▪️政論家森田実、「我が人生」を語る(六十年安保の英雄たち)② :ゲスト 森田実(西部邁ゼミナール)

▪️政論家森田実、「我が人生」を語る(六十年安保の英雄たち)② :ゲスト 森田実西部邁ゼミナール)

ゲスト

政治評論家 森田実 近著:「森田実の一期一緑」(第三文明社

評論家 西部邁 近著:「生と死、その非凡なる平凡」(新潮社)

【ニコ動】

西部邁ゼミナール)森田実、我が人生を語る【2/3】2015.05.17

http://sp.nicovideo.jp/watch/sm26275684?cp_in=wt_tg

小林麻子

先週に引き続き、政論家 森田実が我が人生を語るということで、森田先生の遍歴を追ってみます。

先週は『砂川事件』についても語っていただきましたが、(森田)先生の周りの『60年安保』の英雄たちは、その後、どんなふうになっていったんでしょうか?

森田実

あの〜、やっぱりいちばん著名なのは、共産主義者同盟というブントという組織の書記長になって、いろいろやった【島成郎】、それからもう一人は、【唐牛健太郎】。

[*島成郎(全学連書記長)・唐牛健太郎(全学連委員長)]

森田実

唐牛健太郎と島成郎というのは、非常に密接な、師弟関係ぐらいあれでね、島が昭和6年の早生まれ、唐牛が昭和11年かな・・・ぐらい・・・の生まれですよね?

西部邁

12年かもしれないね。

森田実

12年か。そのくらいの違いでね、非常にこの二人がウマが合って。

小林麻子

へぇ〜。

森田実

で、実はね、我々が全学連やってる時には、我々は勢いがよくて、共産党と喧嘩しても何してもやってたんですが、その足元を見るのをうっかりしててね、気がついたら『革命的共産主義者同盟』というね(通称)「革共同」という組織が出来てて、全学連の中央執行委員会で次の委員長を選ぶ選挙をやったら、負けちゃったんですよね。香山健一が負けちゃったんですよ、あれだけの人物が。

[*香山健一(1933~1997) 委員長選に敗れる]

小林麻子

はぁ。

森田実

それで、革共同に天下取られちゃって、革共同塩川くん(塩川三十二)という東大の農学部の学生だったのが委員長になったんですよ。

それで、島が北海道に行って、あの唐牛を引っ張り出してきて、半年後に唐牛を委員長にして決戦をやって、それで塩川を追い落としてそれで唐牛委員長を作り上げて、それで唐牛・島でもってやってく体制が出来るんですよ。

[*唐牛健太郎 1959年に全学連委員長に就任]

小林麻子

はい。

森田実

だから、私なんかも負けたままで去るのは気分が悪いから(笑)、ひっくり返してやろうと思って、ひっくり返したんですよ。

だから、革共同はそれ(全学連)から離れて、安保の後の、60年安保の後で、革共同というのが、むしろ学生(運動)の主導権をとって、これが分裂して、確かね、『革マル派』(日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派)と『中核派』 に分裂してね、それで、(革マル派中核派との)かなり激しい争い(内ゲバ)を。その頃はもう、西部さんも(全学連から)離れちゃってるし、僕も離れちゃっているんだけども。

小林麻子

はぁ。

森田実

で、島はね、僕より2年上なんですよ。昭和6年の早生まれで。で、旧制府立高校から東大教養学部に入って、ですぐに自治会の副委員長になってね、それで、1950年の『レッドパージ反対の運動』(※レッドパージGHQによる赤狩り)の時にストライキやって、それで処分されてね、それで2年後に(東大に)復学して、僕と同じ学年になるんですよ。

[*島成郎(1931~2000) のちに精神科医]

小林麻子

はーはーはー。

森田実

それで、共産党の細胞というのは出たては3人しかいなくてね、島と僕と佐伯くん(佐伯秀光)という数学の良く出来た人間が、まぁこの人はまだ生きているんじゃないかなぁ・・・この3人しかいなくて、だから仲が良かったんですよ。

特に、僕と島はなんか気が合ってね、常に一緒にやってたんですよ。時々ケンカやりながらね、やってたんですよ(笑)

