吾等七十歳、戦後七十年をいかに見る① ゲスト:黒鉄ヒロシ、辻原登、佐高信(西部邁ゼミナール)
ゲスト
黒鉄ヒロシ:漫画家
辻原登:小説家
佐高信:評論家
【ニコ動】
(西部邁ゼミナール)吾等七十歳、戦後七十年をいかに見る① 2015.08.30
http://sp.nicovideo.jp/watch/sm27045973
新アシスタント:今村有希(女優)
今日から当ゼミナールの助手を務めさせていただく今村有希です。不慣れですが、皆様の協力を得て番組の成功に少しでも貢献させていただきたいと念じております。宜しくお願い致します。
今日から8週間に渡って当ゼミナールとしては、グレートプロジェクトがはじまります。つまり、昭和20年、あの大東亜戦争において、日本がアメリカに大敗した年にこの世に生を受けて、今年70歳になられた先生方を招いて、戦後70年を縦横に裁断していただこうという企画です。
これからの4週間は、漫画家の黒鉄ヒロシ先生、小説家の辻原登先生、そして評論家の佐高信先生が登場します。
お仕事もご意見も隔たっているようで交わっている。しかも、近づいたかと思えば遠ざかっていく三人の先生方が、ご自分らの人生の長さと同一期間の戦後日本にあって、どう生きて来られたかが徐々に判明していくに違いないと想像すると興味津々です。
それでは先生方、宜しくお願いします。
考えたら、今年、戦後70年、戦後70年って至るところで大騒ぎしてますけど、どうして、戦後60年とか50年が何も言われないままに通り過ぎたのか。(戦後)60年の時は「小泉改革」でしたっけ?今から10年前・・・そうだね。平成改革あたりの大騒ぎで、戦後60年を忘れて、(戦後)50年は?・・・オウム真理教?・・・そうだね。またそのあたりの大騒ぎで忘れて、それでふいに70年のことを思い出したんでしょうね、日本人は。今年はね、もう1月から70年、70年って。別に自分でつけたタイトルを自分で冷やかしているわけじゃないんだけど(笑)それで70年生きて来られたお三方を招いて。
皆さんのお年と戦後70年、そんなもの関係もないといえばないんですけど、なんとなく語呂がいいんでね、自分としては(タイトルが)気に入っているんですけどね。でもどうなんでしょう、皆さんのご記憶が傾倒的にはじまる、人それぞれでしょうが、平均はどうでしょうかねぇ、早くて4歳、遅くて6歳、僕は遅い方なんだけど、真ん中をとって5歳、5歳前後から傾倒的にはじまるとすると、戦争が終わって5歳ということは、1950年、昭和25年、まだアメリカ軍がいますからね。サンフランシスコ講和(条約)は次の51年ですからね。ということは、まだ戦争の傷跡が日本国中にあり、米兵もあちらこちらにおりですね、その頃に皆さんは記憶としてね、意識として『戦後のスタートライン』に立たれたというのが平均値かなと思う。
でも居る場所によりますわね。佐高さんは山形酒田か。
えぇ。
黒鉄さんは四国土佐。辻原さんは和歌山でしたか?
和歌山ですね。
和歌山市ですか?
いえいえ。ずっと南の方でしたね。
あぁ、そうでしたね。南の方ですよね。
アメリカ兵を幼い時に、その(当時)5歳前後に米兵なり何なりを目の当たりにしたって方はおられます?
あの酒田は一応、キャンプみたいのはありましたから。
あ、そうか。
えぇ。ただ、やっぱり記憶っていうともう「お腹減ってた」って記憶ですしねぇ。
まぁ、僕もそうだけどねぇ。
えぇ。
傷痍軍人の方が目につきましたよね。
あぁ、傷痍軍人ねぇ。今村さん、「傷痍軍人」って分かる?
今村有希
分からないです。教えて下さい(笑)
私目が解説しますとね、あの傷付いた軍人のことなんだけど、
今村有希
はい。
生き延びて傷付いて、そういう人たちが街角とか、あるいは電車の中で、概ねアコーディオン弾いてるのが多かったですねぇ。悲しげな軍歌を弾きながら・・・
今村有希
はい。
要するに、簡単に言うとお乞食さんですよね、物貰い。お布施をいただくというね。ところが、その中には、だんだんと判明してくるのは、傷痍、傷を負ってないのに、食い繋ぐために白装束で足を吊ったり腕を吊ったりしながら下賤の傷痍軍人まで現れる。そういう時期が戦後5、6年続いた。いや、本当ですねぇ。
僕ね、戦後10年頃も街に行くと真っ白い装束で黒い帽子をかぶって片足がなかったり片腕がなかったりとか。
すれすれの記憶というのは代用食じゃないですか。私はちょっと食べ物にこだわり過ぎかもしれないけど(笑) 代用食ってのを覚えてるか覚えてないか。いちおう専門の配給ってのもありましたでしょう?
