▪️英語化は愚民化 ~言語はツールなのか~ ② ゲスト:施光恒 (西部邁ゼミナール)
▪️英語化は愚民化 ~言語はツールなのか~ ② ゲスト:施光恒 (西部邁ゼミナール)
ゲスト:九州大学大学院 比較社会文化研究院 准教授 施光恒 、近著『英語化は愚民化 ~日本の国力が地に落ちる~』(集英社新書)
評論家 西部邁 近著:「生と死、その非凡なる平凡」(新潮社)
【ニコ動】
(西部邁ゼミナール)英語化は愚民化②2015.07.26
http://sp.nicovideo.jp/watch/sm26790074?cp_in=wt_tg
小林麻子
前回に引き続きまして、ゲストは九州大学の施光恒先生にお越し頂きました。
こちらの『英語化は愚民化 ~日本の国力が地に落ちる~』(集英社新書)という先生の最近著にちなんだ論点でお話し頂きます。
グローバル化に伴う言語の英語化が推し進められ、最近では、GlobalとEnglishをくっつけた『Globish(グロービッシュ)』という造語も飛び出す始末だそうですが、その背後にあるものとはいったい何なのでしょうか。どうぞ先生方、宜しくお願い致します。
施光恒
宜しくお願いします。
先ずですね・・・
小林麻子
はい。
施光恒
はい(笑)
これは施さんじゃなくて、出版社なの。(本のサブタイトルの)「おちる」でしょう?どういう字が書いてある?
小林・施
・・・・・?
「落(らく)」って書いてある。
小林・施
は、はい(汗)
これはね、日本語の習慣としてね、堕落の「堕(だ)」を使うものなんですよ。
小林麻子
あー。
「地に堕(お)ちる 」と言った時にさ。ねっ?
小林麻子
はい。
こっち(落)の「落ちる」を使うとね、これは枯葉が地面に落ちました、という漢字の時に使う言葉でね。
道徳的な意味で「地におちる」という時には堕落の「堕」を使うもんなんですよ。
小林麻子
う〜ん。
それはね、日本の伝統なんです。これ(落ちる)で意味は通じるのよ。通じないわけではない。
小林麻子
はーなるほど。
貴方(施)そのことご存知だったんでしょう?
施光恒
いや、そうですね。そうですけどまぁ・・・あのぉ・・・(汗)
こんなところで妥協しちゃいけないっ、って俺はまず日本語に文句を言っている(笑)
施光恒
そ、そうですね、そうですね、はい(苦笑)
小林麻子
(笑)
僕はね、英語教育は必要だな、と思うのは・・・あっ、そうか。貴方からまず『翻訳の大切さ』について語ってもらってからにしようかな。
施光恒
え〜、こういう英語、英語という風潮って、なんか最近始まったわけでもなくてですね、なんか日本の社会にはずーっとあるんですね。
あの明治の140年前、本当に明治の初期の頃にも、例えば、有力な政治家だった【森有礼】なんかはですね、『日本語廃止論、英語採用論』という形で、日本の公教育の言語とか、または政治経済の運営するのは全て英語でやろうという話も一時期していたんですね。
[*森有礼(森有禮、1847~1889):薩摩藩士、初代文部大臣、明六社会長、東京学士院初代学士院会員、明治六大教育家の一人、子爵、森有礼の欧化主義色の強い教育制度改革(例えば「英語の国語化」)に一部からは批判の目が向けられる。さらに伊勢神宮での不敬騒動が新聞報道によって問題視され、国粋主義者の西野文太郎に大日本憲法発布式典の日に(1989/2/11)に斬りつけられ、翌日死去する。]
小林麻子
はー。
施光恒
その後も【志賀直哉】とか、戦後は【桑原武夫】とかですね、まぁ、日本語じゃなくて「フランス語にしょう」とかですね(笑)、そういう話は結構あったんですね。
小林麻子
その時は、大反対の暴動が起きたとか?
