吾等七十歳、戦後七十年をいかに見る② ゲスト:黒鉄ヒロシ、辻原登、佐高信(西部邁ゼミナール)

吾等七十歳、戦後七十年をいかに見る②(西部邁ゼミナール)

ゲスト

黒鉄ヒロシ:漫画家

辻原登:小説家

佐高信:評論家

新アシスタント

今村有希:女優

【ニコ動】
西部邁ゼミナール)吾等七十歳、戦後七十年をいかに見る② 2015.09.06
http://www.nicovideo.jp/watch/sm27096488?ref=search_tag_video

今村有希(新アシスタント)

今日は先週に引き続き、吾等七十歳、戦後七十年をいかに見るかと題し、黒鉄ヒロシ先生、辻原登先生、佐高信先生、お三方の登場です。漫画家、小説家、評論家とそれぞれの職種の異なった先生方が、先週は主として「戦後日本社会におけるアメリカニズムの広がり」ということについて語っていただきましたが、今週はおそらく、「戦後における進歩主義の主張の弊害」ということが主題になろうかと思われます。では宜しくお願い致します。

西部邁

今週も宜しくお願いします。実はこの前、今村さんとお会いして、「今村さん“進歩的文化人”って知ってる?」と聞いたら、「知らない!」と(笑)

今村有希

知らないです、はい(笑)

西部邁

ね。本当にそうなんですよ。もちろん皆さんご存知ですよね、進歩的文化人。僕ね、20歳の頃、気分的に言うと、なんか主要な自分の敵(笑)、僕ね、案外簡単に敵をみつけるのが好きな馬鹿野郎なんですけどね、やっぱり、『進歩的文化人が敵だ!』という感じが強かったですねぇ。皆さんどうでした?進歩的文化人っていま名前は避けますけども、簡単に言うと、大学にいる人が多いんですけども、「過去の日本は悪い国であった」と。これからは、必ずしも社会主義ではないんですけども、社会主義、あるいは社会主義の臭いの強いような、そういう理想へ向けてこの古いもの(=過去の日本)を捨てていく、変えていく、それからよき進歩がもたらされる、という論文を書いたり、本を出したり、演説をしたりしている人たちがものすごく山ほどいて、その牙城が東大だったんでしょうけどねぇ(笑)・・・民間にもおったんですよ。

[*進歩的的文化人に対する距離感・嫌悪感]

今村有希

はい。

西部邁

そういう者たちに対する、何かある種の距離感・嫌悪感・・・ただ、佐高さんはどうかなぁ。佐高さんは?

佐高信

一応、私はどこかで「最後の進歩的文化人 佐高信の正体」なんて書かれたことがありましてねぇ(笑)

西部邁

最後の(笑)

佐高信

そん時は開き直って、ということは退歩的非文化人ではないわけだなぁって言いましたけども(笑)、ただ、私の原風景が農村ですから、そう簡単に近代化だとかいうものが成り立つのかと。で、近代化というのはやっぱり『会社化』というのと同義語でしょうから。進歩主義というのは近代的文化人ですよね、どこか。ところが、農村が無くなるということなのかというある種の疑問みたいなものはありましたですよね。

西部邁

ある時発見したんですけどもね、modern=近代、考えたら変な言葉で、 モダンを「近代的」と訳したのは誤訳じゃないかと。「近代」というのはこれ日本語で言えば「最近の時代」ということですからね。で、modernという言葉には「最近の時代」という意味は1ミリも含まれていなくって、含まれているのは同義語であるんですけども、model=模型、これは類義語なんですよね。それから、mode=様式・流行、ですけども、modern ageというのは「模型が流行する時代」と。しかも、ここで多くの人たちをmass=大衆、と言いますけども、「多くの人々」ね。多くの人たちはこれ(→ model、mode)をやりますからね、ですから、多くの人たちにとって「分かりやすい、単純化されたモデル(model)」ね。それから、「大量の流行(mode)」ね。これに飛び込んでいく時代、これが最近の時代だと。こう(modernを)解釈したほうがよくて、そういう先頭に、いわゆる東大の文系の先生方を中心にして進歩的文化人がいて、実に啓蒙的に人々の門を開いてやると称して、分かりやすそうな、人の心に入りやすそうな文章と言いかたで、人間如何に、社会は如何に、ということを分かりやすく、大量に新聞、後にはテレビを通じてこの世に広めて歩くと。

