◼︎大東亜戦争とは何だったのか①「戦後」の「歴史認識」 桶谷秀昭 × 福田逸× 富岡幸一郎
【ニコ動】
桶谷秀昭:文芸批評家
[※(注)wikiでは「逸=はやる」になってますが、こちらでは「逸=いつる」で紹介されてますね]
小林麻子
あの大東亜戦争、別名(=アメリカ名)太平洋戦争における日本の大敗北から69回目の夏がやってきました。
そこで、あの戦争をめぐる「日本人の精神の歴史」について文芸批評の重鎮であられる桶谷秀昭先生と、明治大学教授で演出家の福田逸先生と、富岡幸一郎先生を招いて、あの戦争についての相対的な批評を施さなければ、『脱戦後』などは空理空論に過ぎないという趣旨で、今回から三週に渡って論議していただきます。
それでは先生方、どうぞ宜しくお願い致します。
僕は開戦の日は、まだ2歳半かな?覚えていないのですが、敗戦の日から僕の記憶が、戦後の本当に「戦後育ちの記憶」から言うと第一期生なんですが、ちょうどこの4人、おおよそですが、10年ぐらいずつ隔たった4つのジェネレーションということになる。順番は、桶谷先生、僕、それから福田先生、富岡先生になるんですが。
『あの戦争』についての大まかな気持ちというか気分というか、捉え方を語っていただくというところからはじめてみましょうか。
年の順で桶谷先生、全てをご存知の桶谷先生(笑)
昭和16年の12月8日の午前7時に、JOAK、当時のNHK(現在のNHKラジオ第一)ですね。「臨時ニュースを申し上げます」と。ご飯を食べていたのですが、「8日未明、西太平洋において帝国陸海軍が、アメリカ・イギリス軍と戦闘状態に入れり」、いや、これはね、大変な緊張感です。「とうとうやったか」という。それで、日本中がシーンと静まり返っていたというのが、私の印象なんですね。
ハワイ開戦から戦火があがったでしょう。午後の授業は中止して、それぞれの担任の教師が、日本軍の素晴らしさってものを褒め称える話なんかをしましてね、だいぶ浮かれたような感じがありましたが、午前中もシーンとした静まり返った、私は青ざめた緊張感といままで呼んできましたね。
要するに「青ざめた緊張感」この一言だったと思います。
なんかあの、僕はものの本でしか知りませんが、中国文学者の【竹内好】さん(※竹内好「よしみ」⇒中国語読みだと「ハオ」)が、中国研究者ですから、それまでは日中戦争における日本のやり方に、相当不満、批判的だった竹内好さんが、開戦の日に快哉を叫んだ!という有名な話としてありますよね(笑)
でちょっと、その冒頭を読みますと、我々庶民が感じた感情となんか一つになるんです。ちょっと読んでみます。
「歴史はつくられた。世界は一夜にして変貌した。我らは目の当たりそれを見た。感動に打ち震えながら、虹のように流れる一筋の光芒の行方を見守った。
胸ちにこみ上げてくる名状しがたい、ある種の激發するものを感じとったのである。
十二月八日、宣戦の大詔が下った日、日本国民の決意は一つに燃えた。爽やかな気持ちであった。これで安心と誰もが思い、口を結んで歩き、親しげな眼差しで同胞を眺めあった。
口に出して云うことは何も無かった。建国の歴史が一瞬に去来し、それは説明を待つまでもない自明なことであった。
何人が、事態のこのような展開を予期したろう。戦争はあくまで避くべしと、その直前まで信じていた。戦争は惨めであるとしか考えなかった。実は、その考え方の方が惨めだったのである。卑屈、固陋、囚われていたのである。
戦争は突如開始され、その刹那、我らは一切を領得した。」
まぁこういう文章で、長いからこれで打ち切りますが、「青ざめた緊張感」とちょっと繋がるような気が致します。
竹内好さんのことを視聴者のために、余計かもしれない解説をすると、戦後、竹内好さんはもちろん、「普通の左翼」というふうにレッテルを貼ることは出来ないのですが、民族主義的なところがありますのでね、でも、まぁ簡単に言うと、『反体制的』な言説をね、例えば、東大教授であった【丸山眞男】さんなんかと連携するような形で張ったというふうにして戦後では記憶されるようなことが多いんですけど、その方がこの「開戦の日」にね、こういう文章を書いているということは・・・