施光恒
えぇ。いろいろ議論をした中で・・・
だいたい無視されたんだね。簡単に言えばね。
小林麻子
あっ。そうですか、あーあー。
施光恒
えぇ。特に、森有礼の時なんかは、いろんな議論も出てきまして、だいたいそういう時は、森有礼はお雇い外国人に・・・
「日本語じゃなくて、英語で近代化しようと思うんだけど、どう思う?」と尋いたら、お雇い外国人の方とかの方が、けっこう『反対』したりですね、または、【馬場辰猪】という土佐出身の社会思想家、自由民権運動の人なんですけど・・・
[*馬場辰猪(1850~1888)自由民権家、思想家、政論家、「國友会」を組織、「自由新聞」の主筆などを務める。土佐藩士、森有礼の国語英語化論を批判、その後フランスに留学し、馬場辰猪の思想の中核となる言論思想の自由、公議輿論の重要さを学ぶ。その後に自由新聞を創刊して主筆となる。晩年、アメリカに亡命生活を送り、肺結核のためにフィラデルフィアのペンシルヴァニア大学病院で38歳で死去。]
アメリカに渡って死んだ人ですよね。
施光恒
えぇ、そうですね。この人なんかは例えば、『英語で近代化してしまったら、格差社会になってしまうじゃないか』とかですね、または、『若者が英語を勉強するだけで年をとってしまう』と。
そういうような、『若者の時間の浪費である』とかですね、または、『天下国家を論じられる者がごく一握りのヒマと金と能力のある特権階級だけになってしまうじゃないか』と、【「こんなことでは、日本が欧米列強に伍していくような近代的な国づくりは出来ないだろう」】と、そういって(馬場辰猪は、森有礼の国語英語化論を)批判したんですね。
そして、明治の人は賢かったので、明治の先人はそれで『やはり日本語で近代化すべきだ』と、そういう議論があったんですね。
そういう目先の近代化が上手くいくかどうかの前に、やはり言葉ってのは、これは【田中美知太郎】って人が言ったんだけど・・・
『言葉は必ず“過去”からやってくる』(田中美知太郎)
[*田中美知太郎(1902~1985)哲学者、ソクラテス・プラトン研究の第一人者として知られる。]
施光恒
はい。
麻子ちゃんも、麻子ちゃんの言葉は自分でつくったんじゃないんですよ。
小林麻子
そうですね。
ほんとそうなの。
小林麻子
はい。
『過去』から来たんですよね。貴女のお母さんはまた過去から。
小林麻子
うん。
本当はみんなしてね、「これは私の発明です」とか「アイデアです」とか言ってるけども、そういうことをのたくって表現している言葉そのものが、自分の発明品ではない。
小林麻子
はい。
自分たちのジェネレーションの発明品ではない。若干、自分流に、自分たちの世代流に新しくはしてますよ。でも、『この母体は必ず過去からやってくる』という、それが【national language(ナショナル・ランゲージ)】ね。【国語】ってものなの。
施光恒
そうですね、はい。
この『過去からやってくる』というところに重大な意味があって、言葉は単にコミュニケーションの伝達手段ではなくて、伝達手段でしたら「腹減ったァー」とかさ、「陽が落ちたァー」とか、それでいいんですよ。
施光恒
はい。
でもね、言葉には、どこかこの長い歴史を閲(※けみ)した、それで先ほどちょっとこだわってみせたんだけども、こういう状況ではこういう言葉を使うのが日本人の習慣であり、規範意識であり、価値感覚であると。何故なら、「地に堕ちる」と言った時に、「これはある種の道徳的堕落」を言っているわけですからね、それならば「堕落」の「堕」を使うべきで、「〜が落ちる」というのはもっと客観的に、人が崖から落ちました、葉っぱが木から落ちました、と言っている時に使う言葉だってことが、実は、歴史的におおよそ定まっているんですよね。
そういうことは各国各様でありますからね。国語を忘れてしまったら、言葉というものの内在している歴史の生み出した価値観、規範、そういうものが溶けて流れちゃうというそういう懸念があるから、国語は忘れるべきじゃないと、彼(施)は仰ってるでしょう。
施光恒
はい。
それはね、大賛成なんですね。と、同時にね、もちろんあれですよ、それは外国語習ってもいいわけさ。でも、外国語を習う時の・・・喋り過ぎかなぁ・・・。
物凄く日本人が悪かった一つの戦後の例を言うと、「平和」というでしょう。
小林麻子
はい。
平和がね、「peace(ピース)の訳語」であるということはみんな知ってるわけさ。ところが、それは上辺だけで、モデル化して習いますから、peaceは平和ね、平和がpeaceね、ってことでお終いにしちゃうわけ。『翻訳文化が大衆化』する時、弊害はそれなんですね。
ところが、peaceという言葉をちょっと調べてみると、もともとラテン語の「pax(パクス)」から来ていて、paxとは何かと言ったら、「pact (パクト:協定、約定、平和条約)」という言葉があるが如く、戦争状態があって、強い方が弱い方に勝って、勝ったな、負けましたと、負けた方のお前の領土は貰うぞと、賠償金はいくらいくらで事は終わったことにするぞ、という『講和条約』のことなんですね。
施光恒
はい。
それゆえ、パクス(pax)というのは、実は、『強い者が弱い者を平定する』『抑えつける』という意味なのね。
[*peace(平和)の語源=pax(ラテン語) “平定”を意味する]
それが、日本語で伝わってこないわけよ。peaceね。(ピースサインをする)あれ、馬鹿なミュージシャンが、最近は知らない、壇上でこうVサインでね、ピースなんてやってるでしょう?この「Vサイン」というのは、これ「victory(ヴィクトリー)」ですから。「勝利」ですよね。今のpact(パクト)と一緒で「勝ったぞー!!」ってね。
施光恒
あぁ。
勝ったからには負けた奴もいるわけですよ。(peaceは)一種の『戦争用語』なんですよね。
そういうことが全部、溶けて流れてしまって、(にっこり笑ってピースサインを出して)「平和、ヴィクトリー」・・・なんなんだこの「V(ヴイ)」ってのはさ。最近しなくなった、そういうの?