こういう人たちが俺の敵だ!という気持ちがどういうわけだか小学校の時からあったんですよ、先生(笑)

小学校の時からあったというのはこんな感じかなぁ。学校の先生が戦争に負けた翌年、「皆さんこれからは民主主義の時代ですよ。民主主義というのは(生徒に向けて)みんなが相談して、みんなが事を決める方式なんですよ」と女のキレイな先生でしたけどね(笑)、言った時に、子供心に、『みんなして俺たちガキが何を相談して、何を決めるか。そんなものに任せるのが民主主義だとしたら、ロクなもんじゃあるめぇな』という感じを、子供心に感じ取ったあたりから始まった気がするんだよね、なんか(民主主義って)如何わしいぞこれは!?って。

 皆さんどうでした?戦後の進歩的文化人。僕べつにイデオロギーとかを言っているんじゃなくて、このいま言った、民主主義とか平和主義とか進歩主義とか、もう一つはヒューマニズムかな。人間性は麗しいものだとかいう話の。水浸しになるぐらい(ヒューマニズムが)撒かれていて。土佐にだって撒かれておりましたでしょうか?

黒鉄ヒロシ

ハハハハ(笑)、佐高さんが仰った「農村の風景」って良心であってね、敗戦で父親の世代が帰ってきますでしょう。でも、農村風景を見た瞬間に、復興とか、日本の文化をなんとかとかというところで、闘争意識が薄れたんじゃなかろうかと僕は思うんですね、現実を続けていると。そうでなければあまりにも切り替えがすごくて、その前の会津だとか、薩摩も長州も土佐もそうですけども、幕末あれだけ戦った世界に類を見ない武士階級というのがいた、その子孫もいるわけ。それが、急に止めちゃって一気にこっちに流れ込んだというのが、あれちょっと不思議ですね。(西部)先生が仰ったそういうので見てたら、父親なんか家の中で全部着物でしたね。

西部邁

あぁ。

黒鉄ヒロシ

ということは、「古い日本の原風景」がそこにあるんですね。それで、アメリカから浴びるように情報が来る。で、半分アメリカ好き、半分日本が好きって引き裂かれるような関係で見ていると、信用出来ねぇなと思いますねぇ。

[*敗戦後の日本の原風景 押し寄せるアメリカニズム ]

西部邁

あぁそうか。

黒鉄ヒロシ

それで、私はこの中で1人だけ「画」の方へ行っちゃった。「笑い」へ行ったというのは、諧謔的(かいぎゃくてき)というのかしら、説得力を疑うということですよ。

西部邁

なるほど。

黒鉄ヒロシ

デザインとかコピーライティングというのは、だいたい詐欺ですよね。だから、詐欺の中で、社会全体が詐欺っぽいからなかで「誇張詐欺」の方へ行くしかないだろうと思い、シニカルでありますけど、そういう選び方だったですねぇ。

西部邁

そうねぇ、僕も変だったと思う。例えば、戦後ずいぶんアメリカ映画を、中学生段階で映画館に潜り込んで観たんですけども、やはり随分面白かった。ジョン・ウェインの「駅馬車」でもなんでもね。だから、それに影響受けたと同時に心の中で自然に何か上質のものはアメリカからは来ないんだなぁと。どういうわけか、ヨーロッパの方が、なんかこう要するにハイクラス、精神のレベルが上なんだなということが、映画も通じるし、特に高校段階まで来ますと、ということは戦後もう10数年後ですけどね、小説に触れるとやっぱりヨーロッパの方が遥かに深くて熱いというね、アメリカからは大したことが来ないなぁ、などと言うと、例えばJAZZとか何かを好きな人たちは、それは怒るかもしれないけども、僕はアメリカから来るものに慣れ親しみはしたけども、感動したことは少なかったって感じがするけど。辻原さんはどんなでした?

