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MX・表現者 シンポジウム② 護憲の妄論を排して改憲の道筋を明らかにせよ〜TOKYO MX 西部邁ゼミナール×隔月雑誌「表現者」連動企画〜

MX・表現者 シンポジウム② 護憲の妄論を排して改憲の道筋を明らかにせよ〜TOKYO MX 西部邁ゼミナール×隔月雑誌「表現者」連動企画〜

司会進行:富岡幸一郎表現者編集長、文芸批評家、関東学院大学文学部教授、鎌倉文学館館長) 【近著】文学の再生へ 野間宏から現代を読む(藤原書店)

ゲスト:
浜崎洋介(文芸批評家、日本大学芸術学部非常勤講師)【編著】人間とは何か(文春学藝ライブラリー)ほか

佐藤健志(評論家)【近著】戦後脱却で、日本は「右傾化」して属国化する(徳間書店


【ニコ動】
西部邁ゼミナール) 平成の時代とは何であったのか【2】2016.09.10

http://sp.nicovideo.jp/watch/sm29620429

⚪︎第一部:護憲の妄論を排して改憲の道筋を明らかにせよ

富岡幸一郎(司会進行)
先般の参議院選挙で3分の2を改憲勢力が獲ったと言っております。まぁしかし勿論、ご存知のようにその中身を見ればですね、公明党とかいろいろあるわけで、まぁ衆参3分2を獲っても実際に改憲の発議をし、憲法改正に行くには道遠しという感があります。

まず今日はゲストの皆さんからですね、この今の状況、そして戦後70年に渡ってこの憲法を押し頂いてきた我々の状況についてご発言頂きたいと。

浜崎洋介
文学をやっているとですね、つまり現実と言葉との対応関係ということについては・敏感にならざるを得ない、いや、敏感になることが言葉を扱う人間の倫理だと。その限りで言えば、やっていることと、言っていることの一致やズレ、それについての敏感な感性というのがどうしても必要になる。

日本国憲法というのは、つまり言っていることと、やっていることが完全にズレているわけです。言っていることは「平和憲法」であり、やっていることは「自衛隊とそして安保」なわけですね。この“ズレ”についての感性を持っている限り、あの憲法を肯定することが出来るわけがないんですね。

その意味で言えば、それがアメリカから押し付けられた、或いは、押し頂いたということも含めてですね、それは外在的であるかないかということよりも手前で、言っていることとやっていることのこのズレ、それを考えればあの憲法をどこから肯定出来るだろうか。そして多分、恐らく文学者というのはそのズレの感覚について、発言を常に繰り返してきた。

例えば、1965年です。つまり1945年に敗戦ですから、そこからようやく20年経った。その時点で、福田恆存が『當用憲法論』というものを書く。そして、それから間もなくして3年後、1968年においては、三島由紀夫が『文化防衛論』を。勿論これは憲法論とは言えませんが、しかし憲法の話も内在的にそこでしている。

そこからもう少し経って、1979年ですね、ご存知の方もいらっしゃると思いますが、江藤淳が『忘れたことと忘れさせられたこと』、或いはその翌年の1980年、そこで『1946年憲法 その拘束』を(江藤が)書く。そして勿論、西部先生もですね、1991年に『私の憲法論』(「私の憲法論 ー日本国憲法改正試案」西部邁 )というものを上梓してらっしゃるわけですが、つまり憲法以外、憲法学以外から延々とその憲法に対するある種の違和というものを発し続けてきたわけです。それこそまさに我々の『常識』或いは、『言ってることとやっていることのズレについての感覚』それに基づいての発言だったと言っていいというふうに私自身は考えています。

では、あの日本国憲法の中の不自然さ、つまりズレの核心にはいったい何があるのか。恐らく私が考えるところで言うと、2つだけ先ずは挙げておきたいと思います。

『1つは、日本国憲法が決定的に過去を否定しているということです。』

ご存知だと思いますが、勿論、GHQが書いたわけですが、少なくとも戦前、或いは明治期以降のその歴史というものをancien regime(アンシャン・レジーム=旧体制)として切断し、未来この先、理想を求めて我々はやっていくんだといったような話が出ている。過去を持っていない、記憶を持っていない個人というのはいるんでしょうか?勿論、そんな人間がいるとしたら人格喪失者ということになります。