小林麻子
いや、まだ・・・(笑)
施光恒
まだやってます(笑)
その程度の、つまり外国語を学ぶのは結構だけども、俗流の学び方をすると、言葉の英語の方の歴史的本質を忘れて上辺だけを学んでくるわけさ。
小林麻子
はい。
施光恒
そうですね。
そしたら日本語も上辺化する。外国語も上辺化する。それこそね、病葉(わくらば)。
施光恒
そうですね。
病葉(わくらば)って日本語だけど、病気の葉っぱと書いて、虫喰いだらけの葉っぱを「わくらば(病葉)」というんですけどね、要するに、『病葉みたいな言葉が、川を流れていきます』ということになってるんですよ。
[*仲宗根美樹「川は流れる」(昭和36年)という曲の冒頭の歌詞に「病葉」が出てくる。これに西部がなぞらえたのではないかと思われる。]
施光恒
そうですね、はい。
そういうことを、(施)先生は憂いでいるわけさ。
小林麻子
はー。
施光恒
やはり、翻訳する時も、概念と概念の突き合わせといいますか、半ば、翻訳元の文化と翻訳先の文化ってのが、ある種のせめぎ合いといいますか、半ば、対決のようなものがあると思うんです。
うん。
施光恒
そこで、上手く翻訳元の文化のエッセンスというか、そこの言葉の情念まで上手く翻訳先の文化にまで移してきてですね、そういう作業の中で翻訳される方の文化も、翻訳先の文化も段々と活性化しだすと思うんですね。
あー。例えば、経済学用語を出すと、資本主義の「資本」というでしょう。むかし調べたことあるんだけど、漢字で、これ中国lから来てるんだけど、「資本」と書いて、なんでこうかなと思った時に、この「資」の(構えの部位にあたる)「次」ね。これがどっから来たかというと、積むという字の「積」ね、これは「し」と発音することが多いんですって。で「資」だけど、これは「し」の発音から来た当て字で、元々は「積」なのね。(「資」の元の字は「積」)
(「資」の下の部分の)「貝」は、貝殻ですから「宝物」ですよね。つまり「金」ですよね。「宝物を積む」ってのが「積(=資:し)」で、それをもとでに、それから「資本」なわけさ。
小林麻子
あ〜あ。
これは英語で言うと「cap(キャップ)」でしょう。「capital(キャピタル)」ね。このcapitalの「cap」というのは、皆さんご存知のように「帽子」でしょう。帽子というと、僕もちょっと頭が寒いから被っていますけども、いちばん天辺に被るものですよ。
[*capital(資本) capは帽子を意味する ]
従って、captain(キャプテン)って言葉あるでしょう?棟梁ね。船長。
小林麻子
はい。
captainというのは威張っているわけですよ。つまり、capitalと言った時に、既にあるimplication(インプリケーション) 、インプリケーションというのは「含意」「含まれた意味」ということなんだけど、日本人が言うような、「資本って何ですか?」「fund(ファンド)、資金が蓄積されたものが資本です!」などと、そういう味わいのない言葉ではなくてですね・・・
『金を貯めて、それでもってcap(キャップ)となって、威張り散らかすことが出来る、直接ではなくても、暗々裏に命令を発することが出来るってのが(資本=capital)』
だから、【カール・マルクス】がkapitalismus(カピタリスムス) 、資本主義と言った時にはそういう意味も含んでいるのね。
