『戦争抑止を集団自衛に頼る奴隷根性』MX・表現者塾 西部邁・富岡幸一郎

◼︎『戦争抑止を集団自衛に頼る奴隷根性』MX・表現者西部邁富岡幸一郎

西部邁:評論家 雑誌「表現者」顧問、近著『経済倫理学序説』(中公文庫)

富岡幸一郎:雑誌「表現者」編集長、鎌倉文学館館長


【ニコ動】
西部邁ゼミナール)『表現者塾』戦争抑止を集団自衛に頼る属国根性2014.07.27


第二回の表現者塾ということで、大勢の皆様にまたご参加いただきまして誠にありがとうございます。

次号の56号のテーマ(※雑誌『表現者』)【「滅びを覚悟で戦う」】中江兆民の言葉だそうですけども、『覚悟』の問題ですね。

第一次大戦から100年。そして来年は、第二次大戦終結70年の時を迎えます。

『自らが自らの国を守る』というですね、そのところの【覚悟】を決めない限り、『集団的自衛権』容認というのは、そのプロセスの一つとして必要ですが、その先に『憲法改正』なり、『自主防衛』なり、【自主防衛のなかでのこの集団的自衛権】ということをしっかりと見せなきゃいけない。

この塾を通してですね、皆さんとしっかりと議論して参りたいと思います。

それでは、西部邁先生よろしくお願いします。

集団自衛権の行使容認とかいうテーマについて語ってみたい。

先ほど、富岡さんの方から『滅びを覚悟で戦え!』と中江兆民が言ったと。中江兆民は、1901年に死んだ人ですけども、日露戦争は1904年ですから、戦争が始まる前にね、『ロシア討つべし!』『滅びを覚悟で戦え!!』と言って、何故、この日本では「民主主義の元祖」といわれ、「社会主義のご先祖」とすらいわれるというね、そういう100%に近い【誤解】を、しかもそのあたりを世間の人が言ったのではなくて、『学者連中』がね、それを振りまいて止ん事がない。

名のある、そうそうたる学者たちが中心になって、ほぼ100%に近い誤解なり偏見なりを振りまくのは何故か?

答えは簡単でしょうね。やっぱり学者といえども、いくらお勉強家といえども、うかうかしていると「時代の雰囲気」というものに飲み込まれて、『色眼鏡』で見てしまうと、諭吉が言ってることも、兆民が言ってることも、うつってこないというね。

その調子でもってですね、この今の『集団自衛の問題』について論じてみたいのでありますけども、かつて、イギリスのある思想家というか、僕の大好きなチェスタトン(※ギルバート・ケイス・チェスタトン)、まぁ〜推理小説家でもあるんですがね、彼の一つの有名なセリフがあるんですね。

『勇気とは何か。勇気とは自分を守るために(※この場合は「自分たち」でもよい)発揮する生のエネルギーである』というふうに彼は言ってのけるのですね。

真の勇気ということは、【命を捨ててかかる】ということです。『生き延びるために、死に急ぐ』というね、そういうある種の【矛盾】というものを、人間も国家も抱えているんだと。このあたりのことをわからなければ、恐らく、防衛問題、国防問題というものは、非常に平板な、先ほど言ったような『子供のおもちゃのゲームのような話』になりがちでしてね。

雑誌でも、新聞でも、国会でもいいんですけどね、議論の。まぁ〜真面目に聞いてるわけでもないんですけども、ちょっと耳を傾けると非常に平板な話が多くなっているんですね。

考えてみると、『武士道』の【山本常朝】(佐賀鍋島藩士、『葉隠』の口述者)が、『武士道とは(何か?)死ぬことと見つけたり』と言っている。

人間が生きるか死ぬか。もうちょっと柔らかく言うと、『進むべきか、留まるべきか』、あるいは会社で言えば、『会社に残るべきか、やめるべきか』、そういう命と言わないまでも、人生でもなんでも職場でもいいんだけども、そういう、かなり決定的に大事なものについて「マル か バツ か」のギリギリの選択問題が来たときには、基本的には「やめる」「やめてしまう」方を選ぶ方が正しいんだと。

会社で言うと、「月給が大事だから留まる」と。もちろんそれは大事なの。皆さん、月給は大事にしたほうがいいんですけども、あんまりそれにのめり込んでしまうと、会社のくだらない命令、くだらない上司にも、それに強いられるくだらない生活で「あたら一回だけの人生を棒に振ってしまう」とまぁ〜そういうことはよくあるでしょう。