辻原登

僕はその紀州の南の端っこの海のすぐそばで生まれて14歳ぐらいまでずっとそこだったんですけども。あの、「戦前と戦後の境目」というのをあまり感じないような社会、農村ですし、漁村であるし、もちろん農家からでも漁師の家からもみんな戦争に行って、お父さんが帰ってこないとか、家の長男が戦死して墓がどんどん立っていくというのを見ていますけども、僕自身が父親や学校から学ぶものは「民主主義教育」で、「戦前の日本、というのも明治維新から間違っていて、明治維新の向こうは封建時代である」みたいな、そういうのがごく当たり前のように自分自身も思いながら山野を駆け巡っていたというか。

[*戦後教育に抵抗なく ]

辻原登

ただ、父親の書斎なんかにある本を読み始めて、最初に読んだのが、中央公論の『鍵』ですよね。

西部邁

ほんとに?(笑)

辻原登

最初って、もちろん童話とか読んでいますけども(笑)、小学校6年生から中学校の頃にちょうど(谷崎の)『鍵』が出て、国会で「谷崎氏のこれは如何なものか?」みたいなものを答弁、質問していて・・・

[*『鍵』谷崎潤一郎 1956年 ]

西部邁

「このエロ小説は如何なものか?」と。こういうことだよね(笑)

辻原登

ハッキリしなきゃだめだと(笑)、そういうのが(当時の国会で)あって、それを、父親の書棚に中央公論が並んでて、それを読むと「足フェティシズム」なんとかって片仮名で出ていて、そんな言葉わからないんだけど、何かこれはスゴイわけのわからない深遠な世界がありそうだみたいな、そういう読書経験、それはちょっと大袈裟ですけども、それを読んだことが間違いなくて、そこから始まると、ぜんぜん違ってきている。文学の中に、本を読むという方にどんどんどんどん行く。それでも、西部先生が、佐高さんとか黒鉄さんのように、「なんかこれは違うぞ」という、そういう感覚が無いんですよね。

佐高信

あーあー。

辻原登

ごく素直に全部受け入れて・・・

佐高信

うんうん。

辻原登

ですから文学も全部受け入れて、それで夢中にすごくなっていって、ずーっと「左翼少年」だし、「進歩的文化人」の書いたり言ったりすることを信じて。

ところが、小説を書き始めた頃から、「これは違うぞ!」って初めてそこで、小説を書くことで、つまり何かと言うと、まず『登場人物を公平に扱わなければならない。進歩主義では公平に扱えないんですね。』

西部邁

そうか。

一同

うんうん。

辻原登

遅れてる奴とか、遅れてる時代とか、悪い奴とか、戦争を進めた奴は、いわゆる紋切り型で「悪役」で描くわけにはいかないんですよね。そういうところかだんだん少しずつこう、これは違うぞ、進歩というのはちょっとおかしいんじゃないか、非常に歴史の見方としては歪んでいるというか、つまり、『現在という視点を特権的な視点で過去を裁く』というのが、そういう考え方は小説家は持ってはいけないというか、持ってしまったら小説は成立しないんですよね。そういうことで段々と捻れてくるというか。

西部邁

僕ね、1951年にサンフランシスコ講和があって、日本が独立して、それから米軍がみんないなくなるまで3年ぐらいかかるんですけど、その間、中学生になってて札幌の中学に汽車通学していた。田舎道を駅に向かって歩いてたら、3つ4つ年上の他の高校の人なんですけど、近所の親しくもない人が僕をつかまえて、「君これを読んでみたまえ」と。みたまえでもないなぁ、読めよと。その本のタイトルだけ覚えているんですけどね、「獅子に挑む豹」というね、恐らく、講和条約を結んでからはじめて出版できたんでしょう。

[*『獅子に挑む豹』宗宮信次(1952年) ]

(*「参考」宗宮信次(そうみやしんじ)法学者。1894-1979。岐阜県揖斐川町出身。1917年日大法学部卒。19年判事。22-25年ドイツ、英国に学ぶ。39年「名誉権論」中大法学博士。46-48年東京裁判で岡純敬の弁護人を務める。47-50年中大教授。53年渡米。56-58年司法研修所教官。日大教授、58年日本弁護士連合会理事。65年日大定年。)

西部邁

日本軍が「豹」なんですね。アメリカ軍が「獅子」で、この巨大なライオンに向かって突き進んでいく豹たる日本のその素晴らしさについてあれこれと。ちゃんと読んだわけでもないんだけども、そういう本なんですよ。

あの時に、田舎道で一種の「開眼」があってね、「あぁ〜そうだったのか。学校の先生たちが言ったりなんだりしてるのと全く違った見方があるんだ」ってなことを、本当に道端でふとヒントを受けたってなことがありましたけどもねぇ。

佐高信

あの西部さんと辻原さんが、その「早熟な左翼」だったいう告白ね。私は極めて遅くにいわゆるそちらの陣営(左派)に踏み込んでいった感じなんで、根っこがすごい違うんですよね。それは土地柄もあるんでしょうけども、アメリカの映画とかあまり観たことが無くして、だから、やっぱり観る映画は「忠臣蔵」とか「鞍馬天狗」なんですよね(笑)