金を集めた、貯めた者ごときがね、支配階級となって、縦横無尽にこの世を動かす、(それが)本当か嘘か知りませんけども。
小林麻子
はい。
そういうことを批判したいなという気持ちが言葉の中に表れている、そのことを、例えば、経済学者は分からないわけさ。「ボクはマルクスの資本論は読みましたァ〜」と。「資本論ってなぁに?」と言ったら、「資本の運動法則が書いてある本でぇす」ってね、その程度しかわからない。
施光恒
はい。
資本という言葉が含んでいる『膨らみ』も、ぜんぜん消えちゃうというね。そういう変なことが起こるんですよ。外国でも起こっているでしょうけどね。
だから、言葉の複雑な意味合い、歴史的な流れ、それを知るのはやっぱり『国語』をもって知れば、他の国の言葉もそうだろうというので、capもそうだろう、peaceもそうだろうと見当がつくわけね。
逆に言うと、戦後日本人がまともに日本語を使っていないから・・・
施光恒
うん。
小林麻子
はい。
『薄っぺらな言葉しか、日本語しか使ってないから、実はグローバリズムに乗って、薄っぺらな英語がどんどん入っているということなんですよ。』
施光恒
そうですね、はい。
だから、そこまでくるとね・・・
施光恒
えぇ。
英語教育が悪いと仰る。その通りだけども、実は英語教育が特別に悪いんじゃなくて、英語教育なんかに何か意味はあるかと、課題に思った理由は、それは、『日本語教育自身が薄っぺら化しているから、こんな薄っぺらなら、薄っぺらな英語でもいいだろう』ってな、そんなことなんじゃないですかねぇ。
施光恒
そうですねぇ。ですから、最近の英語化推進といいますか、そういう英語化推進派の人々が言うのは、「言語はツールだ」ということをよく言うんですね。「言語は道具である」と。「たかが英語なんだから〜」みたいな感じですね。
うん。
施光恒
ですから、ツールなのだから、子供の頃から英語の早期教育をしたほうがいいとかですね。だからそういう形で、言語はツール(道具)だ、というのが一つの(彼らの)合言葉みたいに出てくるんですね。
僕はやっぱり、かなり薄いと言いますか、やはり、言語というのは単なる道具(ツール)ではなくて、使う人間の『世界観』とか『社会観』も作りますし、『感性』まで形作ってしまうところがあると思うんですね。
(言葉は)単なるツールとは言えないんですよね。
施光恒
そうですね。
人間の脳の全体が、自分のみならず他人も結局は言葉によってつくられているという。そしてそれはどうしても、その一種の『nationality(ナショナリティ)』つまり『国民性』、ということは『歴史性』ですけどね、それを伴ってしまうと。
施光恒
はい。
しかし、考えてみれば、国家といい、歴史といい、大昔からオープンはオープンなんですよ、どの国もね。
施光恒
はい。
日本はたまたま陸伝いじゃないけど、海伝いで中国語が入ってくる、南の方からいろんなものが入ってくる。ですからね、国語自体が本当に純粋にナショナルなものかと言われたら、そんなことはあり得ないんですね。
施光恒
えぇ。
だってアイヌ語だって入っていますからね。
急に話は変わりますけどもね、前にビックリしたことがあるの。四国旅行したら、四万十川ってあるでしょう?
施光恒
はい。
四万十(しまんと)って変わった言葉でしょう?