とすれば、過去を否定した国家が骨格、つまり人格を持つことが出来るのか?恐らく出来ないわけです。その限りにおいて、自己喪失になるはずなわけです。

『もう1つが、あの憲法においては国家が完全に否定されているという点です。』

国家というものは主権において規定されます。 sovereignty(サバンティー=主権)ですよね。『主権』とはいったい何か。対内的には『立法権力』です。そして、対外的には実は『交戦権』です。立法権と交戦権によって規定される主権が、実はこの国家には、日本国憲法の中には一切出てこない!!何故か?勿論それを我々が主権として立法したわけではないからですよ!!

そして、日本国憲法という他者に立法されたその枠組みの中で我々は立法しているとすれば、最終的な主権を先ずは奪われていると考えるのが適当だと私は考えます。

戦後日本というのは70年間に渡ってあの憲法を奉じ、奉ってきたと。ようやくですが改憲議論が出てきた。だがしかし、それも内発的なものではありませんね。つまり外発的な、北朝鮮や或いは、中国といった脅威を目の前にしてようやく変えようと重い腰をあげ始めているに過ぎない。とすれば、私たちがそこは内在的にズレを感じ、それが今だと感じ、そのことからあの憲法を変えようということが、70年間起こらなかったこと自体が異常な事態だと私自身は考えます。

実際、護憲派、或いは憲法学者たちがそれをするはずなんですが(笑)、何故か、彼は憲法の枠組みの内でそれを解釈することだけに必死で、憲法自体を問おうとはしなかった。憲法学者、或いは護憲派はほとんどが鈍感であるか欺瞞であるか、その amalgam(アマルガム)だということになるわけです。

 

佐藤健志
「護憲の妄論を排し改憲への道筋を明らかにせよ」と。いわゆる左翼・リベラルの方々を中心に、戦後70年間、敗戦後70年間よく主張されてきた「現在の憲法の内容は一言一句、未来永劫変えてはいけない!」、左翼リベラルのロジックに従えば、「憲法改正というのは必ずナショナリズムを強化する方向で行われる。国家の肯定に向かうに決まっている」と。でこれは、この国の戦後日本の左翼リベラルの発想では「必ずそれは戦争への道とかいうものに結び付く」ことになっております。

非現実的な妄論であるというふうに片付けて構わないものなんですが、問題は『この護憲の妄論に面白いバリエーションがある』ということです。

憲法を改正しさえすれば、日本はちゃんと国家を取り戻すことが出来る。過去を取り戻すことが出来る。自己喪失から回復する。国家はもう一度肯定され、戦後の欺瞞や虚飾なるものから脱却出来ると。」

実は、改憲論者のほとんどは、護憲の妄論に対する評価をひっくり返しただけ。平成28年の歴史というのは、伝統の破壊が進んだ歴史です。それによって、国家の主権というものが解体されていった歴史です。早い話が『構造改革の歴史』です。そういう流れの中で行われる憲法改正が、究極の構造改革、つまり、過去の一層の否定、一層の自己喪失正当化、そしてさらなる国家と主権の否定というところへ行き着かない保証はどこにあるのか!?

『これまでの戦後憲法よりさらに戦後的な新憲法へと、そういうふうに化けていくのではないかと。この可能性について十分考慮しない改憲論議というのは非常に危険であると思います。』

ゃんと全部護憲の妄論を拝しましょう。そしてそこには、憲法さえ変えれば日本が蘇るというものも含まれます。憲法改正というのは、憲法の内容を変えるということしか意味しません。そして、現状においてはそれは究極の構造改革、或いは、グローバル化最大のトドメになる危険性の方が高いのではないか、これをまず提起しておきたいと思います。

 

西部邁
僕は気分を率直に言うと、改憲論者じゃなくて、『廃憲論』ね。

佐藤健志
(笑)