そうそうそう。
そのことに感動しますよね(笑)
(桶谷)先生が準備して下さった、この、『米国及び英国に対する宣戦の詔書』ってのをちょっとあの・・・
そうですね。これは今日のテーマの大事な歴史的な資料でありますので、昭和16年12月8日に発布されました『米国及び英国に対する宣戦の詔書』というのを朗読致します。
『米国及び英国に対する宣戦の詔書』(昭和十六年十二月八日)
「天佑ヲ保有シ万世一系ノ皇祚ヲ践メル(ふめる)大日本帝国天皇ハ、昭(あきらか)ニ忠誠勇武ナル汝有衆(ゆうしゅう)ニ示ス。朕(ちん)茲ニ(ここに)米国及英国ニ対シテ戦ヲ宣(せん)ス。朕カ陸海将兵ハ、全力ヲ奮テ交戦ニ従事シ、朕カ百僚有司(ひゃくりょうゆうし)ハ、励精職務(れいせいしょくむ)ヲ奉行シ、朕カ衆庶(しゅうしょ)ハ、各々其ノ本分ヲ尽シ、億兆一心、国家ノ総力ヲ挙ケテ、征戦ノ目的ヲ達成スルニ遺算ナカラムコトヲ期セヨ。
抑々(そもそも)東亜ノ安定ヲ確保シ、以テ世界ノ平和ニ寄与スルハ、不顕ナル(ひけんなる)皇祖考、丕承(ひしょう)ナル皇考ノ作述セル遠猷(えんゆう)ニシテ、朕カ拳々措カサル(おかざる)所、而シテ(しこうして)列国トノ交誼ヲ篤クシ、万邦共栄ノ楽ヲ偕ニ(ともに)スルハ、之亦帝国カ常ニ国交ノ要義ト為ス所ナニ。今ヤ不幸ニシテ米英両国ト釁端(きんたん)ヲ開クニ至ル、洵ニ(まことに)巳ムヲ得サルモノアリ。豈(あに)朕カ志ナラムヤ。
中華民国政府、曩ニ(さきに)帝国ノ真意ヲ解セス、濫(みだり)ニ事ヲ構へテ東亜ノ平和ヲ攪乱シ、遂ニ帝国ヲシテ干支(かんか)ヲ執ルニ至ラシメ、茲ニ(ここに)四年有余ヲ経タリ。幸ニ国民政府更新スルアリ、帝国ハ之ト善隣ノ誼(よしみ)ヲ結ヒ相提携スルニ至レルモ、重慶ニ残存スル政権ハ、米英ノ庇蔭(ひいん)ヲ恃(たの)ミテ兄弟(けいてい)尚未(いまだ)タ牆(かき)ニ相鬩(あひせめ)クヲ悛(あらた)メス。米英両国ハ、残存政権ヲ支援シテ東亜ノ禍乱ヲ助長シ、平和ノ美名ニ匿レテ東洋制覇ノ非望ヲ逞ウ(たくましゅう)セムトス。剰(あまつさ)へ与国ヲ誘ヒ、帝国ノ周辺ニ於テ武備ヲ増強シテ我ニ挑戦シ、更ニ帝国ノ平和的通商ニ有ラユル妨害ヲ与へ、遂ニ経済断交ヲ敢テシ(あえてし)、帝国ノ生存ニ重大ナル脅威ヲ加(くは)フ。朕ハ政府ヲシテ事態ヲ平和ノ裡ニ(うちに)回復セシメントシ、隠忍久シキニ彌(わた)リタルモ、彼ハ毫モ(ごうも)交譲ノ精神ナク、徒(いたづら)ニ時局ノ解決ヲ遷延セシメテ、此ノ間却ツテ益々経済上軍事上ノ脅威ヲ増大シ、以テ我ヲ屈従セシメムトス。斯ノ如ク(かくのごとく)ニシテ推移セムカ、東亜安定ニ関スル帝国積年ノ努力ハ、悉ク(ことごとく)水泡ニ帰シ、帝国ノ存立亦正ニ危殆(きたい)ニ瀕セリ。事既ニ此ニ至ル。帝国ハ今ヤ自存自衛ノ為、蹶然(けつぜん)起ツテ一切ノ障礙(しょうがい)ヲ破砕スルノ外ナキナリ。
皇祖皇宗ノ神霊上ニ在り。朕ハ汝有衆ノ忠誠勇武ニ信倚シ、祖宗ノ遺業ヲ恢弘(かいこう)シ、速ニ禍根ヲ芟除(さんじょ)シテ東亜永遠ノ平和ヲ確立シ、以テ帝国ノ光栄ヲ保全セムコトヲ期ス。」
[※「参考」上記の現代語訳になります
私はここに米国及び英国に対し、戦いを宣言する。陸海の将兵は全力をふるって戦いに当たり、武官や役人たちはその職務に励みつとめ、国民もそれぞれの本分をつくし心を一つにし、国家の総力を挙げて、間違いなく戦いの目的を達成するよう期してほしい。
そもそも、東アジアの安定を確保し、世界の平和に寄与することは、明治天皇から大正天皇へと受け継がれてきた将来への配慮であり、私が常に心に留めてきたことである。そして、各国との友好を大切にし、すべての国がともに栄える喜びを共有することもまた、日本が常に外交の要諦(ようてい)としてきたことである。今、不幸にして米英両国と戦いを始めるに至ったことは、実にやむを得ぬことであり、私の意志であろうはずがない。
