨ニモマケズ』・『銀河鉄道の夜』で知られる]

未発達の詩ですが、『鎧窓おろしたる』という作品の中にこのように出てきています。

「車室の夢のなかに 乱世のなかの 西郷隆盛のごときおももちしたるひとありて」

というふうに書いてあります。

[*宮澤賢治 未発表詩「鎧窓おろしたる」
鎧窓おろしたる
車室の夢のなかに
乱世のなかの
西郷隆盛のごときおももちしたるひとありて
眉ひそめし友の
更に悪き亀のごとき眼して
暑さと稲の青きを怒れリ
洋傘の安き金具に日は射して
貴紳のさまして
鎧窓の下を旅し
淡くサイダーの息はく
をのこぞあはれなり
そこに幾ひら雲まよひ
そこにてそらの塵沈めるを
二六時水あぐるてふ桶の
みのらぬ稲に影置ける
また立えりのえり裏返し
学生ら三四を連れ
肩いからして行けるものあり

参考サイト: 
http://why.kenji.ne.jp/review/review59.html

宮澤賢治西郷隆盛のイメージは、ご覧の通り、乱世の英雄だったというふうに思われます。


◉番組後半へ

小林麻子

前半は、西郷を戦前・戦後の知識人がどう論じたかを中心に語っていただきました。

後半は、武力で朝鮮を開国させるという主張、【征韓論】を巡ってお話ししていただきます。

政府は、賛成・反対を巡って二分しており、賛成の西郷は(征韓論)論争に敗れてしまいます。

その時、西郷は何を考えていたのか澤村先生が教えてくれます。

[*征韓論:当時 鎖国政策をとっていた朝鮮を武力によって開国させようとする主張]

[*征韓論論争(1873)

賛成:留守政府が中心

板垣退助後藤象二郎江藤新平

反対:使節団が中心

岩倉具視大久保利通木戸孝允


◉本編(後半)

⚪︎西郷隆盛の「征韓論」を巡って

澤村修治

私の見方なんですが、あの資料にあらわれた西郷南洲は、当時の政治状況、あるいは、他の参議たちの趣向に対して、少なくとも、複雑な神経をつかっていたということは言えると思います。

その中で、征韓、大陸に武力で攻めていくという考え方と、それから交渉するんだよというのが、多少その局面ごとに綯い交ぜになっていた、これは事実だと思います。

ちなみに、『征韓論』が西郷さんに全て責を負わされるようなんですけど、明治2年に【木戸孝允】が言ってますから、極めて早いうちから明治政府の中では、半島に軍を進めるということは、一つの考え方としてあったことは間違いありません。その中で『征韓論』というのは出来てきたわけです。

まぁ、こういう局面ごとに西郷さんも、なんか、平和交渉をもっぱらしたというのは正直無理があると思いますけども、そういう側面があったということは否定しませんが、少なくとも一貫した積極軍事力推進論者ではなかったことは私は明らかだなというふうに思っております。


⚪︎ 西郷が求めた「大義名分」

もう一つ、西郷さんの征韓論にとって、忘れてはならないことはですね、軍事力を使用するのはいい。ただ、その時は【大義名分】が必要であると。

なんか、攻め込んでいけばいいのではなくて、誰もが納得するような大義名分、これを設定しなければならないと。こういったところがですね、満州事変とか、昭和期の日本の軍部がやったことを考えると、大義名分を作るというのはややこしいことだし、実は面倒なことだし、一気に攻めてしまえばいいことなのかもしれませんが、(そうではなく)それをきちんとやっていくことがいかに重要かということを西郷さんは分かっていたようで、この辺りはすごく子細に富む話かなと思いますが、彼は大義名分、なぜ日本が朝鮮に軍を進めるかというのを誰もが「これはしょうがない、大義がある」とわかるようにもっていかなきゃならないというふうに考えていたこと、これは間違いないかなというふうに思います。


⚪︎死に場所を求めた西郷隆盛(死処説)

以上が政治的な立場なんですが、問題はむしろ、西郷南洲の精神の奥にあったもの、この特異な人物、(維新の)最大の功労者にして、最大の批判者、本当は権力者にもなれたのにならなかった漢、この西郷さんの精神の奥にあったものに目を向けないと、この『征韓論争』のときの南洲も解読できないのではないか、というところです。

端的に言います。西郷さんは、朝鮮への使節派遣を強く主張しました。「自分は殺される。殺されることを大義名分にしてくれ」みたいなことを言ってたのですが、これは彼の信仰の奥にたてこめたですね、私は【死処説】と言っておりますが、『死に場所を求める』その志向は否定出来ない。これは比較的重要で、あまり言われてないですが、これを織り込まないと、彼のことは私はわからないと思ってます。