西部邁

(笑)

佐高信

で、私の場合は忠臣蔵の四十七士を書いて暗記してましたからね、そういったウチの親父が書家だから、古来のモノを糧としている以上、簡単にそれにかぶれちゃいかんというのがどっかにあったのかもしれないけれども、アメリカものにスッといった経験がぜんぜん無いんですよ。

西部邁

うん。中学2年だと思うんですけどね、たぶん日教組と文部省がひょっとしたら共同推薦で『硫黄島の砂』というね、あれはセミドキュメンタリーで、ジョン・ウェインたちが最後に硫黄島に星条旗を立てて、その間ね、ドキュメンタリーですから、日本兵が(米軍の)火炎放射器で焼かれていくね。南の島ですから瞬く間に、肉が剥がれて頭蓋骨が出るみたいなその実録写真が縦横に散りばめられたセミドキュメンタリー。で、ラストシーン近くで星条旗が。それ自体が本当は後で立てたとか、いろんな話があるんですが、それはともかくね(笑)

[*硫黄島の砂 1949年 ジョン・ウェイン主演 ]

西部邁

その時に中学2年生、大きな中学だから10クラスで500人ぐらい入っちゃう会場に。星条旗が立った時に、その時一斉に同級生が拍手をするんですよ。それ後で、細川正義というノンフィクションライターから教えてもらったんですが、彼の説では、それを誘導したのは付き添っている学校の先生たちで拍手をする。先生が拍手をすると、バカな子供たちもそれにつられて拍手をする。僕はそれを先生が誘導したのを目では見ていないんですけども、その時に僕は心底ビックリしてね、もっと言うと、「この同級生ども!こいつらとお手手繋いでたら、俺はおかしくなるぜ」ってねぇ。だって、ちょうど、あそこで焼かれているのは、センチメンタルで言うんじゃないんだけども、ちょうど自分の親たちのジェネレーションなんですよ。あそこ(硫黄島)では2万1千名が死んだのかな。それがね、撃たれ焼かれている。それを見て拍手する子供たちね。

一同

う〜ん。

西部邁

あの時の強烈な違和感、同級生に対するね。そんなものをわざわざ求めて見せている、学校というもの対する嫌悪感。あの時からねぇ・・・だから、どうして「左翼」になったのかはわからない。ひょっとしたら、あの頃から俺は「右翼」だったんじゃないかって(笑)

一同

ワハハハハ(笑)

黒鉄ヒロシ

根っからの右翼少年のまま、今日まで来ていると(笑)

辻原登

すくすくと(笑)

黒鉄ヒロシ

すくすくと(笑)それで、辻原先生が谷崎で、僕は江戸川乱歩なんですよ。

一同

あ〜あ。

黒鉄ヒロシ

あれだって市中の人は十分に変でしょう。「人間椅子」だとか。そうすると、景色としてアメリカなんですね、あの中身は。ヨーロッパから借りるとも言えるけども。そっちへ行っちゃって。

それから佐高さんが仰ったのは、戦後に時代劇がいきなり解禁されて、これも見てるんですよ全部。

佐高信

そうそう。

黒鉄ヒロシ

片っぽでは「赤い靴」だとか「OK牧場の決斗」なんかが入ってきて、(日本の時代劇と)両方見て、引き裂かれた関係で右翼。で、先生が仰った、星条旗で拍手をするセンスは僕らには100%無かったですねぇ。

西部邁

うん。こんなのは無かったですか、辻原さんたちに。やはりその『神風特攻』のことですけども、僕は情報はあまり無かったけども、いつの間にやらさ、やはり何千名かの日本の若き兵士たちが「負け戦」の段階でね、でもその言わば自分たちの「闘争精神」でも「郷土愛」でも「愛国心」でもいいのだけど、そういうものの意趣を、そういうものを守ろうとする意趣を、それを後世に伝えるべく『必ず死ぬ』という前提のもとに突っ込んでいった、上空3千メートルからの。そういう日本の、僕が例えば13(歳)だとしたら、10ぐらい上の連中たちがいたんだとした時に、なんか僕の場合はそれにある、どこかで深い感動を覚えた感じがあったんだ。素晴らしいことであるというふうに。で、そういうものに対して、悪し様に言うことに対しては、どこかで抵抗したいというね。