施・小林
はい。
なんで、この言葉が土佐にあるのかなと思ったら、あれは元々は『縄文語』なんですって。『アイヌ語』。
施光恒
そうなんですねぇ。
大昔のことでしょう、アイヌ語で「清い流れ」(シ・マムタ=はなはだ美しい)という意味らしいですね。それが残っているわけさ、四国にね。沖縄にはもっと残っている。
[*四万十の語源がアイヌ語というのは、あくまえ諸説あるうちの一つ ]
小林麻子
あぁ。
北海道は地名でしか残っていないですけどね。そんなふうにして、何が言いたいかというと、古いものがずっと残っているんですけどね、でもそれだって、今の日本人のものじゃない、以前の縄文人のものとか、(スタジオで目の前にあるコップを指して)ガラスなんて元々日本語じゃない。皆してガラスって言ってるけども、元々は英語で言えば「glass」だから。
小林麻子
漢字まで作ってしまいましたね。ガラスって漢字。(硝子)
漢字も作ったか(笑)
施光恒
言語とか文化も、我々が選べるんだ、っていうような、なんか「知的傲慢さ」が根底にあるのかですなって感じがして。
僕に言わせれば、知的お馬鹿さんぶりね。
施光恒
(苦笑)
これね、【オズヴァルト・シュペングラー】という人が言ったことなんだけど、簡単に言うとね・・・
『メソポタミアの昔から、文化は時間が経つと必ずや文明化する。』
内容を読むと、「文明」というのはね、貨幣も含めてですが、ある種の『技術文明』ね。どういうことかといえば、技術というのはパターン化されている、あるいはモデル化されている、あるいは大量の人のモード、流行となるというね。(パターン化、モデル化、モード、流行と)こういう感じの事を含めて『テクノロジー』ね。
[*オズヴァルト・シュペングラー(1880~1936)独の歴史学者、主著「西洋の没落」]
小林麻子
はー。
文化は最初は非常に実り豊かに価値観だ、規範だとか、人々の感情、気分、理想をみんな含んでいたのだけど、それ時代が進むと、だんだんとパターン化されて、それで必ず『滅びる』と、ここまで来れば。それがあの、彼の『西洋の没落』という本なのね。
施光恒
そうですね。
『西洋の没落』という本を読んで、西洋は没落するから今度は東洋だといった馬鹿がいるんですけど、その本にはちゃんと全部書いてあってね、中国も日本もそれは書いてあるんじゃないかな。
結局のところ、これは1919年の本ですから、西洋が没落するんだけども、これまでのあらゆる文明がこのパターン、このコースを通って没落をしてゆく。腐敗してゆくということを書いた恐るべき本なんですけどね。
日本なんかまさにそれなんですよ。非常に文化豊かな国だったのだけどね、シュペングラーが言う意味での文明化して、ということは『技術化』して、ということは、表現が全てパターン化、モデル化して、それでお互い通じ合っているような気がしているけど、中身はスカスカでもって、こんなものは必ずや・・・(施が)仰ったように、『活力を失い』ね、決まり文句をお互い発し合って、ふんふんと言ってるだけななのね。『生きながらにして錆び付いている。』
施光恒
うん。
ご存知?さっき僕も来たけども、歩いている人とか、タクシー乗ってる人は、人と思ったら間違い。生きながらにして錆び付いている人たちなんですね。
小林麻子
えへへへへ?!(笑)
そういうふうになってくと、俺が言ったんじゃなくて、彼(=オズヴァルト・シュペングラー)が言ってるんですけどね。
小林麻子
はー、そうですか・・・。
だから(滅びへの道は)もう始まったと。それで、英語教育云々というのはそれの表れなんですよね。
何が表現のツールだって!?お前らもね、え〜と・・・誰だっけ、文部大臣?
施光恒
下村さん。
下村さんか。固有名詞挙げてるけどね、実は、お会いしたことあるんだ、あるテレビ局で。貴方の姿もオツムも錆び付いてますよと。
小林麻子
(笑)
えっ、下村さんだけじゃないですよ。そういうふうに思った方がいいですよね。
小林麻子
はい。
それで僕は、彼(施光恒)に忠告したいの。僕は年ですからどうでもいい。
こんな若い身空でね、錆び付いた文明というものに気付いても、シュペングラーに言わせれば『宿命だ』って言うんですよ。
施光恒
うん。
(宿命故に、文明の没落は)如何ともし難くこれは進むと。だから、いくら施さんが逆らってもダメだと、シュペングラーは言ってます。
施・小林
(苦笑)
ど〜にもなりませ〜んと言っております。
施光恒
・・・・・。(ただただ苦笑)
人類は阿呆になるのは必然です。阿呆というのはこういう意味よ。山ほど技術を持って阿呆になるというね。
施光恒
まぁ〜負け戦でも・・・(苦笑)、ちょっとこう・・・頑張ってみたい気はするんですけどね。
僕ね、ビックリしたことがあってね、最近なくなったけど、あれ一時期、10年、10何年・・・なんでもさ、超うまい!とか・・・
小林麻子
あー。
超面白い、「超(ちょう)」を付けてたでしょう?
