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「なぜいま『武蔵無常』を論じるのか」② ゲスト:藤沢周、黒鉄ヒロシ 〜西部邁ゼミナール〜

「なぜいま『武蔵無常』を論じるのか」② ゲスト:藤沢周黒鉄ヒロシ西部邁ゼミナール〜

ゲスト:
藤沢周 作家 法政大学教授 、図書新聞の編集者などを経て作家デビュー「ブエノスアイレス午前零時」で芥川賞受賞、【近著】『武蔵無常』(河出書房新社

黒鉄ヒロシ 漫画家、隔月刊誌「表現者」の表紙を手がける、【著書】『刀譚剣記』(PHP研究所)ほか多数

西部邁ゼミナール)「なぜいま『武蔵無常』を論じるのか」【2】2016.04.23


今村有希
前回に引き続きまして、作家で法政大学教授の藤沢周先生と漫画家の黒鉄ヒロシ先生にお越しいただいています。今回は藤沢先生が上梓された『武蔵無常』を題材に、「なぜいま『武蔵無常』を論じるのか」を語っていただきます。人生と時代の矛盾に踏み込むはずの文学が逃れているリアリティ、そして戦後日本における死生観、さらに文学における言葉と表現者の人格との関わりについて話が及ぶものと思われます。

それでは早速お話を伺いたく、宜しくお願いします。

宜しくお願いします。

今週も宜しくお願いします。ところで今村さんね?

今村有希
はい。

お遍路さんたちがね、六根清浄、六根清浄と唱えながら、こう山を登ったりなんだりしているというね。

今村有希
はい。

映画で見ているのかな、なんで見てるのか・・・なんか人生で10回ぐらい映画でなんか見たような気がするんだけど・・・

今村有希
はい(笑)

「六根」ってお分かり?

[*御遍路さんが唱える『六根清浄』(ろっこんしょうじょう)の意味 ]

今村有希
目と鼻と耳、口、身体・・・

視覚、嗅覚、聴覚、味覚、触覚、

今村有希
え〜と、あと一個は何ですか?アハハ(笑)

第六感でいいんだけど(笑)

まぁ〜意志の「意」ですよね。

そうですね、「意」ですね。

えぇ、はい。

第六番目はね、要するに意志の「意」ですよね、認識( の「識」)もちょっと含んでいるのが「意」(=意識)なんですね。それを清めましょうというね。(=六根清浄)

[*『六根清浄』:私欲、煩悩、迷いを起こす六根 (=「視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚・意〈識〉」)を清める 」

今村有希
はい。

これはあれですか、普通の言葉で言えば、「心(こころ)」だと言ってもいいの?心だと日本人は言っているの?

そうですよね・・・つまり、自分がこう世界を知覚したり認識したりする器官の動きだということだと思うんですけど、それが濁っているからダメなんだ、清浄(しょうじょう)しなきゃダメだということだと思うんですけど、それはもう武蔵(宮本武蔵)は五感なんてのはもう鋭敏だと思いますけども、

そうでしょう。

さらにその“六根の底”にある、いわゆる仏教で言う『唯識』という『阿頼耶識』(あらやしき)ですね。

[*『阿頼耶識』(=唯識)は六根のさらに底にある ]

この(六根)前にあるものか。

そうですね。

なるほどね。心の前?(笑)

いちばん「底」というんですかね。

底ね、底でしょう。

えぇ。表層意識があって、無意識があって・・・まぁ深層意識とも言うんでしょうが、で、その「底」にもゼロポイントみたいなものがって、

そうでしょう、

ここは本当に言葉なるもの、言葉ならざるもの、まぁ唯識(ゆいしき)ではなんか『種子』(しゅうじ)、タネ(種)、

あぁ〜。

種子と言いますけども、それがこう浮かんで「言葉」と結びついて、我々は、あぁコップだとか、紙だ、とか分かるんですけど、それが言葉にならないものもあって蠢いている。

[*阿頼耶識(あらやしき)から種子(しゅうじ)が浮かび、言葉へと結びつく ]

「言語以前」なんだけども、やっぱり言語をもたらす意志、俺はこれをやる、という言葉。意識で言えば、これはこれである、という言葉。それをもたらす種(タネ)はあることはあるでしょう?