西部邁
成文憲法はいりまーせんっ!!日本国民の大事とすべきことはこういうことだよということをね、旧商家の家訓のようなことを、埃まみれでもいいけど一応飾っておくということぐらいのことはまぁいいかもしれない。言わば、言葉の感覚の問題ですね。

日本国憲法の)11条にこう書いてあるの。「人は生まれながらにして基本的人権を有する。」・・・いったい「基本的」って何なんだと?!これは解釈次第でしょう。結婚した以上、夫たるもの妻と子供を大事にしなきゃいけないというのは常識だろうなと。例えば、こういうことは基本的なの。

次の条を読みますとね、自由及び権利の欄では、公共の福祉に沿うように使わなきゃいけない。おい「公共の福祉」って何?!(それについて)一言も解説が無いんですね、文章には。これをまた我々は本当はね、言語感覚が真っ当ならば、常識に基づいて「公共の福祉ってのはさぁ〜」と電車の中で騒いじゃいけねぇとかね、

佐藤健志
(笑)

西部邁
えぇ?広場でどうしちゃいけないとか、親も爺さんもやってただろうと。まぁあぁいうこっちゃよと。それに反しない限り、人間には自由権があるんだと。公共の福祉が何だということは、対する我々の『言語感覚』が真っ当でないといけないんですね。

憲法の99条のほとんど全てはね、アメリカ軍が書いたもので、表面だけ読むと、いかにもAmericanism(アメリカニズム)丸出しの実験的な文章になっているのですが、常識をもって読み返すとね、基本的ということはね、先祖代々の伝統の精神に基本的に基づくことだよと。公共の福祉とは何ぞやとなると、これはまた社会に関する我々の伝統の感覚というものを活かしてこそ公共の精神だぜ、というふうに解釈していくと、全部いまの憲法で構わない、ほとんど。我々の解釈さえしっかりしていればね。

ところがね、1つだけ・・・どう我々が解釈し直してもね、解釈し直せない文章があるんですよ。これは実は、『憲法9条の第2項』なんですね。侵略戦争はしないという前項の目的を達するため、陸海空その他の戦略と国の交戦権、これを否定すると。

これだけはね、言葉があまりにもあれでしょう?戦力と交戦でしょう。これを解釈しろと言ったってねぇ、解釈、他の解釈は不可能なんですよ。自衛隊は戦力に決まっているし、戦力ならば必ずや交戦可能なももんなんですね、それをね、若干説明すると、日本の最高裁は、『主権国家ならば自衛権というのはわざわざ書かなくてもあるハズだから、自衛隊があってもいいんじゃないの?』という形で弁護しようとしたんですね。これは、無理やりの解釈だけどもどうしたって嘘なんですよ。

というのは他の自衛方法もあるわけです。例えば、マハトマ・ガンディーさんはですね、失敗しましたが非暴力・不服従、一切武器は手にしない、その代わり、強い者には巻かれろ、寄らば大樹の陰などと情けないことはしない!殺されても踏まれても打たれても傷付けられても我々は服従しないと。不服従、武器を持たないで戦う。

或いは、民間がゲリラで戦うというやり方もあるのだから、論理的に言うと、日本ではゲリラ戦は何の意味もありませんよと。マハトマ・ガンディーの非暴力主義も結局はうまくいきませんよということを言ってから、自衛隊は基本的には憲法には違反しないと言わないといけないのに、そういうふうな誤魔化しをやる。

『結論を言うと、最高裁を批判したいんじゃなくて、実はこの私たちは、このどうしようもない戦力は持たない、交戦はしないというのは他に解釈しようがないんですよ!!』

しかも日本人ときたらヒドいんですよ。自衛隊の存在を認める人は世論の93%ですよ。そしてこの9条第2項を廃止するのに反対!!護憲が60%・・・日本人のアタマはいわゆる統合失調症に陥っているわけですよ。

佐藤健志
(笑)