「代用食」知らないと思うけど、具体的に今村さんに教えてやって。例えばどういうものが代用食か。
今村有希
具体的にお願いします(笑)
ご飯が食べられない、ご飯が。あれは配給ですから。
今村有希
はい。
それがならないから、例えば、サツマイモを代わりに食べたり、あとはトウモロコシ?
今村有希
はい。じゃがいもとか。
私はもう本当の田舎で(食べ物が)豊かなんですよね。食べる物に困るということが全く無くて、米兵の姿を見たことがないし。
これが南(辻原)と北(佐高)の違いなんですよね(笑)
一同
(笑)
なんかすごいムカムカっと来るものがあるねぇ(笑)
一同
(笑)
だからね、それはハンデキャンプというかね、まず食い物できますでしょう。魚を取ろうにも海が凍ってるみたいなことでしょう?(笑)
そんなことはない。そんなことはないけども(笑)
いや、北海道はもっと悲惨で、僕は戦争が終わった時は6歳ですけどね、例えば、脱脂粉乳ね、米軍のあれで。まぁそれが悪名高いものなんだけども、北海道はねぇ、田舎に行くと脱脂粉乳すら来なかったんですよ。僕は一回しか飲んだことがない(笑)その辺、どっかで途絶えちゃったんでしょうねぇ。
ただ、僕は母方の親戚が農家でね、いろんな理由があって、農家から米俵をね、ある程度まとまって送られてきたんで米にはギリギリ不足はなかった。というのでは珍しいケースなんだけど。それにしてもわかりますよ、北に行けば行くほど飢えが・・・というか南方の方々(黒鉄、辻原)こうなんですよ。「飢え」に「ひもじさ」が付け加わると、苦しみは1+1で2じゃなくて、
そう。
なんか4か5にまで行っちゃうという(笑)
それとあの、兵隊も沖で戦っているのは北出身の人たちで(笑)、南は大阪なんかは「又も負けた八連隊」みたいな話ですからね(笑)
今村さんは大阪出身(笑)
今村有希
はい(笑)
それは嘘だって説もありますけどね(笑)
あぁそうですか。それでその被害というか、死んだ人も北の方が多いわけですよ、どっちかというと出身者が。
今村有希
えぇ〜⁉︎
すると更に悲惨さが増すという。だから、今の話を聞くとやっぱりこうね。
今村有希
はい。
だから、長い日本列島でも、戦前・戦中・戦後もすごい「違い」が、それを「格差」と言っていいかどうか別ですけども、大きな違いがありますよね。
ただ申し上げたいのは、父親は中国に(戦争に)行きましたけども、「みんな明るかった」というのが異様な印象で、あとで考えると、戦争は悲惨で当時はうわぁ〜えらいこっちゃえらいこっちゃというんだけど、意外とみんな笑っていたって記憶しかないんですよね。そうすると、人間オプティミストというのか、面白い楽しい記憶を選択するのか、前も申し上げたと思うけど、父親の戦友たちが集まって、「部屋へ入っちゃだめよ」と言われて、覗いたら匍匐前進して遊んでたんですよ、酒呑んで。
(匍匐前進のジェスチャーをしながら)匍匐前進ってこういうね。
今村有希
はいはい。
(戦争が)嫌な思い出でそんなことするわけが無いのに、あの若さだとこんなことやったよねっていう娯楽の一環みたいになってる・・・まぁそうでもしなけりゃいかん装置のようなみたいなものだったのかもしれないですけどね。見せなかったのかもしれないですね。
結局、(生きて)帰ってきた人たちでね。帰って来なかった人たちもいるわけで(笑)
一同
(笑)
でもね、話をズラすようだけど、あれは誰が言い出したか『戦争知らない子供たち』って言い方があるでしょう。最近でいうとね、あれある政党なんだけど、『若者を戦場に送るな!』ってね、なんか50年代(1950年代)もあったポスターのようなねぇ・・・ポスターの色合いは昔と比べて随分綺麗だけども、そういうパターン化された言われ方あるでしょう。でも、考えたら変なもんですねぇ、戦争を知らない子供たちという、それは直に知らなくてもね、なんとか想像だとか伝聞だとかその他、映画だ小説だなんだってさ考えたら、そんなものはみんな戦争を知ってる筈でね、大体どの程度のものかねぇ。