[*言語をもたらす意志、これはこれであるという識 ]

(無言で頷く)

無い?(笑)

いや僕は否定はしていないんだけど(笑)

(笑)

如何ともし難いというね。

なるほどね。

前に申し上げたことある、「春の小川はさらさらいくよ」という、これはぜんぶ「春」と名付けたのも人で、「小川」も人で、「さらさら」に至っては誰が聞いたのかと!?

そうね。

でもそこから物語を始めないことには、人類の文化も何も出来なかったですからね。だから、そこが皮肉でもある・・・。

まぁそうですね。種(タネ)というけども、なんかこう目に見える、触れるようなものじゃなくて、その種自体が意識の方からいえば、非常に恣意的なね、いったいどうして「春」と言うんだろう?というところから始まって、どうして「タネ」と言うんだろうとかね、そういう摩訶不思議な種(=種子:しゅうじ)なんですよね。そういうところまで武蔵は感じようとしたと。

その六根の底にある阿頼耶識(あらやしき)みたいなものですけども、この小説(「武蔵無常」)の中では「獨行這入」と。

あぁ〜。

獨行道の「獨行」を取って、「這入」(這入り=はいり:入り)というのは扉という意味なんですけど、無意識の、阿頼耶識の扉がパーっと開く、これはもう自分が危機的状態に陥って、自分を抹殺したい状態になると開きやすいんじゃないかなと、僕の経験からすると思うんですけど、その(危機的状態に陥ったことで扉が)開いている時はむしろチャンスなんじゃないかと。

[*危機に陥った時に開く『獨行這入』阿頼耶識への扉 ]

「言語以前の深み」に入っていくという。

言語以前のものをすごいキャッチしやすい状態になって、例えば、芸術家とか表現者は、まぁ武蔵の言葉で言えば、獨行這入がいつも開けるというんですかね、

[*言語以前のものをキャッチ『獨行這入』を開く表現者

うん。

武蔵がワンシーンで、すごい積乱雲を目の前にして言葉を失う、で嗚咽する、というところがあるんですが、あれは多分、世界の無限性に打たれてしまい、疲れてしまって、たじろいでいる状態だと思うんですけど、まぁそのつもりで書いたのですけど・・・武蔵は剣でなくてもよかったんだろうと、あの絵筆を持っても良かったのではないかと思いながら、そのシーンをちょっと書いたのですけど・・・はい。

[*武蔵は剣でなく絵筆を持っても良かったのでは・・・ ]

うん。

ただ、武蔵の性格では、あの絵筆だけではアクビが出ちゃうんだろうと思うんですよね。

今村有希
(笑)

より緊張の高まるものに吸い寄せられるというか、いま仰ったのは「五輪書」に、「敵の『う』の頭を叩く」ってあるでしょう?

はい、はい。

あの『う』って何だって・・・「うごくの“う”」なのか、「気配のその前」なのか、だからすごい微妙に言葉にならないことを、彼は言語でも記そうとしてるし、体現しようとしている、あそこがチャーミングなんですよね。

[*敵の『う』の字の頭を・・・「五輪書」火之巻 ]

はい。そこ面白いですよね。

面白い!

こういう表現があるのかと思って・・・現代剣道の場合、『起こり』って表現を使いますね。あの技を出す前のちょっとした動き(のこと)ですね。

[*剣道の「起こり」技が動きはじめる瞬間 ]

あぁ〜。

こう(動きを)察知して、先に入るという・・・それを『う』でしたっけ?