[*↓こちらの著書にも南洲の「死処説」が出てくるようですね。
http://bensei.jp/index.php?main_page=product_book_info&products_id=100338

西郷さんは、いろんな人にこういう談話をしているんですが、『自分は戊辰の義戦、戊辰戦争の犠牲者(死者)を弔いたい』という観念が非常に強くありました。戊辰の義戦で、沢山の兵士を殺してしまった。その結果できた明治政府で一部の人間が栄耀栄華している。大きな屋敷を持ち、多くのポストを占拠して、中には妾を持っている人間もいる。これが許せない、というのが西郷さんの心だったというふうに思います。

それから進んで、『戊辰の義戦の死者を弔いたい。それは自らが死ぬことで、死者の御霊を弔う。それによって責任を果たす』、そういう態度に結びついたのではないかというふうに私は考えております。

確かに、西郷さんは朝鮮に派遣されることで、自分が死ぬ展開というのにかなりこだわっておりました。【生き残ったことを恥じる】、【責任・自身の役割を果たしたら死に場所を得よう】と。これは武職者・武士の考え方・態度から出てくることなんですが、こういった態度を持っていた西郷さんというのは、近代の批判者として、いまもう一度蘇らせ、考えなきゃならない人物ではないかと私は思います。


最後に、西郷さんの心情、心を表した漢詩を紹介しまして、今日の話の最後にしようと思っています。


官途艱険幾年の労
(かんとかんけん)

恰も軽舟に風の怒号するに似たり
(あたかもけいしゅう)

昨日の非は鋤下に於いて覚り
                  (じょか)(さとり)

半生の齢は卷中に逃るべし
                 (かんちゅう)

山遊累無きこと真に貍兎たり
(さんゆうわずらい)(りと)

猟隱営み有れども唯銃と獒とのみ
(りょういん)             (ごう=犬)

誰か識らむ満襟清賞足り
     (し)(まんきんせいしょう)

峰頭の閑月万尋高きを
ほうとう)(かんげつばんじん)


[*(訳)役人生活の辛く険しい何年かの苦労は、丁度小船に波風が怒り叫ぶような大変なものであった。

昨日までの生活が間違っていたことが、畑仕事をしてみてよくわかり、それでも後の半生の齢の過ごし方は書物の中に逃れることができそうである。

山を狩りをして遊ぶのには何のうるさいこともなく、そののんきさは全く貍(たぬき)と兎(うさぎ)と同じで、のんきな猟のひまには仕事があるのはあるが、それは唯猟銃の手入れと猟犬の世話だけ。

思う存分山遊び(狩猟)をして自然の風景を十分に味わい、心は満足感に浸って、山頂の静かな月を一万尋(ひろ)の高い所(非常に高いところ)に仰ぎ見る心地よさを誰が知ろう。これは私一人だけのものなのだ。(訳終) ]

・・・・ということです。

幾年か政権にあったときは、艱苦の連続で、風波が怒号する中を軽舟でいくが如きであった。鋤をとって耕す者になった時、かつての日々がいかに非に満ちていたものであるかを自分は覚った。

残りの半生は現実政治を避け書物に逃れるとしよう。そして山に遊べば災いはなく、狸や兎のように呑気でいられる。ただ銃を持ち犬を従えて猟に親しむばかりだ。胸一杯の清々しい気持ちを誰が知るであろうか。峰の上には月が万尋の高さにかかっている・・・という意味でございます。

今日はご清聴ありがとうございました。


富岡幸一郎(進行役)

どうもありがとうございました。

◉「西郷南洲」を見終えて・・・

西部邁(総括:別録)

澤村修治さんの「西郷論」を聞いておりまして、論点の整理が非常に明確で論旨も明晰で、何よりも顔と声がいいですねぇ。非常に印象深かった。

私はちょっと体調が悪くて、現場を欠席していましたのでTV局の方からこの講義についてコメントを述べよというので、無責任な感想を一つ。

西郷についてはですね、例えば、「彼は江戸城を焼き討ちにしようとした冷酷無残なテロリストである」という説もあればですね、やはり、「下級武士の救済のために温情熱意溢れる情熱の人であった」とか、その他もろもろの対極的な理解があって、「近代を切り拓いた人である」とか、「封建へ逆行しようとした人である」とか、いろいろあるんですね。

でも、西郷のことよりも、こういう話を聞くとですね、無責任ですが歴史というものをふと信じられなくなる時がある。

つまり、歴史というものを振り返る時には、遺されたいろんな文章類とか伝聞類を整理するわけですが、それがよくよく見るとですね、実はそう一筋縄では解けない【矛盾・葛藤】を孕んだものが残されていると。