で、まぁ・・・

西部邁

それでね、ちょっと口挟むと、僕は58年に入ってくるんですけど、その頃だよ。もともとね、まぁ、いっぱいみんな運動なさってただけども、それには『大きな弱点』があって、「仮にね、アメリカを追い出したとしても、じゃあ〜日本はどうするんだ?!」ってね。

小林麻子

はい。

西部邁

その頃で言えば、ソ連もいる、中国もいる。日本の軍隊をどうするんだ?!ってところまでは、(左翼運動やってた時分の)我々は考えていなかったわけ、一切ね(笑)

言うとしたら、非常に『空疎な平和主義』っての、『非武装中立』ってのその頃。今でいえば社民党系か、そういうことを言ってますけども、その程度のこと言う人が多くて、そういう意味じゃ空理空論が多かった。そういうことに我々も気付きはじめていたということはあるのね。

森田実

(うん)

西部邁

それで、あの森田さんのそれまでも長い経験を踏まえて、人間関係のなんというか、錯雑たる裏切りだとか啀み合いだとかにほとほと嫌気が刺してきたんじゃない。

僕は僕でずいぶん年が違うんだ。僕は昭和14年生まれですけどね、それはともかくね、もう最後は最先頭に行って、ほとんど一人でやってたの。それでね、やればやるほどわかるの、これはどうにもならんと。単に、安保条約がどうのこうのとか、日本国家が、軍事が・・・ということの前に、左翼(運動)に集まる人間たちの全てとは言わないが、大概は、僕は東大しか知りませんでしたけど、人間として大したことない有象無象たちの集まりであると。こんな者たちと、お手手繋いでいるわけにはいかないな、ってなことを経験上わかっちゃうという形で、何はともあれ姿を消さざるを得なかった、あるいは、自ら消したっていう人は何人かおるんですよね。

で、先週言いましたが、森田さんとか僕とか、他にも何人かいるですけどね、そのうちのあれで、唐牛健太郎というのは全学連委員長に担ぎ出された、函館のところで。

僕は同郷のよしみで、僕の兄貴と北大で同級生ということもあって、ひとつ仲良かったの。終わってからも、彼はバッと一人になって、実は彼はわざとやったんでしょうね。【田中清玄】(たなかきよはる/せいげん)なる、戦前の武装共産党の。その後、共産主義は間違いだと言ってね、まぁ言ってみれば、経団連、日経連等々のフィクサー的な仕事をしていた『反共の闘士』となった田中清玄のところに唐牛健太郎たちは、ほんの一時ですが、いわゆる『草鞋を脱ぐ』という、まぁヤクザ用語ですけどね(笑)

[*田中清玄(1906~1993) 戦前の共産党中央委員長、戦後は実業家、政界フィクサーへ]

西部邁

そんな調子のことで、みんな要するに、散り散りバラバラに乱れていくと。それで、森田さんは一人になって、いずれ分かったことは、何年か経ったら、日本評論社 経済セミナーの名うての編集長として、突如顔を出すと。

僕は長い長い放浪生活というか、沈潜生活(笑)、裁判所生活の果てに、以前として風来坊をやりながら森田さんと30(歳)前後に会うというね。

小林麻子

はぁ〜。

西部邁

みんなそれぞれ散り散りバラバラの人生に入ったんですね。ただ、確かに唐牛健太郎や島成郎ってのは、いつまでも可哀想は可哀想だったんですよ。やっぱり島で言えば、全学連書記長としての言わば、なんというか・・・さほどの重い十字架とは思わないが、十字架を背負わされちゃってるわけね。唐牛健太郎も全学連、60年安保全学連委員長という十字架が、いつまでもそれが剥がれないのね。

こちらは、僕にすれば気楽な身分なもので、もう、いつでも草鞋を脱いだり、履いだりして、そのあたりで股旅を出来るというね、自由自在の身だったという(笑)まぁ、そういう違いはありましたけどね。

なかなか60年代、しかも時代が、60年代日本は経済が高度成長でしょう?