中華民国の政府が先に、日本の真意を理解せず、みだりに事を構え、東亜の平和をかき乱し、ついに日本に戦いを始めさせてから4年余りがたった。幸い、国民政府は新たに生まれ変わり、日本はこれ(汪兆銘政府)と善隣友好の関係を結び、ともに提携するようになった。ところが、重慶に残存する政権(蒋介石政府)は米国、英国の庇護(ひご)に期待して仲間内の争いをやめようとしない。
米英両国はこの残存政権を支援し、東亜の乱を助長し、平和の美名にかくれて東洋を制覇しようという誤った望みを持とうとしている。そればかりか、その同盟国に働きかけて日本の周辺に軍備を増強して我々に挑戦し、さらには日本の平和的な通商にあらゆる妨害を加え、ついに経済断交まで行い、日本の生存に重大な脅威を与えている。
私は政府に事態を平和裏に解決させようとし、長く耐えてきたが、彼らはまったく互譲の精神はなく、いたずらに解決を延ばそうとし、経済上や軍事上の脅威を一段と増し、日本を屈服させようとしている。事態がこのまま推移すると、東亜の安定についての日本の長年の努力はことごとく水泡に帰し、日本の存立も危機に瀕してくる。ここに至って、日本は自らの存立と自衛のために蹶然(けつぜん)と起ち、すべての障害を打ち破るほかないのである。
皇室の祖先や歴代の天皇が、天から見守ってくださるであろう。私は国民の忠誠や武勇を信じ、歴代の天皇の遺業をおし広め、速やかに禍根を取り除き、東亜に永遠の平和を確立し、日本の光栄を守ることを期そうとするのである。
これが全文であります。
福田(逸)先生は、勿論まだ、戦後のお生まれでらっしゃいますけども、あの戦争の始まりと終わりについて、だいたいどんなふうに捉えられてますかね。
そうですね。あの、捉えるというほど、その特に「開戦」については何のイメージも勿論無いわけですし、「終戦」 も私は、終戦の三年後に生まれているわけですから、終戦のイメージも無いのですけども、やはりその間、言わば読書というか、それこそ桶谷先生のご本だとか、終戦については、例のそれ(※玉音放送)を受けた形の【長谷川三千子】先生の『神やぶれたまはず』(※「神やぶれたまはず ~昭和二十年八月十五日正午~」中央公論新社 2013年)ああいうものを読んでいまして、いま桶谷先生が最初に言われた、あの「開戦の時にシーンとした」というのが、それがまた8月15日の正午の『終戦の玉音放送』の瞬間に、なんかこう相呼応するのかな、なんていうふうに感じて聞いていたのですけども。
先ほど、竹内好さんの、その勇猛果敢というような(笑)開戦にあたっての、言わば鼓舞するような・・・国民を鼓舞するつもりもあったでしょうし、それと僕は似たものを、実は、恐らくこれは父(福田恆存)から聞いてると思うのですけども、戦争が始まって、アメリカに対して開戦を宣言したことによって、『ホッとしたような』『何か鬱積していたものが(ぱかっと開けて)一つ突き抜けたような』ということを大人から聞いた記憶があるんです。
[※ちなみに小林秀雄は『三つの放送』と題したエッセイの中で、
「目頭は熱し、心は静かかであつた。畏多い事ながら、僕は拝聴してゐて、比類のない美しさを感じた」と語っていましたね。]
当時、どういうふうに感じていたかということを、今より戦争が「悪」だ「善」だ言ったり、その太平洋戦争、大東亜戦争という『呼称の問題』にまで発展してきてますけども、そもそも、あの時はやはり、まぁ〜【朝日新聞】を代表としてと言ってもいいんでしょうけども、『国民こぞってやはり戦って、その戦いに勝たなきゃならない!』 負けると分かっていても、『やはり戦うからには勝とう!!』という【意志】があって、あるいは、『国のため 家族のために戦う』として、そこに突っ込む。突っ込むにあたって、恐らくその『開戦の詔勅』が発せられた時に、あるシーンとした、真空状態みたいなものがあったのではないか、というふうな感想をもっていますね。