それは、人間の心のなかに『ギリギリ』が来たときには、『自分一人になっても戦う“覚悟”でなり“決意”というものをいつも準備しておく』という、《おそらく防衛問題というのは、そういうことを根本に持っていなければ論じきれない》というそういうことなんだよね。

『生き延びるために死に急ぐ』というそういう【矛盾】を表現する言葉づかい、これをしっかりと自分で駆使しないといけないんですね。

戦後日本は、富岡さん言ったように「69年」が経ちましたけども、そういう『矛盾』に満ちた人間とか国家をきちんと巧みに表現して、自分で納得し、周囲を説得するような表現というものが、ずいぶんと貧しくなっていますね、

僕は、安倍晋三首相その他をね、日本人からバッシングされて一旦退陣させられた時に、《あまりにも酷いバッシング》だから物陰で応援していた人間で、別に、首相の悪口を言う、批判をする趣旨じゃないんだけども、総理が、首相がですね、こういうふうに言っているんですね。集団自衛権の行使容認をめぐって・・・

『日本には平和憲法がありますので、戦場には赴きません』と。

説明を加えて言うと、例えば、仲間の「負傷兵」を同盟軍、具体的に言えばアメリカですけども、アメリカの負傷兵が前線にいるのならば、「それを救出しに行く」という人道的な理由で戦場の真っ只中に行くこともありますが、「平和憲法があるので、それはできません!」と。「基本的には、後方支援に徹します」ということを、実は首相が発言しているんですね。

皆さんに『言葉の問題』として考えてもらいたい。【平和憲法なんてものは、存在しない。あるのは日本国憲法があるだけ!】だからね。果たして、日本国憲法は、戦後日本人が憲法ができてから67年間ね、平和憲法平和憲法と言い換えてきましたが、『どこが一体、平和憲法だと断言できるのか!?』と、言葉の問題で考えてみて、かの有名な『憲法9条の第二項』にこう書いてあるでしょう?

「陸海空その他の戦力は、これを保持しない」・・・つまり非武装でいくと。「国の交戦権は、これを認めない」、戦いを交えないと。

ところが、正式には1955年あたりかな。『自衛隊』が出来ているんだよね。自衛隊というのはみなさん、どう考えても「戦力」だと思うでしょう?「戦力」ならば、可能性としてね、『戦いを交えることも、あり得べし!』としなきゃならないわけ。これはほぼ、表現は大業、大袈裟だけども、【絶対矛盾】で、つまり、『自衛隊の存在を認めるか、憲法9条の2項は有効と認めるか』ってね、本当にこれこそ、【二者択一の問題】なんですね。

憲法9条の第二項は『死文』だと。九十何%反故ですなと。それは、自衛隊を認めているとなったら、【果たして、この憲法のどこを指して「平和憲法」と言えるのか?】

強引に言うことはできるんですよ、『憲法前文の第二項』に、皆さんもご存知聞いたことがあると思うが・・・

「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、我らの安全と生存を保持しようと決意した」という文章がある。

これを字面通りに見ると、「世界の平和愛好諸国」、実際上はアメリカ人の書いた憲法草案ですから、アメリカ人のことなんですけどね、「アメリカを中心とする諸国は平和愛好諸国である。」・・・どこが、一体!?というふうに僕は思いますけども(笑)、公正な国である、信義に満ちた国であると、信頼しておけば、『我ら(=日本人)の安全と生存は大丈夫だよ』という、字面通りには、そういうふうに考えられますよね。

しかしながら、こんな文章はですよ、適宜・・・これは『解釈改憲とも言えない』と思う。こういう文章だから、日本人がしっかりしてさえいればね、『平和を愛する』とはどういうことか?と。平和というのは、戦争がない状態でしょう。みなさん、英語でPeace Peaceとね、タバコの銘柄で昔Peaceって、もうないんですかね?ありましたけどもね。

あれのもともとの意味は、ラテン語で『パクス Pax』でしょう。パクスを調べると『平定する』という意味なのね。『強い者が弱い者を平定して、静かになると、平和になる』んですね。