『う』ですね。

相手が「うっ」と言う時に打つんだと。「打つ」で「う(打)」の時に(先に相手に)打っていくという。

こういうふうに言ったら、お二人は怒りますかね?「う」ね。話をひっくり返すようだけど、夫婦の「うごき」ね、相手の連れ合いの「うごき」か、本当は酒呑み友達でもいいんですけどもね、呑んでいる時に、相手が退屈しているなぁ〜と、怒ってるなぁ〜みたいな、そういうものをね、まぁそれは世間の日常生活ですね、日常生活ではそれを互いにこの「うごき」の「う」の段階で察知して、言葉を微妙に変化させたりさ、表情変えたりしているという。

[*連れ合いの動きを「う」の段階で察知する ]


宮本武蔵のようになると、その殺人剣ですからね、さもおどろおどろしいようなことになるけれども、案外それと同じ言葉を生活で警戒されている、というと怒りますか?

[*「う」の段階で察知して言葉や表情を変える日常 ]

『日常』って言うじゃないですか、日常、なんかこう出来てるようで、実は、すごく怖いんじゃないかと思って・・・

あぁ〜そういうこと。

稜線と言うんですか、現実の稜線、尾根ですね・・・

うん。


(日常は尾根)を歩いているようなところがあって、なんかこっちに何かのタイミングで倒れて、(稜線から滑落して)死んじゃうかもしれないし、これは分からないわけですよ、ギリギリのところ。

うん。

単に『日常』というのはそれが未遂の状態だから穏やかに見えるかもしれませんけども、決してそうではなくて、その先ほどのもういろんなことを察知して、バランスをとって、あぁなんとかここにあるんだな、というふうに。

[*一歩間違えば尾根のような危うさが日常 ]

日常生活の場合はそれを意識化しないで、ほとんど『慣習』になっちゃって(笑)

そうですね(笑)

今村有希
(笑)

特に夫婦なんてそうですよ。大体、ふつう何十年も暮らしてますからね・・・朝に目を合わせた途端にね、相手のご機嫌が麗しいかどうかが分かって(笑)

[*日常生活は慣習化、夫婦は瞬時に機嫌がわかる ]

一同
(笑)

まぁ〜ちょっとね、話を落とし過ぎるけども、それが「剣」とかなんとかになってくるとね・・・結果が「殺し」ですからね、今風に言えば「テロ」ですからね、恐ろしい緊張の一瞬ということになるんでしょうけどね。

今村有希
そんな武蔵がホッとする時間ってあったのですかね?

・・・無かったんです。

今村有希
無かったんですか!?(笑)

一同
(笑)

お風呂に入らないんですよ。

今村有希
はい(笑)

どういういねぇ・・・やっぱり刀を離すってのが恐怖だったんでしょうねぇ、これは、うん。

でもね、黒鉄さん見てるとね、

今村有希
はい。

・・・そんな気がするんです。刀をいつも。(黒鉄の背広の襟の折り返しにつけた、刀をあしらったラベルピンを指して。笑)

今村有希
ここにもついてますね(笑)

今ちょっとね・・・まぁ刀・・・ぜんぜん違うけど(笑)

刀のそれもねぇ(笑)

今村有希
(笑)

いま頭に浮かんだんですけど、武蔵のほどじゃないけど、清水次郎長って剣が物凄く強かったんですねぇ。それで、彼のはいわゆる「喧嘩の剣」みたいなやつ、コツみたいなものを書き残してくれていて、相手がスッと抜刀した時に、相手の刀を(切先で)ちょんちょんとやるんですって。

ほう。

(それで感触が)固ければ勝てる。柳に風のように受け流すのような時は、これは相手が腕が立つからこれはちょっと構え直さなきゃいけねぇ、というような、だから武蔵と随分と水準が違うんですけど、裾野で次郎長も近くまで行っている。

[*抜刀した時に相手を見極める剣術に長けた清水次郎長

(うんうん)

山岡鉄舟があの剣の師匠といいますかね、武蔵よりももっと高邁なんですね。いろんなテクニックを書き残してくれていますでしょう?

はい。

でもあれ人の為に書いたんじゃなくて、あれは何なんですか?