西部邁
憲法を論ずる前に、日本人よと、アタマの分裂状態をどうにかね、まぁ優秀な民族だと言われているんだけども、少しは治してから憲法に取り掛かってくれと。それを治さない限り、護憲も改憲もありゃしねぇと。

浜崎洋介
(頷く)


佐藤健志
『優れた芝居の人物はですね、その矛盾に対して自覚的である。』


日本では、文学者と言われる方々の中ですら、これについて自覚しないようにしようとする傾向が非常に顕著であったと。


浜崎洋介
(うんうんうん)


佐藤健志
じゃあその連中は言葉のセンスがおかしいのか?・・・実は福田恆存さんはそう言いました。『今の憲法は名文という大江健三郎氏の文章感覚を私は疑います。』とハッキリと當用憲法論であの人は言いました。で問題は、それについて自覚的に突き詰めるという姿勢があるかどうか。遺憾ながら、護憲派の文学者にはこれが無いわけです。


言ってることとやっていることのズレ、言葉と現実のズレに関する不誠実な向かい合い方、これが実は戦後のいわゆる言論空間と言ってもいいですし文学空間と言ってもいいですが、それが根本の問題にあるんじゃないかと。護憲でも改憲でもいいけど、それを真面目に論じる前にですね、まずそういった感覚を磨いてくれということが中身ではないかと私は思うわけです。

 


浜崎洋介
文学というのは、言っていることとやっていることのズレということは勿論それは道具にして、すごく多用するジャンルではあるのですが、しかしながら、作者はですね、その言ってることとやってることのズレがどうズレているかを自覚していない限り書けないですね。だって、そのズレを面白ぐ、或いは味わうわけですから。


とすれば、この『自覚』がある限りにおいて、私はそれが偽善であったとしても、実のところそれはいいと思っているんです、実は。つまり、偽善の自覚があればですね、言ってることとやってることの間で股裂になっている感覚がありますから、いちおう統合しているわけです、なんとか。その緊張感さえあれば実のところ、この股裂がキツいが故に、いつかやはり自然な形で、つまり constitution(コンスティチューション)というのは原義が気質とか体質ですから、つまり自然な形でそれを求めようとするのが人間の普通の感性だろうというのが一つです。


ただそこまで行くとですね、ここまで分裂しているものをなぜ戦後70年間われわれは持ってきたのかという方がむしろ不思議になってくるわけです。


佐藤健志
(笑)


浜崎洋介
明治から繋がっていることだと僕自身は思っているんです。つまり明治維新の時に、我々は文明開化の論理で富国強兵、或いは殖産興業をやった。それがダメになってきた、それが日露戦争後の空白だった。そこに出てきたのは大正期の個人主義、或いは教養主義だった。がしかし、それも関東大震災や或いは、日中戦争の最中で終わっていく。その時に、もう一回復活するのが、まさに西洋的な文明開化を超えた形で出てくる『近代の超克』或いは『大東亜共栄圏』という思想だった。それも無くなったんです。


つまり、戦前も戦前で『価値の空洞化』をめぐっていろんな議論がなされてきた。そして、私たちはいったい何者かという自問自答をしてきた。その最期の果てに、あの大東亜共栄圏の理念も失った時の『空白』が出てくるわけです。この空白に何が流れ込んできたか、勿論、マッカーサーという慈しみの父、つまり慈父ですね。彼が書いた日本国憲法ですよ!そしてその中では国民と国家が分裂するわけです!!「国家は悪い事をする連中だ」と。一方で、「国民は純朴で本当はいい人間だから、その彼らにいい憲法さえ与えればいい社会をつくるはずだ!!」といったその免罪符を与えた。つまり、これは懲罰と免罪のうまい組み合わせですよね。それに免罪された国民たちは乗ったわけですよ。僕はその『乗ったところから全てが終わった』と思います。つまり、『これが日本人の弱さの問題』だと僕は思ってますね。

 


富岡幸一郎(司会進行)
自衛隊という軍隊がありながら、陸海空その他の戦力は有しない、国の交戦権は認めない、というこの分裂・・・これはやっぱり自覚しないで、しないようにしてきたということの一つの私は端的な現実は『日米安保条約』。つまり『アメリカ軍が日本にずっといてくれる』という、これがですね、やっぱり決定的だと思います。