小林麻子

はい。

西部邁

いまみんなねぇ、坂の上の雲とか、みんなそんなこと言ってるけど、本当は、やっぱり『高度成長の裏側もあった』んですよね。

森田実

そうですね。

西部邁

そんな風に、ひとりひとりね、食うや食わずで生き延びていた三々五々。そういう人たちが、背後に持っての、坂の上の雲目掛けてみんなのぼっていきましたって話で。

森田実

まぁ〜、あの砂川(騒動)が1956年ですね。それで、いま裁判になっているのが57年。それから、『警察官職務執行法』(※警職法)というのが、これは潰すことが出来たのだけども、これが58年。

西部邁

そうでしたね。

森田実

で、59年、60年が『安保闘争』なんですよ。5年間というのが大きな雇用があって、労働組合も闘いましたが、学生も全国で30万のデモが組織出来るわけですがら、我々は何万の規模のデモを指揮しとったわけです。

[*56・57年:砂川闘争/ 58年:警察官職務執行法/ 59・69年 安保闘争

森田実

そんなことは、学園紛争以外にはありませんよね。で、その時に、我々は何を考えていたか、というとね・・・

小林麻子

はい、はい。

森田実

やっぱりね・・・『あの戦争』があった。それで、戦争が終わって、占領下に置かれた。そして、いろんなことがあった。10年間が経った・・・なんか、いろんな日本が次に進むにあたって、『溜まり溜まっているいろんなもの』がある、恨み辛みも含めて。それを、いっぺん燃焼させてね・・・我々は勝ちたかったのだけども、勝っても負けてもここで全部燃焼させて、次の時代に向かう、【日本社会の気分転換】というかな。

小林麻子

う〜ん。

森田実

そういう社会思想の大きな流れを変えなきゃいけない。

小林麻子

はい。

森田実

そのためには、一度、燃焼して、激突してやらなきゃ先にいけないんじゃないかと、いうのがあってね、あの、あれだけの大きな激突になるわけですが、私はね、時代というのはそういうもんで、ある時、超えなきゃならんもんがあるんじゃないかと思ってましてね・・・

小林麻子

はぁ〜。

森田実

そんなことで、60年安保の終わるまでは、表の島(島成郎)、僕は裏で参謀役をやってね、そのずっとやってたんですよ。でね、唐牛(健太郎)も表でね・・・唐牛も仲が良かったんです。何故かといったら、彼はね、北海道から東京にアルバイトに来ている時に、砂川闘争があって、でそれで、彼は僕と知り合ったわけですよ。

小林麻子

へぇ〜。

森田実

それで、僕をモデルにするためにどうするか考えた結果、北海道に行って、自治会の委員長になって、北海道学連の委員長になって、全学連に出てきて全学連の委員長になればやれるんだと、いうように思って学生運動やったって、彼は僕には何回か話したけども。そんな時代でしたね。

小林麻子

へぇ〜。

(西部)先生は、たった一人で闘った・・・?

西部邁

僕の場合は、皆さんのような英雄豪傑のようなあれじゃなくてね、逆でしたね・・・。

僕ね、18(歳)まで重症の吃り(どもり)患者で喋れなかったんですよ。

それから、高校2年の時に、妹を交通事故に遭わせてね、今でいえば鬱病患者も同然になって、それで、家族内の罪人ってかんじになりますからね、出来るだけ札幌を離れて・・・津軽海峡を渡る時は、全くあれですよ・・・なんでもやれと。今でいえばあれですよ、世界中から集まってくる、あの「イスラム国」に盲目的に集まってくるような(笑)

小林麻子

あぁ〜。

西部邁

・・・そんなかんじの心境で、もうなんでもよかったんですね。ただひたすら、当時としていえば、激しく生きて、あとはどうなれ何も考えないというね。

僕の場合は、始動性も目論見性も予測性も何も無い。それで案の定、三つの裁判にかかって、あれが世が世でしたら、断頭台の露と消えるんでしょうけど、牧歌的な時代でね、それどころか森田さんね、実感されたかなぁ・・・あとで分かったんですけど、大学教授もね、裁判官も、弁護士は言うに及ばず、検事までもが、どことなしに我々にシンパセティック(sympathetic:同情的)というのかな、あれはやっぱり【戦争の問題】があったんでしょうね・・・戦争が終わって、アメリカに支配されると。つい先だってまで、ドンパチやってたんですから、日本軍がね。そうするとね、次の青年たちに期待をかけようではないかという『暗黙の気分』がいま言った当時の日本の教授だ検事だという指導層になにがしかあったんでしょうね。

そんなせいと、もう一つは高度成長でみんな幸せでさ、そういう牧歌的な時代のせいで、僕は三つの裁判で執行猶予が付くというような、恐らく裁判史上稀に見る・・・それでいわゆる娑婆(シャバ)に戻ってきた。