それから、戦場に若者を送るなってのも変な話で、戦場が一応有るんですからねぇ。じゃあ、その戦場がね、ロクな戦場じゃないのなら送っちゃいけないけども、その戦場でですよ、是非とも戦わなければならない理由があるならのならば、どんどん送り込まなければいけない(笑)
ハッハッハッハッハ(笑)
どこか「戦場は悪いものだ」というね、「悪い人たちが戦争をしている」という、なんかもう無自覚の前提で、それがね、戦後10年ぐらい僕が子供の時はずっと続いてたんですよ、15年かな。それがまた最近ね、焼き直されたのと同じようなセリフがあちこちにポスター貼ってあるの見るとね、『たいして人類というか日本人、進歩してねぇなぁ〜』と思うけどね(笑)
あれですか、皆さんのなかに「戦争を知らない子供たち」なんて気分はほとんど無いでしょう?
無いですね、それは流石にね。だけどね、西部さんの今のアレね、横から言うと、あのね、戦争で悲惨な目に遭わないのが背後にいる人たちで、「戦場に送る人たち」って言い方も出来ますよねぇ(笑)
まぁそうね。
実際に送られる方は悲惨な目に遭うという。
まぁそれはそうだけどね。特に日本の戦争はね、なんか特にニューギニアあたりに行くと、ガダルカナルに行くと、戦わずに単に餌が無いから「飢死」という。何十万も飢死というね、まぁそういう意味じゃ悲惨な戦場、『戦いの無い悲惨な戦場』がね、まぁそらぁそうだけど。
実際はやっぱり、酒田は港ですから、港が艦砲射撃受けたとかいうふうな話は聞きましたけど、
あぁ。
それは(実体験ではなく)「聞いて」憶えているんでしょうね。
この中で、本当は僕は札幌近郊ですけども、グラマン戦闘機が二機ものすごいスピードでたぶん上空500mでしょう。爆音とともに通り過ぎて、日本軍の小さな基地があってそれを探してね。それから、B29もやはり2回かな、上空1万mから不気味な音を立てて、それを二回見ただけですね。
それで戦争終わったら米軍がその基地を接収していきますから、家の前を戦車とかジープ。でも、それはね、僕はそういう意味じゃ戦争を見た世代だけども、それを実際に見たか・見ないかなんて、僕に言わすと大した話じゃないね。そんなこといったら、黒鉄さんはお得意の歴史漫画だって、じゃあ「歴史を見た奴はいるのか?」と言ったらそれは過去のことだから、誰も見てないですよね(笑)でも、みんな歴史があることは知ってるわけですからね。
ともかくちょっと僕はお三方に聞いてみたいの、一人ずつ。ちょっと回りくどく言うと【福澤諭吉】が亡くなる直前に『わたくしは明治の政府に実のところ、何の不満も無いのであります』と。たぶん、彼が日清戦争で勝って大興奮で、それだけじゃないんでしょうね。やっぱり政府は現実の状況の中で精一杯やっているんだろうと。俺はなんか長い目で広い幅でいろんなことを言っているけども、政治は政治の格別の状況の中でやっているのだから、いちいち不平不満を述べないという意味もあったと思う。
で、同じ年に死んだ【中江兆民】が、『私は明治という時代に大不満をおぼえる』と。その場合の意味はね、ただ(兆民は)衆議院議員になってますから、1回ですけども、何か彼は現実をいろんな意味で知っていながら尚且つ、日本人が、彼は「共和政」なんですよね、フランス仕込みの。しかしそれは「反天皇」という意味じゃなくて、人々がpublic mind=公共心の中に天皇もウェルカムと言うのなら、『天皇制を頂くような共和政で一向に構わない』と兆民は言っているんだけども。いずれにしてもそういうpublic mind、公共心に基づくちゃんとした議論、積み重ねで人が選ばれたり、決定されるという、日本人はそういう『公心(おおやけごころ)』で立ってきちんとした議論をする習慣が乏しいと。それが彼の不満の大原因だと思うんですけども。