私自身は、むしろなんと言いますか、その後で、意識にのぼってきてから、あとに出てくるのは、本当に『太陽の季節』以降と言いますかね、結局そこからビートルズに行ってという時代を生きちゃった人間で、この十数年、二十年ぐらいでしょうか、自分がどんどん年齢とともに『過去に遡及していく自分がいる』という。いちばんそれを感じたのは、やはり、9年前ですか、終戦60年目の8月15日に、実は私は「靖国」に開門前の5時半頃に行って、「開門前からどうだったか?」というのに、昼過ぎまでずっと、ちょっと興味があって、そんな興味を持つようになったのは、別に決して私が、まぁ「保守的」といえば保守的かもしれませんけども、それほど・・・例えば、尊皇攘夷的な意味で、あとは、尊崇というものをやたら口にしたりという意味の、あるいはよく言う『ネトウヨ』とか『右翼』とか、そういうものとは私は違うつもりでいるのですけども、やはり、「国というものをすごく意識しだしたというのは何か?」というと、やはり、『自分がどこから来たる、来たのかということ、出自ということ、それをやっぱり意識せざるを得なくなったてきた』のが、やはり年齢、年をとってからだ。これは恐らく、西部先生や桶谷先生とはちょっと違う経験なんだろうなと思いますけども。
いや。僕の場合はね、お二人(桶谷、福田)の間に挟まれているのですが、敗戦の時に小学校一年生で、それでクドクド言う、一つだけ言うと、非常に印象が残っているのは、8月末・・・ひょっとしたら8月20日頃かもしれないんですが、僕の近所に日本軍の小さな基地がありましてね、ところが飛行機が一機もない、弾薬もほとんど無い、それで米兵が来るってことだから、9月ですかね?北海道くんだりですから、9月初めだったと思うんですが、僕のうちの庭、庭と言ったって地面なんですけども、そこに、後で思うに「少年兵」ですね、15、6、7(歳)の。それが、数では4、50人いたと思うんです。
我が家の地面に座りこんで、暑い日だったんですが、それで僕のお袋が大きなヤカンにね、その飯盒(はんごう)という兵隊さんたちのそれにね、お茶じゃないと思うんです、たぶん水だと思うんですけど、その水を注いで歩いてて、それで少年兵たちが、本当に恐らく不眠不休でいろんな基地の整理をしてたんでしょうね。米軍に引き渡すためにね。それで青黒い顔して全員こう地面に俯き、うな垂れていて、それで母親が水を注ぎながら、半分涙ぐんでね、「かわいそうにね、一生懸命やったのにね」と言いながら、それがね、僕その『暗い感じ』ね、まぁ6歳ですから、そんな言葉も知らなかったんだけど、今に思えば、『敗残兵たちの行き場所の無い』、しかも少年兵ですから、それが僕に伝わってくるような感覚をまだ覚えていて。
それ以後で言うと、僕はどこか幼い時から、高らかに復讐を誓ったわけじゃないんですが、逆で、勝者=占領軍=アメリカに『靡いていく』、本心かどうかわかりませんが、上辺で靡いていく大人たち、学校の先生をはじめ、そういう『戦後日本人に対するある種の“違和感”』のようなものを子供心に、皮膚感覚ですけどもね、それがずっと変わらぬものとして戦後69年続いているという。それは僕、いろんなことをやってきたんですけどね。それだけは変わらないで続いているという、そんなとこかな。
富岡君は随分あとだねぇ(笑)
そうですね。私はいちばん年少、というか若輩なんですが、昭和32年の生まれですから、物心がついた頃には東京オリンピックとか、昭和45年・70年の大阪万博の時代ですね。それで私にとって『戦争』というのは、ずっと、教科書もそうなんですけども、『太平洋戦争』というふうに聞いてきました。
ところが、ある時ですね、これが【大東亜戦争というのが本当の名称である】ということを実は知りました。これは、だいぶ後になってからですが、作家の【林房雄】が書いた『大東亜戦争肯定論』これは、昭和39年出てるんですが、これを高校生か大学生の頃ぐらいに手にとって、「あっ、大東亜戦争なのか・・・」と思ったんですね。
『大東亜戦争肯定論』は、中央公論1963年9月号から65年6月号にかけて連載され、その後番町書房で正・続2冊で刊行(のち全1巻)。2001年夏目書房で、単行本全1巻で再刊、のち普及版が出版されたが、夏目書房の倒産(2007年)により、古書以外での購入は出来なくなった。