あの憲法をつくった時の、まだ日本列島に原爆も落とされ、東京を空襲で10万人も焼き殺され、その他、全国で90万人の日本人が(アメリカ軍に)『焼き殺された』んです。日本人の非戦闘市民、一般市民が。そういう硝煙、爆弾の匂いが消えやらぬ時にね、日本のことをよく知らない、日本語もよく喋れない、日本の歴史なんかとんと知らんというアメリカの青年たちが21、2(人)かな?よってこぞってたった6日間で書きしたためた文章というものだからね、解釈はいろいろあるんですよ。富岡さんが先ほど示唆したように、『ちゃんと一丁前の国なら、自分たちで憲法を作れよ』と、正論なんだけども、それがめんどくさいとしたらね、【「解釈し直せば、それの方が常識にあっている」】と、そういうふうに読むこともできる文章になっているんですよ。

さて、そうだとしたら、この憲法は「平和憲法」などと形容することなどできないんですよ。だって、9条第二項は削除、反故と考えて、前文の第二項は、ごく常識的に解釈すれば、簡単に言えば、『平和のために戦争の準備をしておかないといけない。これは公正と信義に厚いということだ』というふうに解釈しておけば、この憲法は、平和憲法などというふうに形容し直すことができない憲法だとも言える。

それなのにですよ、平和憲法、(それなのに)戦争する(しようとする)、平和だ!平和だ!平和だ!などと言ってるウチに、これは平和憲法だなんだと言って、69年も(アメリカに)負けてから経っているのに、(安倍)首相御自らさえ、「平和憲法ですから、後方支援に徹します」と言わざるを得ないような、そういう国防論議なんですね。

でもそう考えてくるとね、もっと「言葉の問題」として、こだわり過ぎかもしれませんけど、皆さん「集団自衛権の行使容認」と言いますけれど、【容認】というのは、『渋々ながら認めようか』ということ。『できれば無い方がいいのだけど、止むを得ずやろうか』と、そういう傾きがあることが『容認』というね。

厳密に考えれば、こうじゃないですか?アメリカが集団自衛で、日本と日米安保条約結んでいいんですよ。それはいいんだけども、アメリカだって、あのイラクとかアフガニスタンもかなりそうですけどもね、あとで「ごめんなさい」と、「CIAの情報が間違っていました」というようなことを仕出かさないとは限らない。もしも、日本人がそういうことを察知したら、『アメリカよ、安保条約を結んではいるが、今度のお前さん方のやろうという戦争は、まず間違いなく酷い顛末になると思う。それ故に、我々はそう簡単には、お前さんたちとは、前方だろうが、後方だろうが、支援には行けません。行きづらいですよ。』と。

【「自分の国家の判断として、この集団自衛は、参加するべきか、やめるべきか」】というね。そうだとしたら、『容認』とかって言葉は、そもそも使えなくなりますよね?

『集団自衛権は、断固として、その行使を推進すべき場合もあるし、断固として抑制する場合もある』というね。そういうことすら議論せずにですね、「後方支援に徹します」と、この場に集まっている皆さんはね、紳士的でしょうから、あまり子供の時から喧嘩したことないでしょうけど、どんな少年がグループで嫌われるかというとね、「昨日まで仲間だ、仲間だ」と言っていながら、いざ、敵のグループと大喧嘩始まったときに、『ウチには平和憲法があるので前線には行かないけど、二階の後方からね、君たちが疲れたら、アンパンの一つでも放ってやるからね。』なんて言ってる奴が、敵以上に嫌われるに決まっているわけですよ。ほぼ、だいたいそういう奴は、集団リンチに遭いますね。

どうして今、集団自衛権のことが議論になったか、皆さんお分かりだと思うけど、他でもない【尖閣の問題】なんです。

あの東シナ海尖閣に、中国がやってきそうであると。日本は一人では中国を相手にすることはできない、若しくは厄介だと。アメリカ様がおられるので、ここは、『アメリカ様に尽くしておけば、アメリカも助けてくれるだろうな』という、そういう計算というか、気分の流れで、急に俄かに、『集団自衛権容認問題』が起こっているわけです。

その肝心のアメリカ様がね、尖閣について何を言っているかというと、これを何回も言っているんですよ、アメリカは。ついこないだも、オバマなる大統領がやってきて言っていましたよ。

尖閣が日本に領土権があるかどうか、それはワシは、アメリカは知りません。ただ日本があそこ(尖閣)に、[統治権とか施政権とか管理権とか言われたりするけども]日本が施政権を及ぼしていることは認める。だから、尖閣日米安保の適用の範囲内、(もっと明確に言えば)適用の“可能範囲内”にある』ということを言って、日本の気持ちをなだめているんですよ。

アメリカが言いつけていることをまとめて言うと、『日本は尖閣を“占領”している。』領土権なき施政権というのは、基本的には【占領状態】である。

さて、『尖閣は日本の占領状態である』とアメリカが言ってると解釈したら、中国にだって「言い分」が出てくるんじゃないですか?