それはともかく、昭和20年生まれのお三方、いろいろおありではありましょうが、この(戦後=人生の)70年に気に入らないとか、まぁこんなもんじゃないのとか、ちょっと一言コメント貰いたいですねぇ。
僕の方から言っておくと、僕は『大不満』でもう、5、6歳の頃から小学校、中学校、高校、大学、隣近所、街角広場、電車、ついでに言うとテレビ局も含めて全てに不満であるという(笑)
70というのは古希ですよねぇ。
そうか。
だから、70まで生きた人ってあんまり「古来稀なり」ということなんでしょう。
(*「参考」古希は、中国唐代の詩人 杜甫の『曲江詩』の詩句にある「人生七十古来稀なり」に由来する。「稀」と「希」は同義語で、70歳まで生きることは古来まれという長寿の祝いである。古く、長寿の祝いは40歳以上で10歳ごとにされていたが、杜甫の詩の影響や、昔に比べて長生きになったことから「古希」のみが残ったと考えられる。)
そうだ。
だから、私なんかあの、モノのない時代とかから一応育ってきて、結構よく生きてきたなって。だいたい我々の年代って少ないですからねぇ、生まれた前後に比べて格段に少ないから、よく生き延びてきたなっていう感じが強くて、西部さんみたいな不満の度合いってのは、意外に少ないかな。ハハハハハ(笑)
ハハハハハ、そう?(笑)
ですけど(笑)、ただ同年代の人に逆に「大変だったよね」という感じはありますねぇ。
うん。ぎこちない表現ですけど、なんか公明正大なね、場面というのがあんまり見たことないような気がする。僕もう76(歳)ですけどねぇ・・・例えば、何かこう情実でね、感情に流されたり、ちょっとした打算でモノが決まったり、ちょっとした評判で動いたり、そんなもんが社会だってことは分かるけども、何かそういうものを超えて少し公明正大に話をしてみようじゃないかと、いうふうな感じの場面をあまり見たことないなぁ・・・。
南方の方はどうなんですか?公明正大なんですか。
黒鉄・辻原
(苦笑)
あの諭吉(福澤諭吉)がね、国会かどっかに呼ばれる時に、和服で行く時に、ここ(脇腹のあたり)を叩いて、「刀がありゃあなぁ〜」という記述があるんです。これこそは「私(わたくし)」ですよね。それは大いなる不満があろうけども、パブリック(公)で見たら「公(おおやけ)のシステムは由しとしようじゃないか」みたいな。それと比べるのもあれですが、僕は前半は不満は無いんですよ。つまり騙されたんですけどもね。アメリカのテレビ番組やら何やら、あれはどうもサービスだったみたいですね。ただくれて、「オルグ」って言うんですが(笑)、あれを見ているうちに、「パパはなんでも知っている」「ザ・ルーシー・ショー」みたいのをやってくれて、完璧に(アメリカを)好きになりますよね。そのうちに、ジョン・ウェインの「アラモの砦」を見た時にやっぱりアメリカを好きになっちゃうわけですよ。よく戦って。ところが、あとで調べてみると、メキシコから(テキサスを)簒奪した。それから、メキシコもアパッチ、インディアンからとった。すると、これは一筋縄ではいかんなぁと、えらい前半に騙されちゃった時代が長いですねぇ。で、今はそれを返すというか、よくぞ騙されたなぁ〜というそんな印象です。前と後ろがバラバラの感じ。
そうか。辻原先生はあれでしょう、あのお父さんは、あんな事を言っちゃっていいのかなぁ・・・戦後で言うと、僕も一時期そうだったんですけど、僕なんかよりもはるかに上回る、著名なる左翼党首であられたお父さん(社会党党首・村上六三)がね。
フフフ(笑)
一人息子さんでしたか?