そういえば、歴史というのは「history」で、historyというのは「story」なんですけども「物語」ですね。つまり・・・

【「物語をどういうふうに読み解くか、しっかりした立場が無いと、歴史というのは誤解の元になってしまうと。」】

[*歴史(history) storyを表す]

実は、これを聞いていて僕が思い出したのは、明治の福澤諭吉ともう一人、中江兆民なんですね。


⚪︎福澤諭吉 近代化への警戒

福澤諭吉は罰末に『西洋事情』という本を書いたせいがあって、西洋の文物の輸入紹介、日本の近代化を促した、文明開化を促した、最大のイデオローグ、観念者というふうに評されている。

ところが、彼はよく読むと「左にあらず」でありまして、福澤諭吉の明治10数年に書いた世情一身を読みますと、実は、弟分の【小幡篤次郎】がアメリカ論、トクヴィルのアメリカ論を翻訳しておりまして・・・

『アメリカのマス・ソサエティー(mass society=大衆社会)は由々しき混迷・混濁に陥るであろう』

と予告した本なんですが、それを受けて兄貴分の福澤諭吉が・・・

『文明の近代化というものは驚駭狼狽』

つまりですね、驚愕と狼狽の混乱の極みになると。【「西洋の近代化を真似してはいけない!!」】ということを明治10数年に声を大にして訴えたんですね。

これが長々と今に至るも、言わば「文明開化・近代化の最初の指導者」というふうに言われている。

[*福澤諭吉(1835~1901) 『適塾』で蘭学を学び、さらに英語を習得。渡米・渡欧を行った後『西洋事情』を刊行。学問の普及にも力を注ぎ『慶應義塾』を創立。主著『学問のすゝめ』『文明論之概略』 ]

[*小幡篤次郎(1842~1905) 大分生まれ、慶應義塾で英学を学び、後に塾長(第3代)、主著『天変地異』『博物新編』]


⚪︎中江兆民の真の主張

中江兆民もそうなんですね。中江兆民というのは、明治の初めにフランスに留学しましてジャン=ジャック・ルソーを翻訳し、いわゆる「民主主義の輸入者」となっているのでありますけども、彼はその翻訳・解説の冒頭で次のように言っているのであります。

それは、republic(リパブリック)共和政ですね。共和制はいま、独裁か君主制か共和制か、対峙で用いられるけども、彼は堂々とですね・・・

【「リパブリックというのは、君主制を認めうるものだ」(中江兆民)】

『つまり、人々の公共心、公心に基づいてやるのが政治で、人々の公心の中に天皇であれ君主であれ、向かい入れたいという公心(こうしん/おおやけごころ)があるのならば、それは共和制と堂々と両立するものであると』

・・・いうことを(兆民は)言っているのみかですね、これは要するに、自由民権の、暴れまくっている自由民主主義の言わば先祖たち(←当時のフランス人)をですね、『彼らはほとんどゴロツキなんだ』というふうにして罵倒している文脈もあれば・・・

⚪︎中江兆民「ロシア討つべし」

それどころか、晩年にはですね、『ロシア討つべし!』と、日露戦争の数年前になりますが、ロシアとの対決は避けられない、討つべしと。それどころか、『大陸に覇を唱えるべし!』と。それだけ言うと、あたかも帝国主義の元祖といったような趣きさえある。

[*中江兆民(1847~1901) 高知県生まれ、長崎・江戸でフランス学を学んだ後フランスに留学。帰国後はルソーの『社会契約論』の漢語訳や政治新聞の執筆を行った。主著『民約訳解』『三酔人経綸問答』]


⚪︎下級武士出身 諭吉・兆民

でそれは、きちんと読み解くと何の矛盾も無くて、やはり諭吉にせよ兆民にせよ、幕末の下級武士としてこの世の上下・複雑さ、それを総合的にどう理解するかということを、しかも日本人の教養・武士の教養をもってそれが儒学であったり、漢学であったり、そういうものを踏まえながら、堂々と社会・国家を論じた人なんだと。


⚪︎西郷隆盛と近代

いま、話を戻しますと、実は、西郷隆盛をですね、よくよく読むと、一見、矛盾のように見えるけども、一人の下級武士が、当時の時代と日本国というものをどう引き受けようかとしたかという、トータルイメージは総合的に浮かんでくる。

そのことを澤村さんは報告されたと。実に立派な報告だったと思っております。

ありがとうございました。

【次週】西部邁 特別講義 「安保法案を巡って」