あれはマニアックですねぇ・・・

マニアックですね。

五輪書』なんて、如何に(相手を)斬るか、負けないか、というのを本当に執拗に書いていますからねぇ。

ほとんど変態ですよね(笑)

はい。怖いくらいですよね。

西部・今村
(笑)

さっきの『う』ですけども、「枕をおさえること」といって、相手に技を打たすまえにグッと(相手の刀を)押さえるというようなことから始まって、で僕らは、技って速ければ速いほどいいんだろう、と思うんですけど、「速さは関係無い!」と(五輪書に)書いてあるんですね。「拍子を外す」・・・だからバーンなんて出る必要なくて、ちょっとこう先程のちょんちょんじゃないけど、相手のリズムを崩してゆっくりスパッと斬るとか、なんかそういうことが細かく書いてあるんでよね。

なるほどね。随分前ですけども、秋葉原でね、加藤何某なる、突如人を何人かは忘れましたけども、刃物で殺したりね、武蔵と比べているんじゃないだけど、心の奥底にある何かこう基準をね、失ってしまった時に、

失って、はい。

何か得体の知れない普通の人から見れば「狂気」へと突っ込んでいくというね。

[*秋葉原無差別殺傷事件、心の基準を失い狂気へ ]

たぶん、この本(「武蔵無常」)を今書かれているということはね、別に今よくあるようなこの歴史であーでした、こーでしたということのあれじゃなくてね、紹介でも解釈でもなくて、今もなお人間はそのあたりの『這入』の問題をめぐっていろんな事が起こっているという、そういうふうに武蔵を(藤沢は)見ようとなさっているんでしょうね。

[*今も人間は『這入』をめぐりう色々なことが起こる ]

はい。何がきっかけで訪れるか分かりませんものね、本当に。勿論、人との軋轢、それもまぁ原因だったりするし、コミュニケーションの問題もあるだろうし、或いは、それこそ入道雲を見ていて美しくて言葉に出来なかったからとか、いろんなこうきっかけがありますけど、自分の基準って絶えず壊れたり、あえてこうつくっててみたりとか、揺れ動いているわけですから、まぁ本当に武蔵に限らずやっぱりこの小説も「現代の問題」として書かせていただいたのですけど、はい。

[*自分の基準は壊れたりつくってみたり揺れ動いている ]

這入・・・その問題をユーモアとしてね、

今村有希
はい。

まぁそれは漫画のことも含めてですけどね、人間はこの「究極の基準」を見つけたいけど見つからないという辺りのことをね、ユーモアで表現することによって何とか生存してると・・・いうふうなことを黒鉄さんが仰って。

[*見つからない究極の基準、ユーモアで表現し何とか生存 ]

けどしかし、黒鉄さん、ちょっと聞きたいのだけど、

はい。

ユーモアですけどね、こういうふうに言った人がいるんですよ・・・『ユーモアとウイットは違う』と。これチェスタトンというイギリス人が言ったんですけどね。

[*「ユーモアとウイットは違う」 G.K.Chesterton(1874~1936)]

(うんうん)

ウィット(wit)=「機知」と訳すのかな、機知というのは自分が高みに立って、何だお前の言ってることは?と上から目線、

(うん)

彼(チェスタトン)はニーチェを批判してね、ニーチェはなんたって優蛮民衆、ウルトラマンね(笑)

(笑)

『超人の見地からこの俗世を見下ろす、でもそれはユーモアじゃない。ウイットに過ぎないんだ』と。ユーモアとは何ぞやとチェスタトンは言って、そこは僕はね、宗教を信仰したことは一度もないから理屈でしか分からないのだけども、彼はいろいろとやって最後はCatholicになるんですけどね、天と言ってもいいし、究極のね、神でも悟りでも何でもいいのだけど、何か(究極的、絶対的な)そういうものがあるとして、自分はそこに近づこうとするだけども、到達出来る訳は無いと、この“距離感”にね、彼の言葉で言うと「pathos(ペーソス=物哀しさ、哀愁)」、ユーモアには哀しみの感情ペーソス(pathos)が無いとね。でもニーチェ君には・・・でも、本当のこと言うと、ちゃんと読めばニーチェには有るんですけどね(笑)