『(尖閣は)俺たち(中国)の領土なんだと前から言っている。お前たちが占領しているけど、そのうち取り返すぞ、奪い返すぞ!』という、そういう(中国側の)理屈になるでしょう。そういう中国の理屈をむしろ補助、サポートしているのが【アメリカのやり方】だと。

例の「ウクライナ問題」、その前のクリミアも、まぁ同じですけども、それを指して、アメリカはなんと言っているかと言うと、平然と、『力による現状の変更は許さない』と。それを日本人が、小さい声で言いますけども・・・安倍首相さんね、猿真似というかオウム返しで『力による現状の変更は許されない』、だから今のロシアのやっていることは問題だと。

僕は別に、ロシアの弁護したくてこんな話をしているわけじゃないんです。『領土とは何か?』申しますよ。

『領土とは、力を長きにわたり継続した時に、領土となる』、そういうことでしょう?

そのことを押さえていたら、「力による現状の変更は許されない」などというのは、かなり戯言に近くなってくるわけです。その意味は、領土に関する国際法とは何かと言えば、『国際法における領土とは、ある集団がこの土地に長きにわたって力を及ぼしてきたから領土と認める』と、そういうことでしょう?

最近、日本人が平気でこう言ってるんですよ。『法の支配』、もちろん分かっていますよ。文明国の所以は、そうむやみやたらに力を振り下ろして、ぶん殴っちゃえ、蹴飛ばしちゃえと、それは野蛮人のやることだろうと。ルールを決めようぜと。でも皆さん、法のね、『法』ってのは何からできたかと言ったら、先ほどの領土権もそうだけども、『力が安定して長期的に使われた場合に、それは「法」として確立される。』それだけじゃないんです。その『法』を、いまの新しい状況の中で、「どう解釈し、どう運用するか?」というのは、また【力の問題】なんですね。

「法の支配」と称して、国際法のその名のもとに計算通りにいきましょうなどという【馬鹿話】を、日本人が、あろうことか、東大出たり慶応早稲田とか出て、偏差値の高い人間どもが、しかもね、面白いことがあるんですよ。職業についているんですよ、法務省だとかなんとか外務省とかもね。【専門家になればなるほどおバカさんになる】というね、異様な風景を踏まえるようにして、「法の支配」、もっと言うと、『法の純粋支配』というものをね、そういう【気分】に巻き込まれているわけです。

【力に裏付けられた「法」】ならば、法の支配と言ってもいいけども、力の問題を度外視して、法の支配といって、力による現状の変更は許さないと、そうなってくると、僕ならずともプーチン君に味方したくなりますよ。平然と言ってのけているの、一時期。

『アメリカなんぞに文句は言われたくない』と。簡単に言えば、『アメリカはイラクで何をしたんだ!?』と。

僕はね、アメリカを批判しているんじゃないのよ、冷静に考えて下さい。アメリカ人は先ほど言ったように、(滅ぼされたフセイン政権下のイラクは)大量破壊兵器を持っていないのに、「持っている」というCIAのガセ情報に動かされて、軍隊のことはともかく、(イラクの)一般市民をあの段階で十数万殺しているんですよ。あれから延々と続いていま、イラクはスンニ派とシーア派の激突でもって、ほとんど【国家崩壊】じゃないですか。《そんな事をやった国から偉そうなことを言われたくない!》ということを、曲がりなりに言ってみせたプーチンの方が、もっと言うと、世界で真っ当なのはプーチンだけかなと思いたくなる時もありますよ。

もちろん、ヨーロッパの気持ちも分かるんですよ。ヨーロッパは西欧、みんな分かっているんですよ。簡単に言うと、『またアメリカが・・・』、でも、アメリカと喧嘩するのは面倒くさいし、まぁ、『アメリカに調子を合わせるということにしておくけども、俺たちは、アメリカの言うことなんか、真正直に受け入れませんよ』と。受け入れたフリをして、ごまかすというのがミエミエですよ。

日本だけですよ、クソ真面目に、大真面目に、『お代官様、アメリカ様、我々は集団自衛権の行使容認で後方支援で、ガソリンでも包帯でも何とかでも運びますんで、どうぞ、尖閣の時にはよろしく頼みます。』・・・【アメリカは尖閣について、やる気がありません!】やる気がないってことを既にして、「領土権は日本にあるかどうか知らんよ」と。でしょう?