「肯定論」の中心をなす主張は、幕末のペリー来航以来の日本近代史を、アジアを植民地化していた欧米諸国に対する反撃の歴史、『東亜百年戦争』と把握している点にある。そして、1941年12月8日に始まる大東亜戦争こそはその全過程の帰結だったとしている。
GHQ占領軍が入ってきて、昭和20年の12月15日以降、「あの戦争は“太平洋戦争”と呼べ!」とGHQの検閲ですね、がありまして、以後、日本は独立はしたんですけども、全て歴史も教科書もほとんど『太平洋戦争』になったと。
実は、開戦直後の12月10日に大本営の連絡会が、『今日の英米の戦争は“大東亜戦争”と呼ぶ』ということを決定しているですが、【名称の問題】というのは非常に実は大事で、自分たちが戦った戦争をどういうふうに呼ぶか?
例えば、ソ連(ロシア)は、ナポレオンとの戦争を『祖国防衛戦争』と。それからドイツ・ナチスとの戦争を『大祖国戦争・防衛戦争』と呼んでいるわけですね。ですから、日本人は実は、戦争が終わってこれだけ経っているのに、『自分たちのあの戦った戦争の名称すら定かではない。』 まぁ、最近では『アジア・太平洋戦争』というふうに呼んでいる人たちもいますね。
ですから、私はやはり、あの戦争が『大東亜』という一つのアジア、これは「アジアの解放」とかいろんなまた議論になるとは思いますが、こういうものを含んでいる。という意味では、《少なくとも日本人はあの戦争を今後、“大東亜戦争”と呼んでいくべきだ》というふうに思うんですけどもね。
ただ、ちょっとだけ、ほんの1、2割かな「疑問」が残るのは、もしもこの戦争の中で本当の中心問題は、【対米戦争】であった、【日米大決戦】であったと考えるとね、これ、アメリカ側が「The Pacific War」なんだけど、『それに従う』ってそんな意味なんじゃないんですけどね、太平洋上において、西太平洋において戦闘状態に入れり、ってね、そのことを強調すると、やっぱり『太平洋・日米決戦』というふうに呼ぶのにも、一理二理はこちら側、アメリカ側じゃなくて、日本側にも一理二理もあるような気がするね。
『大東亜戦争』という呼び方は、やっぱり、【あの戦争の理想】ですね。
あ〜なるほど。
理想が込められている。
そうですね。
「東亜新秩序」がやがて『大東亜新秩序』になるんです。
なるほど。
[※「補足」:昭和13年(1938)11月の第二次近衛声明で唱えられてた「東亜新秩序」が、1940年7月の基本国策要領で「大東亜の新秩序」となり、その趣旨に基づいた松岡洋右外相の談話で「大東亜共栄圏」の用語が使用された。]
あの(南方の)諸民族が(西欧の)植民地ですから、それを『解放』して、一緒に平和な世界を作ろうというような(『共栄』)、これが日本の理想。
何故じゃあ、さっきから西部さんが言われてる、「みんなそれがハッキリしなくなっちゃたのか?」というのは、これは【アメリカの占領政策】なんです。
そうですね。
(アメリカの)占領政策が見事に成功したんですね。
『太平洋戦争史』というのが、各主要新聞にGHQから配給された。これで、「あの戦争を太平洋戦争と呼ぶ」と。そして同時に、『大東亜戦争という呼び方をしてはいかん!』ということが、GHQから指令が出たのです。
[※「補足」戦争責罪周知徹底計画(WGIP=War Guilt information Program)を担ったGHQの部局『民間情報教育局』(CIE=Civil Information and Educational Section))が以下を主導する。
▷1945年10月2日:
「一般命令第四号」
『各層の日本人に、彼らの敗北と戦争に関する罪、現在及び将来の日本の苦難と窮乏に対する軍国主義者の責任、連合国の軍事占領と理由と目的を、周知徹底せしめること』と勧告。
▷1945年12月8日:
GHQは新聞社に対し用紙を特配。日本軍の残虐行為を強調した【太平洋戦争史】を連載させた。