[*超人見地から俗世を見下すニーチェはウィットに過ぎず / 天や神に近づこうとしても到達できる訳はない距離感 / ユーモアにはpathos 哀しみの感情がある (チェスタトン)]

有る(笑)

恐らくチェスタトンニーチェをほとんど読まずにね、見当で言ってるんだと思うから、ニーチェとかそういった名前は忘れて結構なんですけどね(笑)

そうなってくると黒鉄先生、どうなるんでしょうねぇ、そういう意味では?

いやだから、ご承知の通り、ユーモアってヒューモア(humor)ですよね「体液」みたいな言葉。で、これ笑うしか無いんですよね、結論は。言語でも追い詰めても。で、武蔵も恐らく、枯木鳴鵙図(こぼくめいげきず)、あの鵙(もず)と芋虫の、

はい。

あれにユーモア(humor)感じるんですね、武蔵の呼吸、深呼吸というんですか。

[*武蔵の枯木鳴鵙図には深呼吸的なユーモアを感ずる ]

あぁ〜。

だから、彼があの刀の鍔(つば)を作ったり、物作りというあっちへ行くというのは、あれは大いなる呼吸をしに行ってる。実は逆転かもしれないですね、人殺す時に深呼吸してたのかもしれないし、これが非常に回り回って面白い見方になるのですけど。

どの道に行っても、チェスタトンでも何でも、高僧でも笑わなきゃしょうがないですよね、哲学者でも。

そうですねぇ。

笑う瞬間というのは、これはやっぱり言語なんですかね?「笑う」という。

[*笑う瞬間という言語、高僧も哲学者も笑う ]

そうですね。キリスト教哲学の一種かな、「神の高笑い」ね、哄笑(こうしょう)。僕は案外ね、smileね、「微笑」は多く使うんだけどね、高笑いをしたことは一度もない。

今村有希
(笑)

バカなことばっかりやってるでしょう、自分の人生振り返るとバカの連続なので。それで「神の高笑い」というのはね、キリスト教はこう考えるんですよ、つまり、「絶対者が人間を創った」んだと。でもね、ちゃんとどこかに不完全・不均衡を(人間に)埋め込んでいて、肺は2つありますけども、腎臓も2つあるけどさ、心臓はこっちに1つでしょう、肝臓もこっちに1つでしょう、どこかこのimbalanceね、不均衡を神様は仕組んで、人間を創ったと。みんな物語なんですよ(笑)

[*絶対者が人間をつくったが不完全不均衡を埋め込む ]

今村有希
はい。

その不均衡のせいで、人間は次々とバカなことをやっとると。戦争やったりさ、まぁ例外もあるかもしれないけど、惚れたり腫れたりも含めてね。

先生、理屈で言うと、神が果たして高笑いをするかっていう、そっからせめて始めて頂かないと(笑)

そうか(笑)

一同
(笑)

言語が破綻した時って、もう笑うしかないんだろうなぁいう気がしますね。あの「寒山拾得図」で、二人の童子が手を仰いで呵々大笑する、あれはもう言語を超越していますから、武蔵もそうだし、やっぱりなんかそういう(言語を)「超越した瞬間」にユーモアが出てくるというんですかね。

[*呵呵大笑の童子描いた寒山拾得図 ]

うん。

まぁあったんでしょうねぇ・・・笑っている武蔵って魅力的ですよねぇ。まぁ非常に怖いですけども。

今村有希
(笑)