いや、弟がいるんですけど、ただ、和歌山の本当に南の方の社会主義者ですから、なんといいますか、大阪とか都市部の社会主義者とは相当かなり違って、社会党ですけども、最左派なんですけども、選挙は「自民党の人よりもうんと自民党的な選挙(笑)」をして、当選していくというふうなそういう人間で。まぁ教員、日教組ですけども、その父親の影響というのはやはり大きいですよね、まぁ「左翼少年」という。ただ、小さな村の左翼少年ですから滑稽ですよね。ドン・キホーテ的な、なんていうんでしょうか(笑)
あぁ。僕もそうですけどもねぇ。
で、僕はだからこの70年に何の不満も無いですね。大きく考えてみれば、一つ一つはいろんな不安と不満とかは。でもそういうのは恨みっこなしというのがいいように思って、忘れるわけじゃないんだけども、全体を見ればこれは政治システムとか、戦後云々じゃなくて、僕自身の人生の中で生まれ故郷と、それから学校と両親と友人と、でいまこうやって4人で話出来ている、そういう流れ全体をみると、由しとしないといけないなっていう。
まぁねぇ、僕もそうも言えるよ。ただこんなこともあるんですよ。僕ねぇ、自分のカミさんは1年ちょっと前に亡くなったんだけど、それはともかく、結婚してビックリしたのは、カミさんのお袋と僕のお袋。僕のお袋は小学校しか出ていない。カミさんのお袋は北海道の才媛だったらしいけど、二人のおんなが、幾度に関係ないおんながですよ、同じことを言ってた戦後。ってことはね、結婚して分かったのはこういう文句なんですよ。
『日本の男ときた日にはたった一回の戦争に負けて、腰を抜かして全くもう!』って。
まぁ4行しかない(笑)それはね、新聞とかなんとかには出てこないけども、二人の関係のないおんなが、たぶん30代半ばでしょうね、戦争が終わったとき二人ともね。同じ言葉で言ってたということは、 当時の女たち、子供を3人も4人も5人も産んだというか、産まされたというか、で、「男がヤルってんなら、私たちは『銃後の母』(銃後の守り)として、何でも頑張るわよ!」と言ってて、ところが(アメリカに)負けて、で、男たちがやっぱりアメリカに擦り寄っていく姿に対して、女たちはなんとも釈然としないものを感じて、そういうことの表れじゃないかと思うんですけどねぇ。
先ほど、僕が不満だこと言った中には、僕は女じゃないんだけど子供心にね、変だなぁ〜と。昨日まで大ゲンカやってたハズなのに、露骨ではないのだけども、僕の親はそうでもなかったし、学区の人はいろんな戦争に行ったんだけども、平均的に日本の大人たちが何かね、勝ち戦をやったアメリカに、それになんか擦り寄っていく風情ってのが、地域によって違うのでしょうけども、何か広がっているという、それが嫌だなぁという感じがあった。
辻原さんね、お父様ともちろんお会いしたことないけど、僕も社会主義の社も知らないのに、社会主義どころか暴力革命をほんの数年“信じることにしていた”時があるんだけども、そんなことはともかく、戦争が終わった時にね、社会主義は後々にトンデモナイってことが分かるのだけど、ともかく何かね、あぁいう「理想」みたいなものが必要だと考えて、それに取りあえず突っ込んでみようと、こう考える。で、戦後10年ぐらいですけども、実は、戦争の生き残りの日本の兵士たちがアメリカ軍と戦うつもりなのに戦争終わっちゃったでしょう?
うんうん。
自分はまだ生きていると。もちろんシベリア帰りとかいろんなことがあるんだけども、まとめて言うとね、やっぱり日本の青年たちのまだアメリカに対する戦闘意欲が急に場面が断ち切られたもんだから、それが当時の古い時代の共産党ですね。とりわけ「所感派」と言われるんですけどもね。頭の方はあまり無いんだけども、ただひたすら火炎瓶を作って、山村工作隊と称して山奥まで行って(笑)、農村におるべしとかわけのわからない。
(*「参考」所感派(しょかんは)とは、日本共産党が1950年以降に内部分裂した際の派閥の一つ。 徳田球一・野坂参三・志田重男・伊藤律らの属した親中国派(主流派)。対立派閥として宮本顕治らの国際派や野田弥三郎らの日本共産党国際主義者団などがある。)
今から思えば全て漫画的な失敗なんだけども、社会主義そのものは漫画的なものなんだけども、でもね、それに突っ込んでっいった、あれは戦後10年間になりますかねぇ。僕はね、あの頃はいちばん気持ちの有り様として公明正大な日本人でいて(笑)
あの頃は素朴で僕は少年時代になるから詳しいことは知らないんだけども、失敗は失敗だけどもなんとなくね、いい時代だったんじゃないかなぁ〜と、過去を思っているんんですけどね。
うん。