小林麻子

はぁ〜。よかったですねぇ・・・。

西部邁

あのまま牢獄に閉じ込めておけば、こんなことをTVで言わずに済んだのに(笑)

小林麻子

(笑)

森田実

いや、あのしばらくね、獄中にいて裁判にかかって、東大教授になった人ってのは恐らくあたしが知る限りでは、西部さんぐらいだと思うんですよ。

西部邁

あっはっはっは。そういう時代なんだよね(笑)

小林麻子

あぁ〜。

森田実

それだけね、好かれた。人間に魅力が(西部には)あった。

小林麻子

なるほど。

森田実

それで、僕の感じではね、僕らは三国志のまぁ、諸葛孔明とか・・・

西部

ははは(笑)

森田実

劉備玄徳とかね、これでやろうと言ってね。それから、せいぜい儒教孔子ですよ。

ところが、その西部さんの位置は、『道教』・・・老子ですよ。

[*老子(紀元前6世紀頃) 主著「老子道徳経」]

森田実

だから、大きくね、全部含めて見ている人間。これがね、あの時代からいたんですよ。西部邁という偉大な人物が。

西部邁

そんなんじゃないですよ(笑)

小林麻子

あぁ〜。すごい・・・ですねぇ・・・。

森田実

老子ですよ、うん。

西部邁

単なるね、気分的に言うとあれですよ。アナーキストに近かったですね。コミュニスト共産主義者)とか、そういうね理屈ある人じゃなくて、何かしら・・・近々でいうとあれですよ、あの頃は共産主義だから、色で言えばREDですけどね、ほとんど『ブラックエンペラー』と同じ世界ね(笑)

[*ブラックエンペラー 伝説的な日本の暴走族(既に解散)]

西部邁

ともかくね、何か暴れて自分がそれなりに傷ついてからちょっと正気に戻ろうというね。そんな風なジェネレーションが、森田さん後ね。

だって、僕は敗戦の年に小学校入学でしょう?

小林麻子

はい。

西部邁

僕、今でも覚えてますもの、自分の上空をB29が飛ぶ、グラマンが飛ぶ、ちょっと隣近所にあった小さな日本軍の基地に爆弾が落とされる、その中で小学校一年でしょう?

小林麻子

小学校一年・・・。

西部邁

何かね、一種の不安神経症みたいな、そういう十数年だったんですよね・・・。そこで幼年少年(時代を)送った人間はね、当然、中から僕みたいな奴が一匹ちょっと出てくるわけさ。

小林麻子

いやぁ・・・。

森田先生は、中学生だったと?

森田実

中学生一年生の頃、戦争が終わったんですが、4ヶ月だけ学徒動員の経験がありましてね。

西部邁

あぁ〜そうですか。

森田実

あのアメリカの機銃掃射なんかね、受けたことありますよ。それから兄貴も戦死しましたし。まぁ、みんなやられちゃったんですけどね。戦中・戦後というのはみんな本当にもうどん底の生活でね。

私はやっぱりね、あの、『ポツダム宣言12項』というのがね、ずーっとね、特に私が極端なのかもしれないけども頭にあってね・・・。

[*ポツダム宣言第12条 “占領軍の撤退”]

小林麻子

うん。

森田実

アメリカよ、日本が平和的で民主的な政権作ったら撤退していく、というだから、軍事基地を置いてたんなら、日本はいつまでも『アメリカの植民地』ですから、ポツダム宣言を守ってくれと。守って出てって、日本を日本人の手に委ねてくれと、いうのが私の立場でして。そればっかり考えてやっていた面もあってね。

小林麻子

(うん)

森田実

アメリカに対して、まぁ、日本がアメリカに対して戦争をやったのは間違いなんですよ。この事が決定的に間違いなんです。だから、アメリカとは戦争やっちゃいけないし、仲良くしなけりゃいけないけれども、しかし、ポツダム宣言の時の約束は守ってくれと、いうのが私の一貫した立場ですね、うん。