自主防衛ができるのは、いまは世界でアメリカだけなんだから、巨大な核兵器を持っているから。【日本は自主防衛できない】のだから、それ故に、アメリカ頼みしかない。それならば、アメリカに協力せざるべからず云々という論法でもって、もちろん、僕は、アメリカと喧嘩せいとか、もう一回戦争やれとか、(・・・小さい声で囁くように、「本当のところは、そうしたいんですけど。。。」)

フフフフフ(笑)

・・・そうもいかねぇ事情があるんで(笑)

まぁ、いいんだけど、そんなことを言っているんじゃないんですけどね。

「戦後日本人」は、アメリカに戦争で大敗北して、全てと申しませんよ、大方、腰を抜かして、臆病風を吹かして、それのみならず、法律の大元たる憲法を「アメリカ様」という天から、もっと言うと神様から、仏様から頂戴いたしました。憲法だけじゃないんですよ?民法だろうが、教育法だろうが、基本的には、【アメリカニズム】、【アメリカ主義】といっていいような『アメリカ流の考え方』のかなり徹底した法律体系というものを「天(=アメリカ)」から頂戴して、『この(※アメリカ流の)法の支配に自分たちは屈します』と。表現は露骨だけども、【敗戦属国・従属・従僕・奴隷民族に相応しいような思考習慣】を延々と69年やれば、立派にこういう【列島人種(×劣等?)】が、日本「列島」の列島ですけどもね。

(・・・苦笑。)

「列島」人種(※でも本音はこっち「劣等」)ができるんだというね。そんなことを十分に思わせるような顛末なのね。

世間にいかにも、「集団自衛権がいよいよもって議論されるのか」と。「日本も一丁前になるつもりなのか」と。もちろん、その可能性が無いと言っているんじゃないんですよ。そういうつもりもあるんです、今の安倍政権にはね。

しかしながら、脱戦後、脱戦後というが、【アメリカの属国も同然の生き方】を70年近くやってきたのが『戦後』なのだから、【脱戦後】というのならば、アメリカと喧嘩しないまでも、それどころか外交その他をうまくやりながらもね、こういう戦後の、アメリカ的と言って悪ければ、一種の『法の純粋支配に代表・典型化されるようなモダニズム』ですね、何か物事を形式的・合理的・推量的計算で、何もかも片が付くような、非常にせせこましい、薄っぺらなモダニズム、こういうものが日本人に【毒素】としてバラまかれ、みんなそれを空気のように吸って70年も経つとですね、こうなってしまうという。

自主防衛の【自主】とは何か?と言ったら、ありていに言うとこういうことじゃないですか。とにかく、どっかの国から攻められたとしたら、いいですか?中江兆民じゃないが、【滅びを覚悟する決意・意気込みでもって、徹底的に一定期間戦い抜く】、それで自分たちにね、世界を説得できる『正義』が自分たちにまぁまぁあれば、それで、【日本人が自分の国は自分で守ってみせるという徹底した努力の証拠】を見せれば、世界に冠たる一流国として頑張っていれば、『この正義』の・・・正義ったって「イデオロギー」ってことじゃないのね。何処をどう探しても、自分たちに分のある戦い、そこを徹底的に戦い抜いていけば、おそらく、どこかからですよ、それこそ平和憲法の前文じゃないが、「公正と信義に満ちた」・・・満ちてなくてもいいや。公正と信義に基づいて、あれこれの同盟なり連携の助力が来るだろうと。

やっぱり人間ってのは【言葉の動物】なんですから、なんであろうが、かんであろうがね、難しい問題じゃないでしょう?本当にね、小学校ぐらい出ていれば、堂々と議論できる問題ですよ。

堂々と自分たちのオツムで考えれば、小学校ぐらい出てればね、いまの論議がどれほどデタラメかということがね、わかりますので、これは『集団自衛権の問題』に限らない。憲法だろうが何だろうがかんだろうが、ほとんど、少々真面目に考えれば、たちどころにまともな答えに近づいて、その為に本を読む必要もないし、『表現者』を読む必要すらない!ってことで、話終わっていいでしょうか?(表現者編集長の富岡の方を向いてニヤリw)

ありがとうございました(笑)

【次週】続・MX 表現者
『戦争抑止を集団自衛に頼る属国根性』