[*神風特攻隊に見るもの ]

西部邁

僕は「左翼」になって瞬く間に後で「左翼過激派」と言われるものにほんの半年、1年でなっちゃうんだけども、そんなことはどうでもいいのだけど、そうなった理由を尋ねれば、『やっぱり上空3千メートルから飛び込んでみたい!』という、本当はなかなか飛び込めないんだけども、飛び込みたいという願望のものが、自分の10代の時にあったような気がするけどもねぇ・・・。まだ飛び込んでませんけどもねぇ。

黒鉄ヒロシ

物語的に見てた「忠臣蔵」の中にもあるし、「大塩平八郎」にもある。

佐高信

えぇ。

黒鉄ヒロシ

いろんな物語、これは日本に限らずヨーロッパでもアメリカでもあるんですけど。そうすると、「神風特攻隊」も雑駁に言えば物語だとすると、美しいと思わざるを得ないですよね。

西部邁

まぁそうですね。

黒鉄ヒロシ

それがアナクロだとか言われると、それはちょっと違うんで。 この行為に対して文句は言えないだろうという、美しいというものを感じるというのが右翼だ、というぐらい、言わば所以みたいなことですね(笑) 

辻原登

あの太平洋戦争に特化してみるといろんな事は言えるかもしれないけども、それをもっとこう普遍的な歴史の中でファンタスティックに自分の死によって、何かを生み出すとか、伝えるとかという行為というのは、これは『崇高』なもんだし、それが無かったら、あのギリシャ筋肉も成り立たないし、平家物語も成り立たないし、そういうものまで引っくるめて否定してね、進歩主義というふうにして、澄まし顔でのうのうと生きている人たちについては、嫌悪感はありますけどね、それは。

[*崇高な物語を否定する者に対して ]

佐高信

あのね、ちょっとこの問題では私が多勢に無勢になるんだけども(笑)、あの一つ、困るというか、私の場合は屈折するのは大川周明石原莞爾が同郷(佐高と同じ「山形」出身)なんですよ。

西部邁

そうですよねぇ、山形ですから(笑)

佐高信

庄内。まさに石原莞爾は鶴岡で、大川周明は酒田。そうすると、この二人をどう見るかというのは、ずっと避けてきたわけですね。

[*大川周明(思想家)と石原莞爾関東軍参謀) 二人の立場をどう見るか ]

辻原登

佐高さんが避けてきた?

佐高信

避けてきた(笑)それで、いちおう石原莞爾については評伝を書いたわけです、何年か前に。で、大川は最初から書く気無かったけども、だんだん最近、大川も書かざるを得ないんじゃないかみたいな感じになってきていて、だから、西部さんはその突っ込む立場の話をしていましたけども、『突っ込ませた人たちの問題』は残るわけですよね、えぇ。

辻原登

それも考えないといけないですよね。

佐高信

えぇ。

西部邁

でも、僕の場合はもっと情緒的だったのかもしれない。小学校1年生の時に戦争が終わるでしょう。ウチの庭におそらく4、50名の後で思えば「少年兵」ですね。そばの日本軍の基地を整理して、残り少ない弾薬を基地の端っこに埋めるようなことをやって、米軍に(基地を)引き渡す作業をやって燦々轟々とうちに帰るんでしょう。その途中で僕のうちによって、みんなで飯盒で昼ご飯を食べて、それに僕のお袋が、たまたまこんな大きなヤカンがあって夏場ですから飯盒にこうやって水を注いでいる場面をよく覚えていて、こっちは6歳ですけどもね、お袋ねぇ、これは覚えているんだなぁ。「可哀想に。みんな一生懸命だったのにねぇ」と言いながら半泣きでね、そのただ覚えているのは40名だか50名だか分からないんだけども、少年兵たちの、恐らく2日も3日も徹夜でずーっと整理したせいでしょうが、『敗残兵』の、『敗残少年兵のものすごい暗い顔』ね。全員下を俯いているというね。その時に、なんか僕この人たちのために(当時)6歳ですけども、『復讐してやんなきゃいけない』んじゃないかなぁ〜という感覚が、ふと過ぎったような気がしたねぇ。

佐高信

うんうんうん。


[次回予告]吾等七十歳、戦後七十年をいかに見る③ ゲスト:黒鉄ヒロシ辻原登佐高信「高度成長のひずみ」「マス(大衆)の醜悪さ」