西部邁

象徴的な言い方ですけど、僕の近所にアメリカ軍がやってきた時に、僕の親父が長い錐(キリ)を研いでて、実は語ったことあるんだけど、お袋が、お父さん何しているの?と。錐を研いでどうするの?と。この錐で、もしも自分の家に米軍兵がやってきたら、せめて、肋骨と肋骨の間を一刺しして、一兵足りとも倒したいと。それを聞いたお袋が、うろ覚えなんですけどね、お父さん、そんなこと言ったって、その頃は5人子供がいましたからね、こんな小さな子供を5人残してお父さんが死んでどうなるの?オロオロってね。

小林麻子

はぁ〜。

西部邁

多分、僕が言いたいのは、あの頃、そういう風な風景というのは、日本のあちらこちらにあって、『人それぞれ教養は無かろうが、情報が無かろうが、理論が無かろうが、何か素朴に真剣に生きていた親たちがいて、そういう者たちの子供たちなんですよ、僕たちは。』中学生とか小学生とかいろんな差がありますけどね。

従って、今から考えればね、いろんな考え方、振る舞い方に落ち度は多々あろうものの、何か笑いたくなるくらい素朴に真剣に生きようとしていた人間たちが、戦後10年、15年いたんですね。

森田実

うん。

西部邁

そういうことの中の一つの出来事。

小林麻子

はい。

西部邁

でも、それが高度成長と共に、段落を遂げて、あとの日本はもう経済的適応ですよ、今に繋がるね。

小林麻子

はい。

西部邁

金が、モノが、商品が増えればそれでいいんだ、ってところにダーーーーっと動いていって、森田さんも、西部邁は言うに及ばず、このプロセスには役に立たんということになってるわけね(笑)

小林麻子

いやいや(笑)

怒られちゃいますけど、今の若い人がデモだ、何だろうと言ってるこの気持ちと覚悟がまるで・・・違い・・・ますねぇ・・・。

西部邁

ただね、森田さんね、僕がちょっと気になってたのは、その60年・・・昭和35年のあれ(安保)は終わるでしょう。それで、戦後の左翼運動というのは、そこで本当にあれなんだ・・・

森田実

うん。

西部邁

一旦、火が消えて、あとは『お金の世界』になってくるんですよ。

その時にね、そこで生きながらえた主として東大生が多かったけど、固有名詞はあげませんけどね、かなり多くの指導的メンバーがね、次にアメリカに渡るんですよ。

森田実

うん。

西部邁

それは構わないのよ。で、アメリカに渡るについてはね、もちろん、アメリカはいろいろな、アメリカ大使館にちゃんと情報を知らせる人もいて、これは(この人物は)もう左翼をやめてるから、アメリカにとっては有害じゃないから・・・というような影のお墨付きをもらったりして、渡った人は何人もいて、僕はね、そんなことをあげつらおうって言ってるんじゃないんだけど、僕はどっか『釈然としない所』があった。

小林麻子

う〜ん。

西部邁

つまり、気分的に言うとね、アメリカがどうのこうのということじゃないんだけど、アメリカ的なるものとね、あるいは、アメリカ的なるものに靡いていく日本人とこちとらは喧嘩したつもりでいたわけさ、幼心で。

それなのに、こと(左翼運動)が終わった直後あたりからね、アメリカ的なるものに靡いていくね、進んでそこに入っていこうとする一群の人々が特に東大生に多いのを見ててね、『やっぱり俺はこういうやり方したくねぇなぁ』っていうね、あれは非常に強かったですね。

小林麻子

あぁ〜。

森田実

うん。

西部邁

でね、何か自由になったらアメリカに渡ろうという根性にどっかね、恐らくあれだね・・・【戦後左翼の底の浅さ】みたいなものが出たんじゃないかなぁ、という気は当時から持ってましたけどね、僕は。

森田実

うん。あの〜、あれですねぇ・・・学生運動ってのはね、なんてったって「経済学部が中心」なんですよ。これいちばん強いんです。

小林麻子

はい。

森田実

戦後、マルクス主義も、経済理論ですから、学生運動やる人が多くて、経済学部がほとんど全学連の委員長なんかとってたんですよね。

で、彼らがその運動の中心だったんですが、安保(闘争)が終わると同時に、『学校に戻る大きな流れ』が出来るんですよね。

西部邁

はー。

森田実

ところが、左翼の運動やっただけでは戻れないもんだから、アメリカ留学になるわけですよ。そういう形でね、その【「アメリカ経済学に過剰に同化していった感じがありました」】ね。