八紘一宇というのは視聴者の人たちのために言うと、「八方の人々が一つの家の中に暮らす」という意味ですけどもね。(桶谷)先生が仰った『理想』ということなんですけどね。
大東亜といえども、中国語だ、朝鮮語だ、日本語だといろいろ言葉すら違う。宗教があるかどうかはともかくですね、宗教的なる、道徳的なるも相当違うと。その時に、『八紘一宇』をね、『大東亜戦争』をちょっと簡単に言い過ぎたところがあって、やっぱり大東亜各国の間に『調和』と同時に『逸脱』、あるいは、『妥協』と同時に『戦い』とかね。そういうものもアジアには権謀されるんだってことにおいて、いささかね・・・もちろん、アメリカはアメリカで、『自由』・『民主』か、わけのわからない普遍的な理想主義を掲げる。
その時に、日本の掲げた理想は、それ(=アメリカの理想主義)と比べれば、『支持』しますけどもね(笑)、けどしかし、アジアも相当に厄介至極だぜ、ということが、『大東亜』とか『八紘一宇』って言葉において、ふーっと消されている、消され過ぎたという、それが結局、日本が戦後、アメリカ仕込みの自由・民主云々というですね、西欧の近代主義的普遍主義的スローガン、イデオロギー、価値観のもとに、きれいにこの日本列島が【掃除された】一つの淵源なのかなって、ちょっと誇張交じりで言っているんですけどね。
[※「補足」:八紘一宇
「上則答乾霊授国之徳、下則弘皇孫養正之心。然後、兼六合以開都、掩八紘而為宇、不亦可乎」(上は則ち乾霊の国を授けたまいし徳に答え、下は則ち皇孫の正を養うの心を弘め、然る後、六合を兼ねて以て都を開き、八紘を掩いて宇と為さん事、亦可からずや。)
これを日蓮主義者の田中智學が始めて用いたことに由来する。]
だから日本は、アジアにおいて初めてというか、唯一の近代化をした、まぁ西洋化ですね、国家で、その他のアジアの国はみんな19世紀以来、西洋列強の植民地になっているわけですから。
ですから、日本自体がある意味、その『西洋型の国家』になって、そして中国大陸とかとね、戦争が起こっていったわけで。
だから、それは実は竹内好がね、【二重性】、つまり『日本は西洋型でもあるけども、一方でやっぱりアジアの一員だから、アジアの諸国の独立ということも考えていた』という。
西部先生の仰ることも分かると同時に、私はやはりその、その時に『特攻』だけではなくて、「戦って死んでった人間が、何を戦ったのか?」というと、彼らはやはり【大東亜戦争を戦った!】、理屈じゃなくて、こういう人生を生きて死んでったという『事実』というか、『歴史』を日本が持っているということは大事にしたいなぁと。
もちろん、大東亜共栄圏とか八紘一宇とか、いろんな言葉ってスローガンになる。これは、民主主義とか平和とか自由とか平等とか、全部そうですけども、言葉って常に使い方一つで【胡散臭く】なりますね。そこのところを常に考えながらというのではないと、この問題もどっちがいい、何が悪いってことが簡単に言えないんじゃないかなぁと、ちょっと考えててそんなことを思いました。
いや仰る通り。
まさにそうですね。
【次週予告部分】
小林麻子
あの戦争は「侵略戦争」というふうに学んだような気がするんです・・・。
あぁ。それが何か、「戦後の常識」になっているんですが、どこの国民、どこの民族といえども、『自分のした戦争を“侵略戦争”という者はいないんですよね。』
【いかに日本を挑発して、最初に日本に先制攻撃をさせるか。】
【ハル・ノートを飲むというのは、国家的自殺。】
経済とかいろんなもので、【既に戦争をアメリカは始めていた。】
西洋をどう受け容れるかという、【西洋との戦い】があった。
西洋を100%近く模範、『範』として、それで近代に入った。
日本人の明治維新以降の『思想的な課題』が、突きつけられていた。
大東亜戦争というのは、思想的な面だけをつまんで言えば、【近代の超克戦争】なんですよね。
何を『超克』すべきなのかということも、本当に受容できてないで、超克はできないんじゃないか。