 


西部邁
あの大東亜戦争がやった軍人なんてのは、日本人としては特殊な例外ですね。いわんや神風特攻隊なんてのは例外中の例外で、『我が国民の無意識な貞操はですね、実は“属国根性”なんです!!』と、小さい声で言いますよ、本当にそうかもしれないの。


一同
(大笑い)


西部邁
でも厄介なんですよ、それを認めちゃうとね、そんな者たちを相手にものを書いたり喋ったりですよ、


浜崎洋介
(うんうんうん)


西部邁
本を出したり説得したりということの無意味さ。もっと言うと、そんな人間たちに囲まれて生きてることの無意味さまで、言っちゃあねぇ、異様に怖い無意識なんですよね。


一同
(大笑い)


西部邁
文学者ともあろう人たちが、なぜそこまで論じないのかと。でもね、もうちょっと深い意味もあって、実は僕は断固として自衛隊を擁護しますし、自衛隊が出来た途端に、憲法9条第2項はあんなものはとうに死んだ文章ですと、死文ですと、反故と化しておりますということを常識にしちゃえばね、いいんだけども、でも本当のことを言うと、軍隊、近代主義の権化ともいうべきこの軍隊、でもそれを嫌いだけども迎い入れて、存在し、励ます以外にですよ、自分たちの国家どころか、自分の家族も自分の命すらも保障されないのだというね、そこまでもうひと押しふた押し考える力が無くて「軍隊は嫌いよ!」と、「警察はイヤよ!」というところでとどまったんじゃ、それは本当に少年少女の sentimentalism(センチメンタリズム)に終わると。


やっぱり選挙権18(歳)になったらしいけど、大人になるってことはですね、嫌いな事でもやらなきゃいけない事が多々有るもんだと。大人の感覚というのかな、そういうことでもって、いわんや国家のことは大人の感覚で論じるということが必要かなと。

 

佐藤健志
この国はですね、右の方への支持がワァーっと8割行ったかと思うと、また左への支持がワァーっと8割行くそういう国です。“今は” とりあえず保守と言われる側の勢いが強いからいいけれど、それが本当に今後も続くか、そして憲法というのは本当に変えていいものであるという通念のみ確立された後、仮にこの『グローバル化思考』というか『構造改革思考』というか『国家否定思考』というのがですね、“また” ガンと流行り出した時にどういう憲法改正が行われるか、あのエドマンド・バークは、近代の保守主義の原点と言われる「フランス革命省察」で、『保守主義者たる者、重大な局面であればあるほど臆病なぐらい慎重でなければならん!』と断言しておりますが、もう憲法改正については全くそれが適用されると思います。

 

浜崎洋介
私自身もこれは ambivalent(アンビバレント)なんですが、つまりいま(憲法を)改正すれば保守側が強いから我々の意図通りの方針でやるのやもしれないけども、もちろん時代が変わればそうではないと。しかし、われわれ近代の経験って150年ぐらいしかしていないんですね。つまり、行ったり来たりもたいしてしていないわけですよ!宗教戦争から憲法というものがつくられたということの西洋史を見てみれば、実のところ相当な年数の中で行ったり来たりはしている。その都度、国が破れたり、あるいは勝ったり、もの凄い傷付き方をしている。果たしてこの国は、傷付いたと言ったって、実のところ西洋に比べて非常に歴史的経験は非常に浅いと考えています。その限りで、実は“私たち自身の手でどのようにしてであれ変えるべきなんだ!!” と私は思っています。変えて経験すればいいんですよ、間違いを。そしてそれで学ぶんです。ですからこれは長期的なスパンです。今そのようにして、もちろん左に振れるというのは、私自身の本意でありませんが、しかし、そういうふうになるんだとしたら、それは日本国民が選んだことでしょう、そこで傷付けばいいわけです。私自身はそう考えています。


富岡幸一郎
浜崎さん、佐藤さん、どうもありがとうございました。

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