小林麻子

はぁ〜。

 森田実

例えばね、サミュエルソン(ポール・サミュエルソン)が出てきたりね、その後はフリードマンミルトン・フリードマン)が出てきたり、そういう流れの中に(アメリカに渡ったかつて左翼運動に身を投じた経済学部生たちが)同化していくわけですよ。

西部邁

うん。

森田実

同化しなかったというのは、西部さんぐらいのもんじゃないですか。

西部邁

僕はね、ずっとウロウロウロウロしてるから同化するチャンスがそこにあることすら知らなかったというね(笑)

森田実

私なんかはね、理科系(工学部)だったから、拾ってもらえるところは無いから、結局、いっそのこと浪人しちゃってね、沈没しちゃって、そうするとまずねぇ・・・マルクス(主義)でしたから、マルクスの以前から始めようというんでね、ギリシャ哲学からはじめて、それでマルクスまでのあれをずーっと追っかけるわけですよ。

小林麻子

はぁー。

森田実

それからね、中国の思想を追っかけるわけですよ。それから、インドの思想を追っかけるわけですよ。

小林麻子

はぁー、はい。

森田実

これでね、5、6年間ね終わっちゃうんですよね。

西部邁

(笑)

小林麻子

はぁ〜、大変なことですね。

森田実

そのうちに、アメリカから経済学(※近代経済学、新古典派経済学)が入ってきて、計量経済学だとかなんかが来るから、「キミは数学出来るらしいから」と。これね、全く相手の誤解なんですよ。

小林麻子

うん。

森田実

全く(数学は)ダメなんだけども、「数学が出来るから(日本評論社の)編集者になってくれ」と・・・

西部邁

あ〜、そうでしたか。

森田実

うん、それでなるんです。そこで見ていてね、みんな【経済学者がね、「数学の罠」にハマった】ね。

西部邁

うん。

森田実

これは残念ですね。

西部邁

うん。

森田実

数学を使えばいい経済学が出来ると。

小林麻子

はぁー。

森田実

【全く逆だった】んですよ。だからね、数学を使わない哲学的・思想的経済ビジョンを作るべきだったのね。

この道を進んだのは、私が知る限りでは、この間無くなった【宇沢弘文】さんと、西部邁さんだけですね。

[*宇沢弘文(1928~2014) 経済学者:東京大学名誉教授]

小林麻子

はい。

森田実

ただ、宇沢さんは常にね、僕は何度も会って付き合ったのだけど、『経済学者はいかに生きるべきか』というのをね、意識していたけども、西部さんは、『人間として、思想家として、どう生きるべきか』と。広かったんですよ。

小林麻子

うん。

森田実

だから、あたしがね、95年の東大経済学部が生み出した最高の秀才は西部邁

西部邁

またまた、そんな(笑)

小林麻子

はあ〜、すごいです。貴重な先生です。

西部邁

違う!(笑)

小林麻子

違いますか?(笑)

西部邁

左翼(運動)にかかった者たち・・・

小林麻子

う〜ん。

西部邁

・・・といえば大袈裟ですけど、考えてみればまぁ、普通の子供たち、普通の青年たちだったんですよね。

小林麻子

はぁ〜。

西部邁

そういう人間たちがね、その後いろいろ散りにね、散り乱れていく。

でも、あれですね、やっぱりね、僕・・・今度、森田さんに来てもらったのはね、森田さんの人生はもっと、僕より高いところにあったのですけどね、立場上、やはりこれはこの後の次の週に入って言いますけども、やっぱり政治評論なさってからね、かなり、ある『一貫したもの』『重いもの』をね、ずっと貫こうとしていてね、やっぱり自己の、自己の体験とか、自己の理論・イメージ、それを全体として表現しようというふうにね、そういうのを見ていると、顔を見てるとわかりますね。それは、喋り方の中にね、そう簡単に流行に流されてものを言ってるんじゃないってことは、見えてくるんですよね。

それでね、僕は、森田さんの政治評論をTVで聴いてるの好きだったんですよ。

ということで、いよいよ森田さんが政治評論家としてTVに現れてから、何が起こったかは、次の週にまわしましょうか。

小林麻子

はい、楽しみです。

西部邁

ということで、今週もありがとうございました。

【次回】ゲスト 森田実

我が人生を語る(政治評論家時代)