施光恒
えぇ。
小林麻子
今もまだ残ってますよね。
まだある?おかしい新語だなと思って。
ところがね、あれも普遍的かなと思ったのは、アメリカ人がね、その10年、20年前に、何でもかんでも「superb(スーパブ=素晴らしい、とびきりの)」って付けるんですよ。
小林麻子
あぁ〜。
施光恒
そうだそうだ。
テレビのコマーシャルでもなんでも、superb beauty、superb fine、訳すと「超(ちょう)」ね。
施光恒
そうですね。
だから結局ね、人間が感受性を失い、表現力の豊かさを失うとね、何か、全てを「超なんとか」、「superb」と言ってしまうという『モデル化』ね。『言葉の単純な錆び付いたモデル化』というのは、どうもね、日本人特別なことじゃなくて、各国各様に進んじゃっているみたいですね。
施光恒
そうですね。
そんな錆び付いた、superb(スーパブ)に錆び付いた文化の消えたような、単なる文明に過ぎない英語をさ、スピードラーニングをしてどうする気だいねと。会社の公用語にしてさ、望遠鏡で見たら、1万人の社員全部錆び付いているぜってね。それ・・・どこの会社?
小林麻子
えー・・・楽天?
楽天!?(笑)楽天にねぇ、特別な恨みは無いんだけど、まぁ、そういうふうになってくるんですよねぇ。
施光恒
まぁ、だいたい日本語も確かに最近そういうふうに、私の語感も含めてかもしれませんけども、だいたい錆び付いている感じが確かにするんですね。
だけど、ここでまさに英語化してしまうとますます・・・その悪化傾向というのは進むような気がするんですよね。
いや、そうだと思いますよ。
施光恒
えぇ。
これね、若い奥様方、この番組観てないと思いますけども、もし観てたらね、これ昔から定説なんですよ。幼い時にですね、それは2つか3つか忘れましたけど、その幼い時に2ヶ国語を教えるとね、いわゆるバイリンガルにするとね、人間の性格がおかしくなる傾向が非常に強いのね。
小林麻子
あら。
これすぐ想像付くことでしょう?やっぱりね、人間の言語って非常に複雑なもんですよ、色合い豊かなものでしょう。そこに二ヶ国語が入ってくるとね、それは幼い頭脳には耐えられないんですよね。
施光恒
そうですよね。
従って、頭がこのsplit minded(スプリット・マインディッド)というか、頭が分裂するんですよね。(split mind=精神分裂症)それでおかしい人間が。
だから、単にあれですよ貴方、愚民化なんて生易しいものじゃないですよ。いま子供から始めているわけでしょう?だから、(施光恒の)本にもう一つタイトルを付けて頂きたい!!
『英語化は狂人化!!』・・・えぇ?(笑)
施光恒
狂人・・・(笑)
愚民ならまだねぇ、愚かしいからどうって事はない。
小林麻子
強い方(=強靭)じゃなくて?
狂人化する。
小林麻子
アメリカンスクールに入れる奥方多いんですよね。
施光恒
そうですね、えぇ。
いや、それに耐えられるね、特殊な人間もいますけどもね。自分の心がsplit(スプリット)、分裂することを自覚してそれを総合した時にね、やっぱり高い次元に登るという優秀な人材もいますし、ヨーロッパではだいたいあれは親戚の言葉だから簡単なんだけども、7ヶ国語ぐらい喋れるのザラに・・・ザラってこともないけども、いるんですよね。
もちろん、親戚の言葉ですから、エストニア語も喋れるし、ギリシャ語も喋れるとかポルトガル語も。7ヶ国語ぐらいね、お互い親戚ですから若干の変形の規則なりなんなり覚えれば喋れるんでしょうけどね。
だからね、multi-language(マルチ・ランゲージ)ってのは、それ自体、小さい声で言うけどね、面白いことは面白いんですよ。一種のオツムのゲームですからね。
小林麻子
あぁ。
例えば、平和はpeaceであり、peaceはpactであり・・・パッと言葉の繋がりを脳のゲームとしてやれるってことはね、結構面白いことではある。
ただ、遊びにinしてしまってさ、自縄自縛ってこともありますからね。
貴方の本に文句を付けると、英語化は愚民化・・・
小林麻子
(笑)
文句を付けると、『疾うに愚民になっているんですから』(笑)
施光恒
ハッハッハッハ(笑)
入れて欲しいのは、『超愚民化!!』(笑)
施・小林
(爆笑)
施光恒
超愚民化ですか(笑)
今日ちょっと僕ねぇ、神経症がキツいのとね、来る時途中のタクシーが1時間も遅れてねぇ、もう生きるのやめようかなと思うぐらい腹が立ってて、そこにこの本出されたもんですから、今日は発言が些か乱暴でありましたが、その分は視聴者が3割5割引で聞いて頂くようにお願いして・・・ありがとうございました。
施・小林
ありがとうございました(笑)
【次週】映画「この国の空」は稀に見る傑作