いちばん怖いのはね、話ズラして言うと、よく知らずに一知半解で言ってるんですけどね、ぼく道元をちょっと読んで、まぁ座禅の哲学・・・まぁ分かったような気もした。親鸞の「歎異抄」読んで、まぁ分かったような気もしました。それから日蓮の「立正安国」国を思って立て!というね、それも分かったような気がして、高野山空海の摩訶不思議なものを・・・でも、一番分からないのは一遍上人ね。踊りまくる。

はい。

しかもね、女の集団、ほとんど女だった(一遍の)あとをついて歩くのね。それでもう踊りまくる、言葉は汚いけどヤリまくる・・・これは笑いとは逆の「狂気」に近い世界ですからね。僕ね、恐ろしくてこれに近づきたくない。

[*踊り念仏で浄土へという狂気に近い一遍上人


踊念仏(笑)それで、世が混乱した時は、戦後で言うと、北村サヨってご存知?

今村有希
知らないです。

戦後の大混乱期にやっぱり「踊る宗教」のね、女性ですけどね。

[*戦後の混乱期に出てきた踊る宗教の北村サヨ ]

今村有希
へぇ〜。

やっぱりね、時代が大混乱になった時に、まず狂気染みて来るのと同時に、それに感じるのはやっぱり女性なんですねぇ。

今村有希
(うん)

武蔵の場合は女性はどうなってたんですか?

ほとんどその関係は・・・(黒鉄の方を向いて)わかりますよね?どうなんでしょうねぇ。

今村有希
(笑)

熊本の武蔵の碑に女性の名前が刻まれてるって説があるんですよ。見に行って触ったんですけど、ちょっと判明できなかったですけどね。

あぁ〜そう。

ただ、(西部)先生の仰ったのはそれはトランス状態ですね、一見。武蔵も斬り込む時にスッと行く時に真っ暗闇のようなところに居る、するともう気がつけば斬っていたと、これも一種の“静のトランス状態”ですよ。

あぁ〜そうか。

一遍が(踊りながら)大騒ぎしていって路上的にやるけど、武蔵の場合は静かに静かに・・・だから、こう乱動してるんでしょうね。

なるほどね。そうか“静かな恍惚状態”ね。

武蔵の歌でその「振りかざす太刀の下こそ地獄なれ、一と足すすめ先は極楽」というね、(剣を構えた状態で)ここで待ってたら地獄だと。もうその先の方、トランス状態じゃないですけどガーッと前へ出ると、そこに極楽があるんだと、という言葉がありますね。

[*「振りかざす太刀の下こそ地獄なれ、一と足すすめ先は極楽」宮本武蔵

あぁ〜。しかしなかなかあれですね、加藤君に示す基準が出てきませんねぇ。

加藤にしろ、まぁとにかく理由無き殺人者と言われている者、自分がいなくなって、だけど自分を証明しなきゃダメだと、「その存在証明するために殺人という手段を選んでいる」、これは本当に異常な事態なんですけど、これでも例えば表現で、漫画を描く、美術或いは音楽をつくる、文章を書く、こっちの方がやはりかなり近いと思うんですよね。

そうでしょうね。

その加藤(加藤智大)が、表現という手段を掴んでいたら・・・と本当に思いますね。

あぁ〜そうか。

それこそ昔からの永山則夫(殺人犯、死刑執行により死亡)もそうですし、彼はまぁ最終的に小説を書きましたけれども。

うん・・・そうか、そういうことか。

書かれたのは、「言葉以前」のものを求めて、人間は「狂」・・・狂い、でもこの狂いを自覚して自分をなんとか保っていれば、そう無闇矢鱈な秋葉原殺人事件まで行かなくて済む。

しかしながら、その基準が・・・言語以前の基準、といった途端にまた言語が分からなくする

「言語以前の言語とは何か?」という訳のわからぬ話が次の週お二人に、僕にも分かるように説明してもらうということで(笑)

今村有希
(笑)

今週はありがとうございました。

一同
ありがとうございました。

【次回】「なぜいま『武蔵無常』を論じるのか」③ ゲスト:藤沢周(作家、法政大学経済学部教授)、黒鉄ヒロシ(漫画家)